中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

法隆寺の建物を中国語で説明する その2(中門、回廊)

2020年05月17日 | 中国語でどう言うか?

法隆寺中門

 それでは、前回に引き続き、法隆寺の建物を、中国語でどのように説明するか、お話します。2回目は、中門と回廊です。中門は、入って先ず目にする建物ですから、本当は、こちらが先に説明すべき建物です。

【日】法隆寺中門は同寺西院伽藍の正門で、飛鳥時代の建造物であり、正面4間の二層の楼閣であり、これも柱と柱の間の数が偶数です。
【中】中门是法隆寺西院伽蓝的正门,飞鸟时代建筑,面阔四间的两层楼阁,也是偶数开间。

五重塔でも説明しましたが、中門でも、柱と柱の間の間(ま)、中国語で「开间」の数が偶数になっていて、これはたいへん珍しいものです。

上の写真は鎌倉時代建立の東大寺南大門ですが、正面5間と、奇数になっています。京都の南禅寺三門、知恩院三門なども正面5間です。中国の寺院や王府の大門も同様です。

それでは、中門の内側に回ります。

【日】柱は外観上、両端が削られ曲線を描いた胴張りの柱です。
【中】柱子可见是两头卷杀的梭柱。

「梭柱」suōzhù 胴張りの柱。エンタシスの柱。「梭」は織機の杼(ひ)のことです。
「卷杀」juǎnshā 古建築の用語で、柱、梁、貫、斗拱、垂木などの端部を削って、ゆるい曲線をつけ、柱の外観を豊満、柔和にすることです。「entasis」の中国語訳。「凸肚状」と訳しても分かります。
ちなみに、ギリシャのパルテノン神殿は、「希腊的帕提农神庙」です。

織機の杼(ひ)

【日】中国北方では、胴張りの柱を見ることは非常に少ないですが、南方ではよく見かけ、清代までずっと用いられていました。
【中】在中国北方,梭柱实物非常少见,而南方较多,且一直用到清代。

山西平顺南社玉皇庙

广东肇庆梅庵

■回廊

法隆寺伽藍配置図

法隆寺回廊(南側)

【日】法隆寺の現存の回廊は、南半分が飛鳥時代の建築で、北半分は平安時代のものです。全体に凸字形をしていて、中門の両側から大講堂にまで通じています。
【中】法隆寺现存的的回廊南半部分是飞鸟时代的建筑,北半部分是平安时代的,总体凸字形,从中门两侧延伸至大讲堂。

【日】回廊は二本の柱から成り、二本の垂木を支える梁が軒まで通じており、柱と梁をつなぐ組物(斗拱)はいくつかの斗(ます)で直接、軒の横木を支え、大斗の下には皿斗が置かれ、梁の上は三角に組まれた人の字形の扠首(さす)で肘木を介して棟を支えています。 
【中】回廊为两柱式,二椽栿通檐,把头绞项作,栌枓下有皿板,二椽栿上以人字叉手托捧节令栱

・二椽栿

上の写真は、間に桁を入れて計4本の垂木で支える屋根で、その下に横に渡す梁は、4本の垂木を支えるので「四椽栿」と言います。同様に、二本の垂木を支えるために横に渡す梁を「二椽栿」と言います。

・把头绞项作

上図のように、軒柱(「檐柱」)の頭と梁(「栿」)の間に置く組物で、肘木(令栱)といくつかの斗(ます)で軒の桁(「檐檩」を支える)を支えるものを、「把头绞项作」と言います。「项」xiàngはうなじや襟首のことで、宋代建築で、柱の首のところを縛るような組物なので、こう呼ばれました。

・皿斗(「栌枓下的皿板」)

大斗(坐斗)の下に皿状の板を噛ませたもので、たいへん珍しい形状です。中国でも、山西省五台山南禅寺などでわずかに同様の事例が見られるそうです。

さて、西院伽藍の回廊は、当初は金堂と五重塔だけ囲う長方形でしたが、平安時代の延長3年(925)の大講堂の火災後、講堂も伽藍の中に取り込む、現在の形になりました。回廊も北半分が新たに作られましたが、講堂の部分だけを囲うように作られたので、凸字形になりました。新たに作られた回廊北側は、構造も当初とは多少異なっています。

 

梁の上の扠首の間に、束柱という短い柱(中国語で「蜀柱」と言います)が立てられています。実はこれ、この部分が建てられた北宋時代の中国から入ってきた建築様式なのです。

【日】法隆寺の大講堂は火災で焼失し、その時に回廊北側も焼失し、平安時代に再建されました。再建されたのがちょうど中国の北宋初期に当たり、そのため、回廊南側は飛鳥時代の様式ですが、北側は平安時代の様式で、両者の構造は異なり、北側の平安時代再建された回廊には、扠首の間に束柱が立っています。
【中】法隆寺大讲堂曾失火烧毁,也烧毁北部的回廊,在平安时代重建,重建时间相当于中国的北宋早期,所以回廊南部是飞鸟时代的,北部是平安时代的,两部分结构不一样,北部平安时代重建的回廊叉手间有了蜀柱。

もちろん、実際のガイドでは、ここまで細かい説明は必要ないですが、興味のある方は、雑学として聞き流していただければ幸いです。


法隆寺の建物を中国語で説明する(金堂、五重塔)

2020年05月15日 | 中国語でどう言うか?

