一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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実践的物語論(番外) -『天保悪党伝』での「悪」の形象化【その3】

2007-02-11 08:33:33 | Criticism
世の中には「悪」でしか対抗できない存在がある、という認識が「悪党小説」の背景にはあるようなのね。

もちろん「正義」が最終的には勝利する、という認識に基づく物語も多々ありますが、少なくとも擦れっ枯らしの江戸人などは、それでは満足できない。
なぜなら、実際の世間で、「正義」が打ち倒される/無力である状況をたびたび味わってきたからです。

そのため、世の中の「巨悪」や権力に「悪」が立ち向かい、成功する(あるいは最終的に失敗するものの、なんとか良い線までいく)、という物語に拍手喝采を送った。
そこには、自分たちができないことをしてのけたダーティー・ヒーローに対する共感や、その過程での胸のすくような爽快感を味わうことができるからです。

『天保悪党伝』の場合、読後に爽快感が少ないのは、『天保六花撰』の6人の相手が、さしたる「巨悪」ではない、ということもあるでしょう。
たとえば、「松江候玄関先の場」の場合、河内山がゆすりを行なうのは、「十八万石松平出雲守」に対してなのですが、この大名とて、さしたる悪事を働いているわけではない。
「さる大名屋敷に奉公に上げていた」町娘が、その意思に反して「屋敷の殿さまに側妾(そばめ)にと望まれ」た、というだけの話。
黙阿弥の歌舞伎の場合だと、河内山が正体をばらされてからの啖呵が聴きものなのですが、それは「巨悪」に対抗する「悪」への共感とは若干違う。

他のケースでも、大名相手の犯罪は行なわれても、それは「ゆすり」どまりで、権力の存在基盤そのものを揺るがす、ということにはならない。
所詮は小悪党の犯罪物語、ということになっています。
しかも、本書では、その犯罪者たちを等身大に描くことが目的なのですから、ますます爽快感からは遠ざかっていく(むしろ、ある種の「哀れさ」が先に立つ)。

まあ、その辺りが、いかにも藤沢版の『天保六花撰』ということができるでしょう。