一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

『ナチ娯楽映画の世界』を読む。

2005-03-25 06:35:39 | Book Review
この本について触れる前に、小生の興味関心のありようを述べておく必要があるだろう。
大きいのが、全体主義体制下(ナチス・ドイツ、スターリン支配下のソ連、「皇道軍国主義」下の日本など)において、芸術や娯楽はどのような圧迫を受けるのか、という関心である。

まず、ナチス・ドイツでの音楽のありようは、エリック・リーヴィー『第三帝国の音楽』(名古屋大学出版会)で、ある程度分った。音楽に関しては、「ヒンデミット事件」(ヒンデミット作曲『画家マチス』が前衛的だということで当局から上演禁止処分を受け、フルトヴェングラーがそれに抗議した、という事件)に端的に表れているように、知識人弾圧の一環として統制が行われた節が強い。だから、一般大衆向けには、党イデオローグが攻撃したジャズでさえ許容されていた。その理由として次のような記述がある。
「ポピュラー娯楽音楽を禁止した場合、広範な大衆をナチズムに引き入れることが不可能になるということだった。そのためラジオ当局がジャズを禁止したにもかかわらず、依然としてラジオ中継でドイツの楽団が演奏する人気のスウィングの曲を聴くことは可能だった。戦争が勃発すると、ゲッベルスはポピュラー音楽が娯楽と気晴らしを提供し、軍隊の志気を高めるのに役立つと考えたため、この種の音楽はさらに重視されるようになった。」(前掲、リーヴィー著)

このような事情は、瀬川著によれば、映画の場合も変りないようである。
「本書で明らかになったのは、たとえ世界史上最悪の部類に属する政府のもとで生み出されたものであろうとも、『観客を楽しませるための映画』の本質は、現代の私たちが一般に抱くイメージと変らなかったということであった。」
確かに、ナチ政権はフリッツ・ラングの『怪人マブゼ博士』を上映禁止にした。しかし、それはこの映画が反ナチス的であったからではなく、犯罪者を許容し、それにふさわしい罰を受けさせないという、反社会性を持っていたからであった。つまり、
「ナチスの対娯楽映画政策とは、それまでのドイツ映画に『特殊ナチ的』要素をつけ加えるというプラスの行為よりも、既存のものに制限を加えていくというマイナス方向の行為にこそ本質があった」(前掲、瀬川著)
のである。

音楽の場合も、映画の場合も、ユダヤ人やマルクス主義者の追放があり、かなりの人材が国外に流出した(映画人の場合は、ハリウッドに向った率が高い)。
しかし、それを重要視するあまり、ドイツ国内には「値打ちのある文化がひとかけらも存在しなくなった」とするのは、「陳腐であるばかりか誤った歴史観」である。

以上のようなことを、具体的な事実に即して実証したのが、リーヴィーと瀬川の著書であろう。
今後、スターリン体制下における、このような実証的研究書を探していきたい(それにしても、北朝鮮での一般大衆の娯楽というのは、どうなっているんでしょうねえ)。

瀬川裕司
『ナチ娯楽映画の世界』
平凡社
定価:2,310円(税込)
ISBN4582282385


『日本の黒い霧 新装版』を読む。

2005-03-24 00:13:45 | Book Review
「戦後日本で起きた怪事件の数々、その背後にある恐るべき米国の謀略を暴く」と帯のコピーにあるとおりの内容であるが、少々説明が必要だろう。

「戦後日本」といっても、正確には昭和20(1945)年から昭和27(1952)年までの連合軍(=アメリカ軍)占領下の日本("Occupied Japan")のことである(昭和26年講和条約調印、翌27年発効)。
したがって、この書で取り扱われている「下山事件」や「帝銀事件」「松川事件」などは、日本国内だけの状況を見ていただけでは真相は解明できない、というのが著者の基本的な考えである。
つまり、連合国総司令部(GHQ)内部の主導権をめぐる対立・抗争(ニュー・ディール派=GS:民政局と、反ニュー・ディール派=G2:参謀部第2部作戦部)が、さまざまな奇怪な事件を引き起こす要因となったとする。そして、これらの事件はアメリカ軍の極東戦略(最終的には「朝鮮戦争」として具体化した)につながるきわめて政治的な謀略に基づいていた、と結論づける。