法隆寺金堂

  前回、斗拱など、寺院の屋根の構造物をどのように中国語に訳すと良いかをまとめました。その中でも紹介しましたが、法隆寺の建造物はたいへん貴重な飛鳥時代の建物で、中国から伝わった南北朝時代から隋、唐の建築様式が、どのように日本で取り入れられたか、その実物を見ることのできる場となっています。
 今回は、法隆寺の金堂と五重塔について、中国語で説明する時の訳し方について、見ていきたいと思います。

■金堂

【日】法隆寺金堂は、飛鳥時代の建造物で、二層屋根の入母屋造り、後世に下層の周囲に裳階(もこし)が取り付けられたので、見かけ上、三層の屋根になっています。
【中】法隆寺金堂是在7世纪,飞鸟时代建筑,重檐九脊顶,后代在下面又加了一圈抱厦,所以看起来有三层檐。

ここの部分を少し解説します。

・重檐九脊顶
「重檐」は「屋顶重叠下檐」で、屋根の軒が二層(或いは何層か)に重なっていること。
入母屋造りは、通常は「歇山顶」xiēshāndǐngと言いますが、別称として、「九脊顶」
jiǔjǐdǐngと言います。宋代にこう呼ばれました。

下の絵は、入母屋造の屋根を表したものです。

この図の如く、「屋脊」、屋根の棟が、「正脊」(大棟)が1本、「垂脊」(降り棟)が4本、 「戗脊」qiāngjǐ(隅棟)が4本あります。棟が合計9本あるので、「九脊顶」と言います。
ちなみに、降り棟が「垂脊」から「戗脊」に下りる時、その間で一旦傾きが止まり、あたかもそこで一休みするような形状であるので「歇山顶」(「歇」は一休みするとの意味)という呼び名があります。

・抱厦
裳階。裳階(もこし)は、仏教寺院のお堂、塔などで、軒下壁面に付いた庇(ひ)状構造物。別名:雨打(ゆた)。本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けられます。
尚、蛇足ですが、中世以降、盛んに使用される唐破風も、「抱厦」と訳します。「龟头屋」という言い方もあります。唐破風は見た目、亀が首を出したように見えることから、こういうのでしょう。

法隆寺金堂の組物

【日】金堂の屋根には尾垂木が用いられていますが、尾垂木の下を支えるのは通常の肘木ではなく、雲肘木を用いています。
【中】金堂屋顶采用了昂,但昂的下面并不是使用常见的华栱,而是使用云形栱。

上の写真が、通常の「华栱」huágǒngです。「昂」ángは尾垂木。「华栱」は「抄」chāoとも言います。一手先斗拱は「出一跳斗栱」、簡単に言う時は「单抄」、二手先斗拱は「出两跳斗栱」、「双抄」という言い方になります。

軒を支える丸桁(がぎょう)の下の雲肘木

【日】斗拱の一番上側の肘木も、通常見られる肘木ではなく、雲肘木を使用しています。
【中】斗栱的跳头上也不是常见的令栱,使用云形栱。

「令栱」lìnggǒngはこのように、丸桁(がぎょう。「檐檩」yánlǐn)をすぐ下で支える肘木です。
「跳头」tiàotóuというのは、一手先、二手先と斗拱を何層か重ねる時、「华栱」や「昂」が外に飛び出ることを言います。

尾垂木の下を頭に桝(「斗」)を載せて踏ん張っている獅子もユーモラスです。この獅子は、屋根の補強に後世に取り付けられたそうです。

龍の彫り物のある柱

【日】第二層の龍が巻き付いた柱は、後世の修理時に取り付けられたものです。
【中】第二层的缠龙柱是后代修理时追加的。

この龍の柱は2層目の屋根の四隅に建っていて、柱に彫られた龍は、登り龍が2本、降り龍が2本です。江戸時代に大屋根の軒が垂れ下がってこないよう、補強材として建てられたようです。

龍の柱と高欄

【日】第二層の高欄には人字形割束(にんじけいわりづか)が使用されています。中国では、敦煌壁画や古い時代の磚や石の建造物で、人字形割束が広く使われていましたが、木造建築の実物は残っていません。
【中】第二层勾栏上还保存有人字栱。在中国,虽然敦煌壁画及早期砖石建筑中,人字栱应用广泛,然而木造建筑已没有存在。

敦煌莫高窟275窟壁画(北凉)

大同雲崗石窟(北魏)

