一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『僕の叔父さん 網野善彦』を読む。

2005-03-18 00:21:31 | Book Review
人が何か新しい考え方を理解するためには、「時」が必要であるようだ。
「時」と言っても、漫然とした時間の経過ではなく、そこには知識の増加や経験の蓄積がなければならない。
知ったことや、パターン認識によって得た経験則などが積もり積もって、ある時、臨界点に達する。そこで、やっと人は新しい考え方を理解することができる。

小生、今まで、網野善彦の歴史観に関しては、理解できなかった。ただ、著書のところどころに、面白いアイディアだと感じる点があったり、思いがけない視点を見い出すだけであった。
ところが、最近になって、ようやくある程度、理解できるだけの用意がこちらにも備わり始めたようだった。そこへ、本書『僕の叔父さん 網野善彦』の登場である。
本書「第1章『蒙古襲来』まで」は、いわば前史であろう。著者中沢新一氏の視野に網野史学の形成過程が、《叔父―甥》という関係を通じて入って来る由縁を描く部分(ちなみに、人類学では《叔父―甥》の関係というのは、「権威の押しつけや義務や強制は発生しにくい」というのが法則であるとのこと)である。

「第2章 アジールの側に立つ歴史学」が、網野歴史学の核心に触れる部分

アジールというのは「神や仏の支配する特別な空間や時間」のことで、「そこに入り込むと、もうそこには世俗の権力やしがらみによる拘束が及んでいない」。
したがって、
「アジールの外でたとえ罪を犯した者でも、そこへ逃げ込めばもう法律の追求は及んでこられなかったし、いやな結婚から逃げたいと思っている女性や、苦しみ多い奴隷の生活から脱出したかった者も、多額の借金をかかえてにっちもさっちもいかなくなった者などでも、アジールの空間に入り込めば、いっさいの拘束や義務から自由になることができたのである」。

網野善彦という歴史家は、
「そのアジールを現実の中に生み出そうとする試みを、歴史的事実の中から探し出すこと。そしてアジールを消滅させていこうとする勢力にではなく、その逆に地上にアジールを実現していこうとする試みの側に立って、歴史の意味を根底から問い直して行くこと」
を目標として学問を行なってきた。
その結実として、まず『無縁・公界・楽』(平凡社)が生まれたわけである。
そして、著者・中沢新一とのやりとりの中から、人類学的知見の成果も取り入れられることになる。そのやりとりが、本書の一つの読みどころとなっている。
八重山群島の「アカマタクロマタ祭祀」や本土中世の「座」によって、芸能と貨幣とが、アジールで重要な役割を果たしていることの発見!
「原初の森の中にひっそりとつくり出されていた古代のアジール(一風斎註・平泉澄による対馬天童山のアジールの発見)と、中世の商人たちが貨幣の力と平等な人間関係をもとにして生み出そうとしていた自由の空間とが、同じ原理のもとに作動していたのではないか」
という直観。
歴史学のダイナミズムを感じさせる部分である。

網野歴史学の射程は、天皇制にまで向かう
その過程を描いたのが、次の「第3章 天皇制との格闘」である。

ここでの網野歴史学の紹介によれば、天皇制は「農業民」と「非農業民」の双方に根を下ろしていると考える。従来、重視されてきたのは、前者の側面であることは言うまでもない。「穀物霊をお祀りする神主のトップに立つ」天皇である。
政治的経済的には、
「日本は稲束の数で租税を徴収していましたから、その稲の霊を祀る最高の宗教者という資格で、日本全国を支配する存在であるということを、アピールすることもできた」
というわけである。
これに対して、「非農業民」――「山の民」「川の民」「海民」「諸職の民」「悪党」などは、租税徴収者(=官僚、官吏など)を媒介とせず、天皇とダイレクトなつながりをもって関係してきた、と説く。
これら「非農業民」を総動員して確立されたものが、後醍醐天皇の権力である、との考察が『異形の王権』にまとめられた。

ここで、本書をいささか離れると、1960年代には、宋学を背景にした中国的皇帝制を後醍醐天皇は目指していた、という説が最新だったように、小生は記憶している。
したがって、流布されている後醍醐天皇像は、宋代の皇帝の衣服を身にまとっているのだ、と説かれていた。
これに対して網野歴史学での後醍醐天皇像は、がらっと相貌を変える。『異形の王権』を読んだときには、小生には、そこまでの読み込みができなかった。どちらかといえば、従来の中国的皇帝制のバリエーションとしか思っていなかったようだ。
「異形」とは、後醍醐のみならず、その権力を支えていた「非農業民」を指していたのだ。

これらの考えの延長上には、
「人類の原初の知的能力を保存している者たちにほかならないこの間たち(一風斎註・「非農業民」)たちを差別に追い込む社会を、根底からくつがえしていくための歴史学を、網野さんは構想し、現実化しよう」
という課題が浮かんでくる。
しかし、道半ばにして、網野善彦はこの世に別れを告げた。

「記念の石などは建てないほうがよい。それよりも、生きている者たちが歌ったり、踊ったり、書いたりする行為をとおして、試みに彼らをよみがえらせようと努力してみることだ。」

『僕の叔父さん 網野善彦』
中沢新一
集英社新書
定価:660円+税
ISBN4087202690