具体的に、松本推理に取り上げられている事件は、上下巻6件ずつ、計12件である。中には、占領軍の謀略とするよりは、国内の政治的汚職事件にGHQが巻き込まれたと言った方がよいのでは、と思われる「二大疑獄事件」などの例もある。しかし「下山国鉄総裁謀殺論」「帝銀事件の謎」「推理松川事件」など、明らかにGHQの謀略を考えると解明がしやすい事件もある(ただし「帝銀事件」には、GHQの手を逸脱した元《731部隊》隊員による、単独犯行を思わせる要素もあるが)。
したがって、後に『事件』を書くことになる大岡昇平のように、
「松本にこのようなロマンチックな推理をさせたものは、米国の謀略団の存在である。つまり彼の推理はデータに基いて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基いて事実を組み合わせるという風に働いている」
との批判も出てきても不思議はない(現在なら「陰謀史観」批判か?)。
また、今日の目から見た場合、もう既にかなりの事実が明らかになっているケースもないわけではない(裁判を通じての「松川事件」のように)。

しかし、この書が書かれた昭和35(1960)年という年を考える必要があるだろう。まだ占領が実質的に終了してから10年も経っていないのである。この時点での考察としては、先見性のあるものと言わざるを得ないだろう。特に、未解決のまま今日にまで至った「下山事件」「帝銀事件」などの記述には、見るべきものがある。

さて、今日、戦後の総決算(日本国憲法改訂論議など)が言われ、対米従属外交の是非が話題に上っている。そのような時期に、この書が新装版として出版されたということは、戦後史に向き合うように慫慂されている気がしてならない。

小生の感慨はともかく、歴史から何らかの教訓を汲み取りたい向きにも、単に本格的な社会派推理小説が少なくなったとお嘆きの向きにも、お勧めしたい。

松本清張
『日本の黒い霧 新装版』(上)(下) 
文春文庫
(上)(下)とも定価(本体638円+税)
ISBN4167106981

『浅草十二階 塔の眺めと《近代》のまなざし』を読む。

2005-03-23 00:26:35 | Book Review
明治23(1890)年から大正12(1923)年の関東大震災まで、東京浅草に《凌雲閣》という塔が建っていた。
通称《十二階》、高さ173尺(約52メートル)、10階まで煉瓦造り、その上に木造2階部分を持つ「明治一の高塔であり、東京のランドマークだった」。
その物理的な高さが持つ意味よりも、「街のあちこちから塔が見え、塔をまなざすと、塔からのまなざしが感じられる」という、《近代》のまなざしが、当時の人々にとってどのようなものであったかを探るのが、本書のねらいである。

まずは「上昇感」と「所有感」。
塔の1階から8階まで、電動の「エレベートル」が設置されていた。速度は毎秒数十センチメートル、地上階から最上階まで約2分かかったという。しかし、当時の人々にとって、この体験は初めてのもので、
「四方の窓外を眺むれば夢の如く九層の階上に達する」
という《だまし部屋》のような効果を持っていた。
当然、高い場所からの視線は、関八州を一望に収めうる。そこには、人々の《所有》
するという欲望を喚起すると、著者は指摘する。
「上昇感」と「所有感」、塔の持主は自覚的にそれらを喧伝する。
《近代》以前にはない欲望の喚起である。
以下、パノラマ館との《まなざし》の比較、啄木の見た/見られた塔のあり様、と記述が続く。