【日】大同雲崗石窟の北魏時代の建物の形態の中に、既に人字形割束が現れています。
【中】大同云冈石窟北魏时期的建筑形象中就已经出现了人字栱

雲崗石窟高欄

【日】金堂の高欄の様式は、雲崗石窟の中に同様のものを見つけることができます。
【中】金堂勾栏的样式在云冈石窟也能找到相同的

ここで、高欄の模様は、「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうらん)」、中国語で言うと、「卍wàn字搞乱花样的勾栏」です。

■五重塔

 

【日】法隆寺五重塔は金堂同様、飛鳥時代の建築で、金堂と東西に並び、高さ32メートル余り、五層で、後代に一番下層の周囲に裳階が取り付けられたので、六層の屋根となっています。
【中】法隆寺五重塔也与金堂一样,飞鸟时代的建筑,与金堂东西并列,高32米余,五级(层),后代在最下面加了一圈副阶(「抱厦」),有六层(级)檐。

「副阶」fùjiēは裳階のことですが、金堂では「抱厦」と言ったので、合わせても良いような気がしますが、「抱厦」はメインの建物から突き出た部屋。「副阶」は建物のぐるりを覆う回廊のイメージです。

上の写真のような塔の一番下層の周りに回廊が付けられるデザインが、中国の塔ではよく見られます。これが「副阶」です。しかし、法隆寺の場合、裳階の構造は金堂も五重塔も同じ形状に見えますので、「抱厦」と言っても良いと思います。

「级」jíは階段や階層を数える量詞で、「七级宝塔」(七重の塔)などという言い方ができますが、「层」や「重」を使っても差し支えないと思います。

【日】五重塔の斗拱の構造は金堂と同じく、尾垂木と雲肘木が使われています。
【中】五重塔的枓栱结构与金堂相同,都使用昂和云形栱。

【日】五重塔の屋根は、垂木を平行に配置しています。
【中】五重塔屋顶采用平行布椽。

「椽」chuánは垂木です。このように平行に垂木を配置してしまうと、隅の方の垂木は、軒の重みを十分支えることができないので、垂木の上に桔木(はねき)という補強材を入れ、軒が垂れ下がらないようにしていました。桔木は跳木とも書き、梃子(てこ)の原理で軒先をはね上げて支える木材です。

上の図が、屋根を支える構造です。桔木は放射状に取り付けられました。尚、唐の元祖の中国では、屋根の隅の垂木は扇上に並べられる形であったそうです。日本では、これ以降、後世になっても、垂木の傾き方向へ平行な配置が続きます。

五重塔最上階

【日】五重塔の二層~四層は何れも柱と柱の間が3間ですが、第五層は2間で、偶数の間を使っています。一般に寺院の建物の間は奇数を使い、偶数は大変珍しいです。
【中】五重塔二~四层都是三开间, 第五层是两开间。一般寺院的建筑采用单数开建,偶数开间是很少见的。

「开间」kāijiānとは、柱と柱のあいだ、間(ま)のことです。
中国では、建物の柱と柱のあいだ、間は、奇数にするのが一般的です。法隆寺の五重塔は、2~4層は3間ですが、一番上の5層目は2間となっています。最下層は、入り口の扉を入れて5間です。

上の写真は興福寺の五重塔(室町時代)ですが、上から下まで全て3間です。
また、後世の塔は、上から下まで、屋根の大きさがほぼ画一になってきます。

法隆寺の近くの法起寺の三重塔も、このように最上階のみ2間にしています。古い時代の塔は、上層から下層へ屋根を大きくしているので、外観上のバランスもあるのでしょうが、間を敢えて偶数にしたのは、何か特別な意思が働いたのかもしれません。

五重塔相輪

【日】五重塔の相輪、下には四本の鎌が取り付けられています。
【中】五重塔的塔刹,下面安装四把镰刀。

「塔刹」tǎshāは相輪です。「镰刀」liándāoは鎌。

鎌は、雷を威嚇し、塔に雷が落ちないようにとの呪いの意味が込められているそうです。元々、鎌倉時代に五重塔が落雷の被害に遭った時、4本の鎌を取り付けられ、1947年に堺の刀工が制作した鎌に取り換えられたそうです。

以上、法隆寺の金堂、五重塔の特徴と、それを中国語でどう言うかについて、見てきました。おそらく、ガイドの時にここまで細かく紹介することは、時間的にもできないでしょうが、質問を受けた時のために、知識として持っておくと良いと思います。

今回は、金堂と五重塔を見てきましたが、法隆寺については、あと、同じ西院伽藍の中門と回廊について、次回に紹介をしたいと思います。


成語の物語を中国語で読もうvol.2『三令五申』

2020年05月06日 | 中国語成語

『史記』の『孫子呉起列伝』に出ている話です。春秋時代、『孫子の兵法』で有名な孫武がある時、呉王闔閭に、宮廷の女官を使って軍事教練をするよう命じ、その中でのお話です。

