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北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

2024年02月19日 | 中国史
第六節 北京の園林と廟宇
西苑
 清朝が北京を都に定めて後、城池(城壁と堀の意から都市のこと)と宮殿の規模は相変わらず明朝に基づき、ただ戦乱で破壊された部分にのみ補修を加え、城門や宮殿の名称も多少改変した。

 紫禁城の西の「太液池」は、中、南、北海と分けて呼んだ。ここは金、元以来の宮廷の御苑の景勝地であった。清朝前期に拡張され、これを西苑とした。西苑の中は、楼台(高楼)が聳え立ち、彫刻や装飾が精緻で美しく、大小の修築された物の数が合わせて百を数えた。そのうち中南海の部分がしばしば「臣工を引見、応対し、重要な事務を総理し、王公、卿士を饗宴したり、或いは外潘を接見、朝見し、遠征軍の指揮官の帰還をねぎらい、武官が技を競う」(『日下旧聞考』巻21)ために使われ、「勤政殿」、「灜台」などがあった。康熙、乾隆の時代には、しばしば 灜台で臣属が宴を賜り、弘歴(乾隆帝)が『春正幸灜台曲宴外藩』の詩を作った。

 中南海北端には白石の長橋、「金鰲玉蝀(虹)橋」があった。橋の北が北海(今の北海公園)である。北海の景色は宮殿の趣(おもむき)をはずれ、園林の趣が豊かであった。橋の東が承光殿で、本名が「圓城」、俗称が「団城」で、その地に高く聳えて台を成し、圓城を取り囲み、元代の「儀天殿」の旧跡である。承光殿の南には石亭が築かれ、亭の中に元代の玉瓮(玉の甕)が置かれた。玉瓮には白章(白い模様)があり、その形に合わせて魚や獣が刻まれ、波濤の形状があらわれ、酒を貯蔵するのに用いられた。元々万歳山の広寒殿内に置かれ、清代には西華門外の真武廟の中で、道士によって料理用の甕に使われていたが、乾隆帝が千金でこれを買い取り、承光殿の中に置いた。

 圓城の北に橋があり、橋を渡ると塔山、すなわち金朝の瓊華島(けいかとう)である。島は北海に盤踞し、順治年間に山頂に白塔が建てられ、それゆえ白塔山と名付けられた。白塔山の整備、修築は1741、1742年(乾隆6、7年)に始まり、三十年を費やし、四方の景観が定まり始めた。

 南側は主に白塔、及び永安寺殿で、石の階段、石の洞窟が皆、山勢に沿って築いて置かれ、ゆるや
かに折れ曲がり、作りが精緻で静かで奥深く(玲瓏窈窕)、彫りが険しく高くそびえ、極めて幽妙を尽くしている。これらの石は金朝の時に北宋の首都、開封の艮岳から移して来られたものである。北側には更に園林の建築様式を取り入れ、高みから落下し、或いは一間、或いは二棚、連綿として隙間が無く、ひとつの塊を形成していた。前を太液池に臨み、明るく広々としていて、鎮江の金山の情緒(意境)を真似て建造された。東西両側は互いに引き立て合うように飾り付けられ、その一亭一閣が、巧みに配置されて構築され、人々に情趣が極まりないように感じさせた。西側の閲古楼の楼壁上には、『三希堂法帖』の碑版が築かれている。


明清北京城平面略図


瓊華島(けいかとう)白塔全景


北海九龍壁

 北海の北岸の「西天梵境」と「闡福寺」も、乾隆中期に建造されたものである。「西天梵境」の「大慈真如殿」は楠木(クスノキ)で作られ、雄壮で華麗で、中には三体の銅佛が安置されている。御殿の後ろは「大琉璃宝殿」で、四方の回廊は67間、四隅を楼閣が互いに接している。五龍亭の北は「闡福寺」で、中に万佛楼がある。この二組の建築群は、清代の建築技術の高度なレベルを代表している。乾隆年間に建造された九龍壁は、壁長25.86メートル、高さ6.65メートル、厚さ1.42メートル。424枚の七色の琉璃タイルを積み上げて作られている。壁面の前後にはそれぞれ九匹のとぐろを巻いた龍が配され、首を上げ爪を振り上げ、雲海の間を舞い上がり、色が調和し、造形は活き活きと真に迫り、当時の建築技術の精妙さを顕示していた。