しかし、塔は関東大震災によって崩壊する以前に、その役割をすっかり変えていた。
明治44(1911)年、白木屋にエレベータが設置される。そして大正3(1914)年には三越にも。
「上昇することが、百貨店の快楽として演出され始めたのだ」
「かくしてメディアに現れる十二階からの隠れたまなざしの担い手は、東京人、次に田舎者を経て、大正期には『女小供』へと移ったのだ」

そして、関東大震災による塔の物理的な崩壊。
「明治の高塔は、倒れたあともなお、二つのまなざしの乖離、すなわち塔から眺めることと塔を眺めることの乖離を体現している」
のである。

今日、高層ビルの林立した東京において、《十二階》ほどの意味をもつ建築はあるだろうか。すでに、人々の《まなざし》自身が変容している、ということを考慮に入れた上でもなお、《十二階》の幻は人々を誘ってやまない磁力を発揮しているのではないだろうか。
『緋牡丹博徒・お竜参上』『関東無宿』『帝都物語』『十二階の棺』『菊坂ホテル』『かの蒼空に』『サクラ大戦』など、メディアに現れ続ける《十二階》は、そのようなことを物語っている。

細馬宏通
『浅草十二階 塔の眺めと《近代》のまなざし』
青土社
定価:本体2,400円(税別)
ISBN4791758935


「ことば」は変化するというものの……。

2005-03-22 19:10:48 | Essay
幸田文『みそっかす』を読んだ。
今は使われていないことばが目につく。知らないことばもあれば、聞いたことがあって多少は意味がわかることばもある。
第一、題名の「みそっかす」など、今も使っているのかしらん。「駟もまた及ばぬ早さ」などは知らなかったが、意味の見当はつく。おそらくは「四輪馬車(中国のチャリオットか?)でも、追いつかない程の早さ」だろう。この辺は、露伴用語という匂いがする。
「間がな暇がな」などは聞いたこともないが、文脈で判断はできる。「一日中」とか「暇さえあれば」との意だろう。これは江戸風のことばか? 「気ぶっせい」「じぶくる」などは、意味は何となくわかるようなものの、ニュアンスが掴めそうで今ひとつ掴めない。
これが衣服(和服)の用語となると、まるで外国語。ドゥーデンの絵引きのような辞書がほしいところ。困ったもんだ。

『漱石の記号学』を読む。

2005-03-22 00:20:30 | Book Review
ここで著者・石原千秋氏が言う《記号学》とは、
「『漱石』を歴史的文脈に置き直すことで、『漱石神話』を、いや『漱石神話』の〈読者〉を問い直すこと」(「はじめに」)
である。つまりは、「則天去私」のようなフレーズに、教訓じみた意味を持たせるのではなく、「歴史的文脈」の中に置き換えることで、「時代の言葉」としての意味を浮き彫りにしようとするのであり、同時代文学として、読者がテクストから受け取って意味を明らかにしようとする試みである。

そのために著者に選ばれたキー・ワードは、「次男坊」「長男」「主婦」「自我」「神経衰弱」「セクシュアリティー」である。「セクシュアリティー」だけは、多くのことばを代表しての単語であるが、他はすべて漱石文学にそのままの形で登場する。

分りやすい例を挙げると「神経衰弱」。
「神経衰弱とヒステリーは時代とともに生れ、時代とともに消えた『病』なのである」(「第五章 神経衰弱の記号学」)が、漱石文学では『猫』から既に登場している。
「運動をしろの、牛乳を飲めの、冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になつたら山の中に籠つて当分霞を食へのとくだらぬ注文を連発する様になつたのは、西洋から神国へ伝染したバン近の病気で、矢張りペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていゝ位だ」
ここでは皮肉混じりに使用されている「神経衰弱」も、『道草』では夫婦間の非言語的交通(ノンバーバルコミュニケーション)として、女性の「ヒステリー」に拮抗するものとして表現されていると著者は言う。
また、『行人』の一郎に関しては、「まちがいなく性差のある言説で自己の『不安』を編成しているのだ。一郎は、『文明の病』としての神経衰弱を、さらに先鋭化させて、〈知〉の病に作り変えることで、自らのアイデンティティーを生きていると言えよう」。
したがって、「漱石文学において、男であることは神経衰弱を病むことに外ならなかった。すなわち、男として生きることは、一つの悲劇であったのだ。その意味で、神経衰弱とは無縁の『三四郎』の小川三四郎、『明暗』の津田由雄の存在は興味深い。彼らはどのような『男』だったのだろうか」と、疑問を投げかけて、次章の「第六章 セクシュアリティーの記号学」へ論旨を進めていく。