■孙武本来是齐国人,因逃避战乱到了吴国。他把自己写的兵书献给吴王。吴王召见他,对他说:“你写的十三篇兵法,我都读过了。说得很有道理。能不能实地试一试,操演一下士兵呢?“ 孙武回答说,“当然可以。” 吴王笑着问:“可以用妇女来试试吗?”孙武不加思索地说:“可以。”于是吴王就选了一百八十名宫娥美女来学习操练。

Sūnwǔ běnlái shì qíguó rén, yīn táobì zhànluàn dào le wúguó. Tā bǎ zìjǐ xiě de bīngshū xiàn gěi wúwáng. Wúwáng zhàojiàn tā, duì tā shuō: “nǐ xiě de shísān piān bīngfǎ, wǒ dōu dú guòle. Shuō de hěn yǒu dàolǐ. Néngbunéng shídì shìyishì, cāoyǎn yīxià shìbīng ne?” sūnwǔ huídá shuō, “dāngrán kěyǐ.” Wúwáng xiàozhe wèn: “kěyǐ yòng fùnǚ lái shìshì ma?” sūnwǔ bùjiā sīsuǒ di shuō: “kěyǐ.” yúshì wúwáng jiù xuǎn le yībǎi bāshí míng gōng é měinǚ lái xuéxí cāoliàn.

孫武は元々斉の人で、戦乱を避けるため、呉にやって来た。彼は自分が書いた兵書を呉王に献上した。呉王は孫武を招き、彼に言った。「あなたが書いた十三篇の兵法を読みました。言われていることは、もっともだと思います。実際に一度やってみせて、兵士の教練をしてもらえませんか。」孫武は「もちろん可能です。」と答えた。呉王は笑いながら、「女たちで試してもらえますか。」と聞いた。孫武は深く考えることも無く「可能です。」と言った。それで呉王は百八十名の女官を選んで軍事訓練を受けさせた。

・齐 qí  周代から戦国にかけての列国のひとつで、山東省北部から河北省東南部を版図とした。
・吴 wú  春秋時代の列国の一つで、江蘇省南部と浙江省北部を版図とした。
・思索 sīsuǒ 深く考える
・宫娥 gong é 「宫女」と同じ。女官。宮仕えの女

■孙武把她们分成两队,选派吴王最宠爱的两个妃子分别担任队长。所有的人都拿着一支戟(古代的一种武器)。然后,孙武问她们说:“你们都知道自己的心,背和左右手吗?”宫女们都说知道。孙武又说:“如果命令你们向前,那就是向心对正的方向; 如果要向后,就是背所对的方向。”孙子又把条例,纪律都讲清楚,叫人把执法的刑具布置好,然后再三交代要注意的事项。那些宫女没见过这个场面,只是觉得这样操练新鲜好玩。孙子下令擂起战鼓,命令宫女们向右前进,那些宫女却嘻嘻哈哈地笑起来。孙武严肃地说:“纪律没讲清楚,口令没让你们熟悉,这是我做将军的过错。”然后,他又“三令五申”(三番四次地交代清楚),再擂鼓命令宫女们向左。那些宫女们还是好不注意,又哄堂大笑起来。这时,孙武严厉地说:“刚才是我的过失,这一次已经再三交代,你们还是不执行命令,这就是你们官兵的罪过。”于是,他下令把两个队长推出去斩首示众。

Sūnwǔ bǎ tāmen fēnchéng liǎngduì, xuǎnpài wúwáng zuì chóng ài de liǎngge fēizi fēnbié dānrèn duìzhǎng. Suǒyǒu de rén dōu názhe yīzhī jǐ (gǔdài de yīzhǒng wǔqì). Ránhòu, sūnwǔ wèn tāmen shuō: “nǐmen dōu zhīdào zìjǐ de xīn, bèi hé zuǒyòu shǒu ma?” gōngnǚmen dōu shuō zhīdào. Sūnwǔ yòu shuō: “rúguǒ mìnglìng nǐmen xiàngqián, nà jiùshì xiàng xīn duì zhèng de fāngxiàng. Rúguǒ yào xiàng hòu, jiùshì bèi suǒ duì de fāngxiàng.” Sūnzǐ yòu bǎ tiáolì, jìlǜ dōu jiǎng qīngchu, jiào rén bǎ zhífǎ de xíngjù bùzhì hǎo, ránhòu zàisān jiāodài yào zhùyì de shìxiàng. Nàxiē gōngnǚ méi jiànguo zhège chǎngmiàn, zhǐshì juéde zhèyàng cāoliàn xīnxiān hǎowán. Sūnzǐ xiàlìng léiqǐ zhàngǔ, mìnglìng gōngnǚmen xiàng yòu qiánjìn, nàxiē gōngnǚ xīxīhāhā di xiào qǐlái. Sūnwǔ yánsù di shuō: “jìlǜ méi jiǎng qīngchù, kǒulìng méi rang nǐmen shúxī, zhè shì wǒ zuò jiāngjūn de guòcuò.” Ránhòu tā yòu “sānlìng wǔshēn”(sān fān sì cì di jiāodài qīngchù), zài léi gǔ mìnglìng gōnggnǚmen xiàng zuǒ. Nà xiē gōngnǚmen háishì hǎobù zhùyì, yòu hōngtáng dàxiào qǐlái. Zhè shí, sūnwǔ yánlì di shuō: “gāngcái shì wǒ de guòshī, zhè yī cì yǐjīng zàisān jiāodài, nǐmen háishì bù zhíxíng mìnglìng, zhè jiùshì nǐmen guānbīng de zuì guò le.” Yúshì, tā xiàlìng bǎ liǎng ge duìzhǎng tuī chū qù zhǎnshǒu shì zhòng.