西郊の皇室の園林

 北京の西郊約30里(15Km)ほどのところに、群峰が重なって聳え、これは太行山脈の支脈のひとつで、一般には西山と呼ばれる。この区域は、泉流が集まり、清朝はここに相前後して暢春、円明、静明、静宜、清漪など五つの大庭園を建造した。

 これら皇室園林は前代の基礎の規模の上に拡張し磨き上げたもので、その時期は康熙、雍正、乾隆の三つの時代で、始まりはおおよそ三藩、すなわち呉三桂、耿精忠、尚之信らの反乱鎮圧(叛乱戡平)以後のことである。

 最初に建設された庭園は暢春園で、康熙帝玄燁(げんよう)が建造した。彼は一年のうち新政朝賀などの大典が宮中で挙行される以外は、多くの月日を暢春園で政務を処理した。『日下旧聞考』が引用した『暢春園冊』に園内の配置や殿堂等の名称が記述されていた。「澹寧居」の前殿はすなわち玄燁が「御門で聴政し、館職を選任し、引見した所」(『日下旧聞考』巻76)であった。暢春は初め建設された時は、工程が簡素、質朴で、玄燁自ら「茅屋に茨を塗り、略んど藻飾無し」(玄燁『暢春園記』)と言った。康熙末年に暢春園へ赴き引見した官員も、「垣高は大に及ばず、苑内の緑色は低迷し、紅英(赤い花)は爛漫。土の阜(おか)は平らに坨(つ)もり、奇峰怪石を尚(おも)んぜず。軒や楹(はしら)は雅(もとより)素(しろ)く、藻絵雕工を事(つか)えざる也」。(程庭『停驂随筆』)乾隆時代もまたこの庭園を拡張、装飾を行った。暢春園は1860年英、仏侵略軍が北京を攻略、占領した時に焼き払われ、今は既に瓦の破片も残っておらず、見れるものはただふたつの廟門のみである。ひとつは「恩佑寺」のもので、雍正帝胤禛が父親の玄燁に建立したものである。玄燁が在位の時、ここの名前は「清渓書屋」と言い、彼が「宴寝之所」である。玄燁はここで死に、死後、胤禛がこの地に廟を立て祭り、山門の東側は、外を通衢(つうく。街道)に臨み、門は石橋を跨ぐ。もうひとつは「恩慕寺」で、 恩佑寺の少し南に在り、ここは乾隆帝弘歴の生母のために建立した。このふたつの廟門の場所から、暢春園の位置と方向をざくっと理解することができる。今の承澤園の西の「西花園」は、内務府曹寅が建造を監督し、元は康熙帝の時、皇太子の允礽(後、廃された)が居住したところで、遺跡の痕跡を探査することができる。

 円明園は元々暢春園の付属の庭園で、小規模な庭園であった。1709年(康熙48年)康熙帝はこの庭園を第四子の胤禛に賜った。胤禛が皇位を奪って後、円明園を拡張し、ここで暮らし、政務を処理するところになった。乾隆の時代、弘歴は更に念入りに設計し、ほしいままに築造し、ここを世にも珍しい優美な園林にした。

 円明園の配置は内朝と外朝に分かれる。外朝の配置はまさしく小型の清政府そのものだった。記録によれば、「大宮門は五楹(柱が5本)、門前の左右は各五楹に向く。その後ろの東には宗人府、内閣、吏部、礼部、兵部、都察院、理藩院、翰林院、詹事府、国子監、銮儀衛、東四旗の各衙門(役所)の直房(当直室)がある。東夾道の内側は銀庫である。更に北東には南書房、南東には档案房。西には戸部、刑部、工部、欽天監、内務府、光禄寺、通政寺、大理寺、鴻臚寺、太常寺、大僕寺、御書処、上駟院、武備院、西四旗の各衙門の直房がある。西夾道の南西は造辧処で、また南は茶房である。大宮門内には賢良門に出入りする五楹があり、門の左右は直房で、前は石橋を跨ぎ、橋を渡った南東は各五楹の部屋に向き、南西は茶膳房、更に西は繙書房、南東は清茶房、軍機処である。」(『日下旧聞考』巻80)この一揃い全部揃った政府機構は、北京城の中に比べより集中し、何かあればすぐ奏上し、皇帝が引見、下達するのもたいへん都合が良かった。園内にはまた如意館があり、これは御用画師たちが仕事をする場所であった。政務を行う衙署は「前湖区」、「后湖」、「福海」に集中し、園全体のたいへん大きな面積を占め、その中は尽く園林に属していた。