これで、著者の方法論と構成について、概略は分ったであろう。
確かに、この方法論・構成によって、今までの文藝評論には見えてこなかった部分が、明らかにされた側面がある。
ただし、新聞小説の読者が、そこまでの深い意味を受け取っていたかどうか、その点に若干の疑問は残る(無意識の内に受け取っていた、と言われればそれまでなのであるが)。
そういう意味から見れば、著者にとっては、やや本筋からずれた話題にはなるが、「終章 方法としての東京」の方が、現代の読者にとっては、納得がしやすいことであろう。

石原千秋
『漱石の記号学』
講談社選書メチエ156
定価:本体1500円(税別)
ISBN4062581566


江戸のブラック・ユーモア

2005-03-22 00:00:25 | Essay
鶴と亀に関する表現、東西一題ずつ。
まずは西からは地口。
「鶴は煎餅噛めませんねん」
じっくりと口に出せば、もう一つの意味は分かろうというもの。
やや長いフレーズを、ダブル・ミーニングにした手腕はお見事。
対する東は川柳の前句付け。
「鶴の死ぬのを亀が見ている」
前句があったのだろうが、それは不明。ない方がかえって理に落ちず、シュールな雰囲気が出ている。
江戸時代のブラック・ユーモアも、なかなか大したもの。

『私の「漱石」と「龍之介」』を読む。

2005-03-21 00:26:08 | Book Review
百間にとって夏目漱石は文学上の「師」、芥川龍之介は「友」ということになる。
ただし、漱石は「師」と言っても、寺田寅彦や小宮豊隆のように、学校で英語や英文学を教わったという関係ではなく、いわば私淑して木曜会などに出入りするようになった。
また、芥川も、同窓関係にはあったが、より深いつながりができたのは、木曜会への出席を縁にしてのことである。
そのような関係でもあり、一癖も二癖もある百間のことであるから、さぞかし風変わりな面が描かれているかと期待すると、意外に素直な観察に驚かされることだろう。特に、芥川の項目は、意外な一面が描かれていて、興味深く読むことができる。

まずは「竹杖記」にある、海軍機関学校教官への就職斡旋の件。
「機関学校の件なども、私から見れば、芥川が適材をもとめたものとは考へられない。私に祖母があつて、その当時、もう八十に近かった。私が薄給で家族が多く、毎月の暮しに困つてゐるところへ、機関学校の口が一つ殖えるやうな話になつたので、祖母が非常によろこんだのは云ふまでもない。芥川も『君のお祖母さんがよろこばれるだらうから』と云ふ事をよく云つた」
など、世話好きな側面が描かれている。

また、芥川の茶目な一面。これも「竹杖記」より。
同じく機関学校でのこと。この学校では「食堂には食卓が縦長の馬蹄形に置かれて、その突当りの主卓の真中に、校長が座を占め、校長に面した前側は、毎日順番が変はつて、異つた顔振れが入れ代はつて列ぶのである。その席に芥川が出た時に、老校長と議論を始めたのである」
「しまひには校長がわつはははと、浪の崩れるやうな大笑をして、立ち上がつた時、芥川がどんな顔をしてゐたか覚えてゐない。話しの切れ目がどう云ふ事になつたか、全然記憶もなく、丸で取り止めもない長閑な議論だつたのである」
など。