孫武は彼女たちを二つの隊に分け、呉王が最も寵愛する二人の妃を選んで、それぞれ隊長にした。全員が矛を一本ずつ持った。その後、孫武は彼女たちに言った。「あなた方は自分の正面、後ろ、左右は分かりますか。」女官たちは全員分かると言った。孫武はまた言った。「もしあなた方が前を向くよう命令されたら、正面の方向であり、左を向くよう命令されたら、左手の方向だし、右を向くよう命令されたら、右手の方向です。もし後ろを向くよう命令されたら、背中の方向に向きます。」孫子はまた、法令や規律を明確に説明し、法律執行のための刑罰の道具を配置させ、注意事項を繰り返し説明した。女官たちは、こうした状況をこれまで経験したことがなかったので、このような軍事訓練が新鮮でおもしろく感じた。孫子は陣太鼓をたたくよう命じ、彼女たちに右を向き前進するよう命じた。女官たちはどっと笑いだした。孫武は厳粛に言った。「規律がはっきり説明できておらず、命令をあなたがたによく理解させていないのは、将軍である私の過ちです。」その後、彼はまた「三令五申」(何度も繰り返して十分理解できるよう説明すること)し、再び陣太鼓を鳴らし、女官たちに左を向くよう命令した。女官たちはそれでも意に介さず、またどっと笑い声が起きた。この時、孫武は厳しく言った。「さっきは私の過ちだったが、今回は既に何度も説明したのに、おまえたちがなお命令を実行しないのは、おまえたち士官と兵士の犯罪である。」そして、彼は二人の隊長を引きずり出し、首を切って見せしめにするよう命じた。

・选派 xuǎnpài 選んで派遣する
・妃子 fēizi  妃。皇后の次の位
・戟 jǐ 古代の武器。矛。
・交代 jiāodài  説明する。言い聞かせる
・擂 léi  (こぶしや金づちで)たたく。打楽器をたたく
・战鼓 zhàngǔ  (古代の戦いで兵の士気を鼓舞するのに用いた)陣太鼓
・嘻嘻哈哈 xīxīhāhā  擬声語、笑いさざめく様。あはは、おほほ
・官兵 guānbīng  士官と兵士

・斩首 zhǎnshǒu  首を切る
・示众 shìzhòng  見せしめにする

■吴王正坐在高台上兴致勃勃地看热闹,忽然看见那两个妃子被押出去斩首,非常吃惊,他做梦也想不到孙武会这样认真,就马上派人跑去对孙武传达命令说:“我已经知道将军是很能用兵的了。要是没有这两个妃子,我吃东西都没味了,请不要杀她们!”孙武说:“我已经接受命令做将军,将军在执行任务的时候,即使是君主的命令,有时也是不能听从的。”他还是把两个妃子斩首了。这时候,宫女们吓得目瞪口呆,谁也不敢嘻笑取闹了。孙武重新挑选了两名队长,再次击鼓操练。这次可不同了,操场上鸦雀无声,宫女们认真地做着前进,后退,向左,向右,跪下等动作。很快地,整个队伍动作统一,能够按将军的指挥迅速地行动了。孙武派人向吴王报告说:“军队已经操练好了,请大王下来看看。您可以随心所欲地指挥她们,就是命令她们赴汤蹈火也办得到。”吴王因为失去了两个爱妃,正在悔恨,就没好气地说:“你回客舍休息去吧,我不想下去看了。”孙武叹口气说:“大王只是爱好我的兵法,却不能使用我的真实本领啊!”
 
