一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「死の不条理さ」を体現する黒旋風・李逵

2007-02-23 10:33:59 | Essay
李逵(りき)というのは、言うまでもなく『水滸伝』の登場人物の一人。
高島俊男の『水滸伝の世界』を引けば、
「李逵は、水滸伝の主要人物のなかで独立の物語を持たぬ数すくない人物の一人である。にもかかわらずわたしは、李逵を、宋江とともに、水滸伝の主人公である、あるいはすくなくとも梁山泊集団の性格を代表する人物であると考えている。
李逵の殺人は枚挙にいとまがない。李逵に殺された人間の数をかぞえることは誰にもできないであろう。彼は、文字通り、手当たり次第に人を殺すからである。」

高島氏の評価はともかく、小生は、この不条理な殺人が、そのまま「死」の不条理を表していると思えるのね。

誰にとっても「死」は不条理であります。
その原因、理由の如何を問わず、
「因果応報がおそらく成り立たないとすれば、死は不条理な強制であり、すべての人間を平等に襲う。」(加藤周一「夕陽妄語」、2月20日付け「朝日新聞」夕刊掲載分より)
のであります。
まあ、その不条理さを納得する/させるために、宗教や藝術が生まれたといってもいいのかもしれない(「あの人が死んだのは、これこれの理由によって必然である」!)。

ですから『水滸伝』というお話のほとんどで、人の死には理由付けがなされています。
林冲の妻は、彼の留守中に高衙から縁談を迫られ首を縊って自死しますし、武松は、金蓮と西門慶を、兄の仇討ちとして殺すのです。

しかし、李逵の場合はそうではない。
まさに「無目的」な殺人なのです。

再び、高島氏の文章を引きます。
「この李逵の殺人(引用者註/第73回での「魔物退治」のエピソード)が、さきに述べた魯達、武松、林冲の殺人とよほど趣きを異にすることは、誰の目にも明白であろう。この殺人には、必然性というものがまるでない。鄭屠のあくどいやりかたに対する魯達の義憤、兄を殺された武松の怒り、妻を奪われ、人生をめちゃくちゃにされた林冲の恨み、といった心理的衝動もない。生命や生活の安泰を賭したリスクもない。といって、若い二人の忍ぶ恋に倫理的憤りをおぼえて二人を殺したのでもない。彼はただ、人を殺すのが好きだから、人を殺すのが楽しいから殺したにすぎない。」
この無目的性は、実に現代的ですね。

なぜ、現代的なのか。
「神の死んだ」現代では、すべての「死」は不条理だからですね。
そこには「死における平等」はあっても、「死における必然性」はない。
現代に生きる私たちは、誰もが、「李逵の殺人」の前に立っている。
そこから、どのような藝術が生まれるのでしょうか(神秘的なる「神」を信じることのできたメシアンは、幸いなるかな)。

高島俊男
『水滸伝の世界』
ちくま文庫
定価:840円 (税込)
ISBN978-4480036865