以上のような記述から得られる芥川は、いかにも下町育ちの芥川である。

もちろん、芥川の死を悼む文章も、有名な「湖南の扇」「亀鳴くや」など収められている。

一読して感じるのは、内田百間の芥川に対する友情であろうし、芥川の人懐っこい、百間に対する友情であろう。神経質な憂い顔の写真でしか芥川を知らない方々に、この百間の目を通しての、また異なる芥川像を得ていただきたい。

内田百間
『私の「漱石」と「龍之介」』
ちくま文庫
定価:714円(税込)
ISBN4480027653


「門構え」に「月」という漢字がないので、「間」を以て代用する。諒とせられよ。

笑いの力

2005-03-20 11:48:54 | Essay
古代、「笑い」には力があった。
そのことは、天岩戸神話を思い返しただけでも想像がつく。神話でアマテラスは、ウズメの踊りによって沸き起こった笑いに、ついつい隠れ場所から顔を出してしまう。
つまり「笑いの力」による死からの再生が、この話のテーマなのだ。

さて、「笑いの力」という信仰を、かろうじて留めているのが芸能である。なぜ、『古今和歌集』を初めとする勅撰和歌集に、「誹(俳)諧歌」という部立てがあるのか、幽玄を旨とする「能」に「狂言」が付き物なのか、などの疑問は、この仮説によりきれいに解けてしまう。

『古今和歌集』仮名序にあるように、和歌は「力をも入れずして天地を動か」すという言霊信仰に基づいている。しかも、勅撰和歌集は、この国土を、和歌という特殊な形態のことばによって言祝ぐものであった。けれども、マナの力(呪力)が強ければ強い程、方向を間違えた時の反作用も大きい。万が一の危険を避ける安全装置として、勅撰和歌集に組み込まれていたのが、「笑いの力」をもつ「誹諧歌」だったのである。

『薮の中の家―芥川自死の謎を解く』を読む。

2005-03-20 00:20:40 | Book Review
副題のとおり、昭和2(1927)年7月24日の芥川自殺の真相を探るノン・フィクションである。
著者が探っていく「謎」とは、煎じ詰めると、
「彼はどんな薬物/毒物を飲んで死んだのか?」
「それを彼に提供したのは誰なのか?」
という2点になる。その意味からすれば、推理小説的な興味をそそるのに十分な「謎」ということになる。
ただ、著者の興味が、文学者としての芥川像や、彼をめぐる人物像(親類縁者・女性・友人など)に拡散していくために、「謎」解きの展開としては焦点が散漫な印象を受ける。一直線に根本的な「謎」に迫っていった方が、より興味深い読み物となったのではなかろうか。

従来、新聞報道などを元に、「ヴェロナール及びジャール(両方とも睡眠薬)の致死量を仰いで自殺した」とされてきた。しかし、著者の調査によれば、致死量の睡眠薬を飲むとすれば、かなり多量のものを必要とし、しかも胃腸に故障のある芥川は、嚥下する以前に嘔吐してしまうはず。
したがって、薬物ではなく毒物を使った可能性が高い。
また、芥川の自宅のある田端での主治医/家庭医である下島医師は、その日記に(「下島日記」発見の件は、この本での最も興味深い部分)、
「二階(書斎)へ行き真相が諒(わか)つた」
と述べている。その真相を探るのが大きな筋の一つ。

以下、「ネタバレ」になる可能性が高いので注意されたし。

真相は、意外な人物が述べていることが分ってくる。それは、「龍門の四天王」の一人、小島政次郎。
「『何かいゝ薬はないんですか、苦痛なく、一瞬に死ねる……』
『あるさ、青酸加里……』
 芥川は待っていたように答えた。
(中略)
 事実、死後彼の書斎の机の上に一ト壜載っていた」
それでは、その薬物はどこから手に入れたのか?
本書では、そのルートが推測まじりではあるが、あっさりと書かれている。この部分をもっと膨らませば、推理小説的な面白みが出てきただろう。
以下は本書を読んでのお楽しみということにしておこう。