 Wúwáng zhèng zuò zài gāotái shàng xìngzhì bóbó di kàn rènào, hūrán kànjiàn nà liǎng ge fēizi bèi yā chūqù zhǎnshǒu, fēicháng chījīng, tā zuòmèng yě xiǎngbudào sūnwǔ huì zhèyàng rènzhēn, jiù mǎshàng pài rén pǎoqù duì sūnwǔ chuándá mìnglìng shuō: “wǒ yǐjīng zhīdào jiāngjūn shì hěn néng yòng bīng de le. Yàoshì méiyǒu zhè liǎng ge fēizi, wǒ chī dōngxi dōu méi wèi le, qǐng bùyào shā tāmen!” Sūnwǔ shuō: “wǒ yǐjīng jiēshòu mìnglìng zuò jiāngjūn, jiāngjūn zài zhíxíng rènwù de shíhóu, jíshǐ shì jūnzhǔ de mìnglìng, yǒushí yěshì bùnéng tīngcóng de.” Tā háishì bǎ liǎng ge fēizi zhǎnshǒu le. Zhè shíhóu, gōngnǚmen xià de mùdēng kǒudāi, shuí yě bùgǎn xīxiào qǔnào le. Sūnwǔ chóngxīn tiāoxuǎn le liǎng míng duìzhǎng, zàicì jīgǔ cāoliàn. Zhècì kě bùtóng le, cāochǎng shàng yāquè wú sheng, gōngnǚmen rènzhēn di zuò zhe qiánjìn, hòutuì, xiàng zuǒ, xiàng yòu, guì xià děng dòngzuò. Hěn kuài di, zhěng ge duìwǔ dòngzuò tǒngyī, nénggòu ànzhào jiāngjūn de zhǐhuī xùnsù di xíngdòng le. Sūnwǔ pài rén xiàng wúwáng bàogào shuō: “jūnduì yǐjīng cāoliàn hǎo le, qǐng dàwáng xiàlái kànkan. Níng kěyǐ suíxīn suǒ yù di zhǐhuī tāmen, jiùshì mìnglìng tāmen fù tang dǎo huǒ yě bàn de dào.” Wúwáng yīnwèi shīqù le liǎng ge ài fēi, zhèngzài huǐhèn, jiù méi hǎoqì di shuō: “nǐ huí kèshè xiūxi qù ba, wǒ bù xiǎng xiàqù kàn le.” Sūnwǔ tàn kǒuqì shuō: “dàwáng zhǐ shì àihào wǒ de bīngfǎ, què bùnéng shǐyòng wǒ de zhēnshí běnlǐng a!”

 呉王はちょうどバルコニーに腰かけ、興味津々で見物していたが、突然ふたりの妃が引き出され首を切られるのを見て、非常に驚いた。彼は孫武がこれほど真剣であるとは思いもよらず、すぐに人を遣って孫武に命令を伝達して言った。「私はもう将軍が兵を用いるのがうまいことがよく分かりました。もしこの二人の妃を失うと、私は食事をしても味気ないのです。どうか二人を殺さないで。」孫武は言った。「私は既に命令を受けて将軍となりました。将軍は任務遂行においては、たとえ君主の命令であっても、時には従うことはできないのです。」彼はやはりふたりの妃の首を切ってしまった。この時、女官たちは驚いてあっけにとられ、誰も笑ったり冗談を言ったりする勇気のある者はいなかった。孫武は改めて二人の隊長を選ぶと、再び太鼓をたたき、軍事訓練を行った。今回は以前と違い、練兵場はしんと静まりかえり、官女たちは真剣に前進、後退、左向け、右向け、ひざまずけ等の動作を行った。間もなく、軍隊全体の動作は統一され、将軍の指揮下、速やかに行動できるようになった。孫武は人を遣って呉王に報告し、言った。「軍隊はもう十分訓練ができました。どうか大王、降りて来られてご覧ください。あなたは思いのままに彼女たちを指揮することができ、彼女たちを命令すれば、水火も辞せず目的を達することができるでしょう。」呉王は二人の愛妃を失い、ひどく悔やんでいるところだったので、いい顔をせずに言った。「将軍は宿舎に帰って休んでください。私は降りて見たくはないので。」孫武はため息をついて言った。「大王は私の兵法が好きなだけで、私の本当の技能を使うことはできない。」

・兴致勃勃 xìngzhì bóbó  興味津々。非常に興味を感じている
・做梦也想不到 zuò mèng yě xiǎng bu dào 夢にも思わなかった
・目瞪口呆 mù dēng kǒu dāi  目を丸くし口をぽかんと開ける。あっけにとられる
・嘻笑 xīxiào  「嬉笑」xīxiàoと同じ。笑いさざめく。賑やかに笑う
・取闹 qǔnào  からかう。笑いものにする
・挑选 tiāoxuǎn  選ぶ。選抜する
・鸦雀无声 yāquè wú sheng しんと静まりかえる
・随心所欲 suíxīn suǒ yù  思いのままにする
・赴汤蹈火 fù tang dǎo huǒ  水火も辞せず。どんな苦しみや危険も恐れないこと 
・悔恨 huǐhèn  悔やむ。ひどく残念がる
・没好气 méi hǎoqì いい顔をしない。機嫌が悪い
・本领 běnlǐng  才能。技能。腕前

■但是,吴王也确实知道孙武有卓绝的军事才能,就任命他为大将。后来,吴军大破楚军,一直攻入楚国的郢都;吴国军威大振,连齐、晋等大国也甘拜下风,使吴国称雄一时。

 Dànshì, wúwáng yě quèshí zhīdào sūnwǔ yǒu zhuōjué de jūnshì cáinéng, jiù rènmìng tā wéi dàjiàng. Hòulái, wú jūn dàpò chǔ jūn, yīzhí gongrù chǔ guó de yǐng dū; wú guó jūnwēi dàzhèn, lián qí, jìn děng dàguó yě gān bài xià fēng, shǐ wú guó chēng xióng yīshí.

