一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

パセリと宗教的タブー

2005-03-25 16:34:14 | Essay
年下の友人と食事をしている時に聞いた話である。

学食でハンバーグ定食を食べ終わると、それを見計らったかのように、西欧系の外国人留学生が声を掛けてきた。何かと思い緊張した耳に入ってきたのは、やや発音がおかしいものの、文法的には正確な日本語での、
「日本人が付け合わせのパセリを残すのは、何か理由があるのか?」
という質問であった。
彼にも理由は分からないものの、何も答えられないのは悔しい。
そこで、宗教上の理由から残すのだ、と自信ありげに答えた。
その留学生、後から聞くところによれば、鈴木大拙と禅の研究に日本にやってきたそうだ。それはどのような宗教観に基づくものか、肉食を禁止するタブーと関係するのか、仏教的なタブーなのか、それとも神道的なタブーなのか、あれやこれやと聞かれて往生したという。

そこまで話し終わった友人は、小生のパセリだけが載った空っぽの皿を見て、こう言った。
「ところで、日本人は、なぜパセリを残すんでしょうかね?」

『ナチ娯楽映画の世界』を読む。

2005-03-25 06:35:39 | Book Review
この本について触れる前に、小生の興味関心のありようを述べておく必要があるだろう。
大きいのが、全体主義体制下(ナチス・ドイツ、スターリン支配下のソ連、「皇道軍国主義」下の日本など)において、芸術や娯楽はどのような圧迫を受けるのか、という関心である。

まず、ナチス・ドイツでの音楽のありようは、エリック・リーヴィー『第三帝国の音楽』(名古屋大学出版会)で、ある程度分った。音楽に関しては、「ヒンデミット事件」(ヒンデミット作曲『画家マチス』が前衛的だということで当局から上演禁止処分を受け、フルトヴェングラーがそれに抗議した、という事件)に端的に表れているように、知識人弾圧の一環として統制が行われた節が強い。だから、一般大衆向けには、党イデオローグが攻撃したジャズでさえ許容されていた。その理由として次のような記述がある。
「ポピュラー娯楽音楽を禁止した場合、広範な大衆をナチズムに引き入れることが不可能になるということだった。そのためラジオ当局がジャズを禁止したにもかかわらず、依然としてラジオ中継でドイツの楽団が演奏する人気のスウィングの曲を聴くことは可能だった。戦争が勃発すると、ゲッベルスはポピュラー音楽が娯楽と気晴らしを提供し、軍隊の志気を高めるのに役立つと考えたため、この種の音楽はさらに重視されるようになった。」(前掲、リーヴィー著)

このような事情は、瀬川著によれば、映画の場合も変りないようである。
「本書で明らかになったのは、たとえ世界史上最悪の部類に属する政府のもとで生み出されたものであろうとも、『観客を楽しませるための映画』の本質は、現代の私たちが一般に抱くイメージと変らなかったということであった。」
確かに、ナチ政権はフリッツ・ラングの『怪人マブゼ博士』を上映禁止にした。しかし、それはこの映画が反ナチス的であったからではなく、犯罪者を許容し、それにふさわしい罰を受けさせないという、反社会性を持っていたからであった。つまり、
「ナチスの対娯楽映画政策とは、それまでのドイツ映画に『特殊ナチ的』要素をつけ加えるというプラスの行為よりも、既存のものに制限を加えていくというマイナス方向の行為にこそ本質があった」(前掲、瀬川著)
のである。

音楽の場合も、映画の場合も、ユダヤ人やマルクス主義者の追放があり、かなりの人材が国外に流出した(映画人の場合は、ハリウッドに向った率が高い)。
しかし、それを重要視するあまり、ドイツ国内には「値打ちのある文化がひとかけらも存在しなくなった」とするのは、「陳腐であるばかりか誤った歴史観」である。

以上のようなことを、具体的な事実に即して実証したのが、リーヴィーと瀬川の著書であろう。
今後、スターリン体制下における、このような実証的研究書を探していきたい(それにしても、北朝鮮での一般大衆の娯楽というのは、どうなっているんでしょうねえ)。

瀬川裕司
『ナチ娯楽映画の世界』
平凡社
定価:2,310円(税込)
ISBN4582282385