推理小説とすれば、やや構成に難ありといったところだが、ノン・フィクションである。そう思えば、それなりに興味深く読める本であることは間違いない。
芥川とその死に関してご興味をお持ちの方には、お勧めの一冊である。

山崎 光夫
『薮の中の家―芥川自死の謎を解く』
文藝春秋
定価:1,619円(税込1,700円)
ISBN:4163530207


『住所と地名の大研究』を読む。

2005-03-19 00:18:59 | Book Review
エッセイスト今尾恵介氏の地名に関する造詣が、全面展開された書である。
前著『地図を探検する』(新潮文庫・本版はけやき出版刊『地図ざんまい・しますか』)の、「II 地図を読む」中の「番地はどう並んでいるか」と、「III 地図を眺める」中の「消えていった銀座の地名」の発展編といってもいいだろう。
本書では「I 大字とは何か――地名の階層」が概論、「 II~IV 」と各論があり、「V 地名が消えるとき――「下田」保存運動・失敗の記」が実践編といったところか。

小生の興味からいえば、Part I 、V および「IV 日本の住居表示はどこが問題か」が面白くかつ有意義に読めた。

特に、日本の地名で合併などの際、いつも問題になる「旧地名の消滅」の解決策として、大字や小字の利用を強調しているのが参考になった。
本書の紹介で言えば、秋田県の1町4村が合併し「男鹿市」となった場合、「脇本村(大字)浦田」を「男鹿市(大字)脇本浦田」とするという例である。

また「住居表示」(「住居表示法」に基づくシステム)の問題点も整理されていて、分りやすい。

一つ挙げれば、「実施基準」(「街区方式に適した規模」)の杓子定規な適応によって、小さな町が消滅し大きな町に一本化されたため、かえって目的地が分かりにくなったという問題がある(もちろん、歴史ある町名を滅亡させたという罪も重い)。
東京の例では、本郷、赤坂、六本木、浅草、上野などが、とてつもなく範囲が広くなり、◯◯何丁目とだけでは、どこだか検討もつかない、ということがある。
もっと広い地域にしてしまった例として、名古屋市の例が挙げられているが、小生この地域には詳しくないので省く(旧町名が、栄、新栄、桜、丸の内などに統合されたとのこと。ちなみに、栄は旧52町を含んでいる由)。

「赤坂や本郷の旧町こそ適正規模だと考えている。適度に細かく区分された町名+おおむね2ケタの番地というのは空間認識しやすく、覚えやすい」という著者の意見に、小生も賛成する。
しかも、歴史的な地名を抹消したために、過去をさかのぼるのに、とてつもない手間暇がかかることにもなる(過去の地図を入手するところから始めねばならない)。
例えば、谷崎潤一郎の生誕地「日本橋区蛎殻町2丁目14番地」とは現在のどこか、永井荷風の住んでいた偏奇館のあった「麻布区市兵衛町」とは現在はどこなのか、等々。
これらに比べれば、「住居表示」に反対し旧町名を残している牛込地区では、「早稲田南町17番地」という漱石山房の住所に変更がない(現在は「漱石公園」)。
このような事情は、有名人に限ったことではない。父親が結婚するまで住んでいた場所とか、曾祖父が関東大震災前に店を開いていた場所、などを調べる場合も同様。

「地方の時代」とか「身近な郷土に愛着を」などということばをお題目に終わらせないためにも、一人一人が地名や「住居表示」に正しい認識を持つべきであろう(そうでないと、愛知県の「南セントレア市」や千葉県の「太平洋市」などの突拍子もない名称が、再三再四、行政サイドから出てくる虞れがある)。
そのような意味からも、時宜を得た刊行であると思う。

今尾恵介
『住所と地名の大研究』
新潮選書
定価:本体1,300円(税別)
ISBN4106035359