 けれども、呉王も確かに孫武が卓越した軍事的な才能があることを理解していたので、彼を大将に任命した。後に、呉軍は楚軍を大いに破り、楚の都、郢まで一気に攻め入り、呉の軍隊の威勢は大いに鳴り響き、斉や晋といった大国も甘んじて負けを認め、呉は一時期雄をとなえた。

・楚 chǔ  周代から戦国にかけての列国のひとつで、長江中流域に位置した。
・郢 yǐng  楚の都。今の湖北省江陵県
・甘拜下风 gān bài xià fēng  甘んじて風下を拝する。心服して負けを認める
・晋 jìn  春秋時代の列国のひとつで、山西省を版図にした。
・称雄 chēngxióng  雄をとなえる

その後、「三令五申」は、何度も繰り返し命令し訓戒を与えることを表す成語となりました。ちなみに、孫武が呉王闔閭の命令を受け、女官たちを軍事訓練した場所は、蘇州近郊、胥口镇蒋墩村と言われています。蘇州市の市街地を西南の方向に抜け、太湖に面したあたりです。これについては、以下の新聞記事を参考にしてください。
http://www.people.com.cn/GB/paper39/11442/1032857.html


日本の寺社を中国語で説明する~斗拱

2020年05月04日 | 中国語でどう言うか?

兵庫県浄土寺、大仏様組物

 寺社の建物の説明をする時、屋根の軒を支える斗拱(ときょう)という木製の組物が建物の大きな特徴となっています。それでは斗拱などの建物のパーツを、中国語でどう訳したらよいか、というのが今回のテーマです。百度の記事などを参考にしながらまとめてみましたが、まだまだ不十分。詳しい方がいらっしゃいましたら、ご指導いただければうれしいです。ちなみに、斗拱は、中国語でも「斗栱」dòugǒng、或いは「铺作」pūzuòと言います。

 元々、斗拱は中国から直接、もしくは朝鮮を経由して日本に入ってきたもので、基本は共通ですが、時代と共に、それぞれ独自に進化した部分があります。また、曾ては中国にあったが、中国では既に実物が失われ、日本でのみ残っているものもあります。

(1)斗拱

斗拱は大屋根の前に張り出した軒を支える木の組み物です。上の写真で言うと、
・斗:これは四角い桝の形をしていて、「ます」と読むこともあります。中国語でも「斗」dòuです。日本同様、「升」shēngと言うこともあります。
・肘木:梁や桁、斗の下の荷重を支える横木です。中国語は「栱」gǒngです。

今度は、上の斗拱の分解図で見ていきましょう。下→上に見ていきます。
・柱:柱子 zhùzi
・貫:横方向に軒を支える材木。「额枋」 éfāng 或いは「阑额」 lán é。
・斗(ます):斗 dòu
・梁:「栿」fú。但し、建屋の中の仏像を安置する身舎(もや。「正堂」)を支える梁では、「梁」liángも使います。
・肘木:栱 gong
・丸桁(がぎょう):垂木を支える桁 (けた) で、最も軒先近くにあるものです。「檐檩」
yánlǐnと言います。

上の図は、中国での斗拱の絵です。一番下の「做斗」は、「栌斗」lúdòuとも言い、日本では大斗(坐斗)と言います。
「小斗」は、日本では巻斗と言います。

これは宋代の建築様式の軒柱(「檐柱」)とその上の組み物の図です。
ここで、「昂」ángとあるのは、尾垂木で、斗拱から斜め下に突き出したものは、「下昂」と言います。日本の社寺では、下の写真のようになります。

中国の建築では、「昂」の上に「耍头」shuǎtóuという木材を噛ませており、これにより、「昂」、「斗栱」と共に軒を支える力を強化し、時には軒屋根の傾きを持ち上げる機能を持たせています。

これらを含め、軒を支える柱や組み物の構造図面(中国)が下の図面です。
日本の寺社建築とは多少違いもありますが、中国の方に説明する時は、ここに記されている言葉を使うと、理解してもらいやすいと思います。

この図で、柱が2本ありますが、内柱から右側が建物の中で、仏像を安置する身舎(もや。「正堂」zhèngtáng)となり、それより左側が外側の廂(ひさし)の部分、軒(「屋檐」wūyán)になります。屋根瓦を載せる垂木(化粧垂木)は、「椽木」chuánmùです。
「令栱」lìnggǒngというのは、肘木でも一番上の「檐檩」(丸桁、がぎょう)を支えます。「跳头」tiàotóuという言い方もあります。
その下にある肘木で、外に突き出たものを「华栱」huágǒngと言い、宋代からこう呼ばれました。清代は、「翘」qiáoとも言いました。これと90度、壁の方向の肘木は「泥道栱」nídàogǒngです。中国では、大斗(坐斗)の上に「华栱」と「泥道栱」を交差させて「栌斗」(「坐斗」)の上に置かれます。「泥道栱」は清代には「正心栱」とも言いました。
軒を支える梁を「乳栿 」rǔfúと言うのは宋代からの言い方で、清代は「双步梁」とも言いました。
「下昂」(尾垂木)が2本、上下に重なり、「阑额」(「额枋」。貫)も何本も重ねられていますね。また、「屋檐」(軒)側だけでなく、内部の「正堂」(身舎)側にも斗拱が使われていますね。

これは、梁の上に大斗(坐斗)が載り、その上に肘木、一番上は小斗3個で桁を支えているので、「一斗三升」という言い方をします。

この写真は、法隆寺の金堂です。突き出ている角材は尾垂木で、中国語では「昂」。その下を支える、法隆寺独特の雲肘木ですが、これは中国語で「云形栱」。

これは、丸桁(檐檩)を支える肘木で、しかも雲肘木ですから、中国語では、「跳头云形栱」と言います。

これは、法隆寺金堂高欄(「勾栏」gōulán)の人字形割束(にんじけいわりづか)ですが、中国語では「勾栏人字栱」と言います。尚、こうした人字形割束は、中国でも南北朝から唐くらいまでは幅広く使われたようですが、現在は木造の建物は残っておらず、わずかに壁画や石窟寺院の中などに残っています。
尚、人字形割束の上の「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうらん)」も大変有名ですが、これを中国語で言うと、「卍wàn字搞乱花样的勾栏」となると思います。

これは、山西省大同の雲崗石窟に残る、人字形割束、「人字栱」です。このように、石窟寺院などには残っていますが、木造の建造物としては、残っていません。

三手先(みてさき)は、中国語で「出三跳斗栱」となります。

これは、東大寺大仏殿正面の六手先(むてさき)の組物で、軒柱から挿肘木が出ています。これを中国語で「出六跳插栱」と言います。挿肘木は「插栱」chāgǒngです。

(2)蟇股(かえるまた)

蟇股は、頭貫(かしらぬき)や梁(はり)の上 、桁との間に置かれる山形の部材。本来は上部構造の重みを支えるもの。日本で独自に発展し、後には単に装飾として、さまざまに彫刻して破風(「抱厦」bàoxià)などにつけられたものです。蟇が脚を広げてふんばった姿勢と似ているところから蟇股と名付けられました。中国では、日本のような装飾用の蟇股は存在しないようです。
中国では「驼峰」tuófēngが蟇股に近いです。「驼峰」の本来の意味は、梁の上の当て木です。ラクダの瘤のような形をしているので、こう呼ばれます。

上の写真は唐代の木造建築の内部ですが、「四椽栿」の上で、「平梁」を支えているのが「驼峰」です。

これは、斗拱と斗拱の間を補強する組物のデザインの変化を示したものです。正に蟇股に相当します。「铺作」pūzuòというのは組物、或いは斗拱のことです。蟇股は斗拱と斗拱の間の補強材ですから、「补间铺作」bǔjiānpūzuòは正に蟇股のことです。尚、中国では、「补间铺作」に蟇股を使わず、斗拱を置くことが多いです。日本で言うと、禅宗様の建築様式です。

「正堂」の内部には、こうした「驼峰」も見られるようです。

(3) 木鼻

木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたものです。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装飾をいいます。

一方中国でも、貫(「额枋」或いは「阑额」)、尾垂木(「昂」)の上の「耍头」に装飾を加えることが行われました。それを示したのが上の資料です。ですから、木鼻を「耍头」shuǎtóuと言うか、例えば貫の木鼻であれば、「阑额出头」と言えば分かると思います。
尚、中国では、梁と貫の間の補強材(「承托」chéngtuō)に装飾がされることが多いようです。次の写真がその例です。

次は、梁や貫の木鼻の例です。これは「梁头」か「耍头」の何れかだと思います。

次に、「耍头」の装飾。

 以上、長々と説明してきましたが、中国と日本の寺院建築は、元々中国から日本へ伝来したので、元は同じですが、その後、和様、「日本化」というか「日本式」の建築様式が生まれ、発展してきたので、異なる部分が見られます。或いは、中国では既に失われ、壁画の中などでしか見られないものもあります。それゆえ、中国から日本に観光に来た方が、日本の寺院建築を見て、感じることのできる懐かしさ、おもしろさがあるのではないかと思います。今回、整理した語句を用い、より的確に通訳、翻訳ができれば良いなと思います。