 円明園内の精緻で鑑賞すべき場所は、「四十景」と称され、乾隆時代に名付けられた。四十景を取り囲んでいたのが百ヶ所近くの精美な建造物で、互いに珍しさを競い、意匠を凝らしていた。円明園の左には「長春」、「綺春」の二園が附いており、併せて三園と呼び、その間は門道が互いに通じ、ただその大きさが圓明園に比べ小さいだけである。長春園の中で独自の特色を備えていたのは欧州式の建物で、俗に西洋楼と呼ばれた。「海宴堂」、「遠瀛観」などがそうである。これら三つの庭園は清代の康熙、雍正、乾隆の三つの時代の最も盛んであった時期であり、人手や財力を惜しまず、百年の時間を費やし作られた。とりわけ注目すべきは、庭園の方々に配された景観は、多くは江蘇、浙江の名勝に似せて作られ、その中の「平湖秋月」、「曲院風荷」はその大本は杭州の西湖である。「小有天」はすなわち杭州汪氏園で、乾隆帝の南巡の際に、この名を賜り改名した。その庭園の風景に似せて、ここに建造した。「獅子林」はすなわち蘇州の黄氏園に似せた庭園である。弘歴(乾隆)はこう詩に書いた。「因教規写閶城趣,為便尋常御苑臨。不可移来惟古樹,遄由飛去是遐心。」庭園内の『四庫全書』を納める「文源閣」も、寧波の『天一閣』と、その規模や様式を似せて建てたものである。

 円明園の園中に庭園があり、中国の園林の精華が集められている。三園の中にはめったに見ることのできない大量の珍宝、文物が並べられ、当時の世界でも指折りの巨大な芸術文物の宮殿である。1860年英仏連合軍が北京を攻撃、占領し、横暴にも(悍然)円明園に火を放ち、二昼夜燃え続け、三園は跡形もなく燃え尽きてしまった(付之一炬)。

 円明園と暢春園は何れも平地に庭園を作り、土を積んで丘にし、水を引いて池にし、全て人工によるものである。西山三山の三つの庭園は山に依り水の傍らに建設され、これらは甕山の「清漪園」(すなわち今の頤和園)、玉泉山の「静明園」、香山の「静宜園」である。

  清漪園は、元の名は甕山で、前に西湖があり、これは今の昆明湖である。甕山は明末までは、あまり建物は建てられず、ただ湖の景観を以て知られた。この庭園は1750年(乾隆15年)弘歴が彼の生母が翌年60歳の誕生日を迎えるというのを慶賀して建設し、このため山の名を「万寿山」と改名、湖を「昆明湖」と改名した。勤政殿、怡春堂、玉瀾堂、宜芸館、楽寿堂などの建物が建設された。聴酈館の西の昆明湖の中には「石舫」(屋形船の形をした石造の建物)が作られ、昆明湖の東の堤の上には銅牛が鋳造された。また無錫の秦氏園林の「寄暢園」を真似て、「恵山園」が作られたが、これがすなわち今日の「諧趣園」である。万寿山には「大報恩延寿寺」が建立され、五百羅漢堂があった。この庭園もまた英仏連合軍により焼かれてしまった。光緒時代、慈禧太后、那拉氏が再び修築し、「頤和園」と改名した。


頤和園全景

  静明園は玉泉山の傍らにあり、その上には玉泉があり、これは西郊最大の泉であり、昆明湖はすなわちこの泉の水が集まったもので、金、元以来、景勝地として称えられてきた。この庭園は最初、康熙帝の時代に創設され、乾隆時代に追加工事し、建物が建てられて庭園となった。園中には玉泉趵突、玉峰塔影など十六景があり、レイアウトに隙が無く、景観がとりわけ優れていた。例えば山峰には先ず「妙高寺」が建立され、その後ろ側に「妙高塔」が建てられ、更に「該妙斎」があり、これらは、高く聳え立ち、幾重にも重なり合い、まるで影が窓に差し込むかのよう(影入虚牖)で、堪えなる景観であった。

  静宜園は香山に依って作られた。香山の名は、金、元の時代には存在した。康熙帝の時代、玄燁はしばしばここに来て遊覧、休息し、行宮を建築した。1743年(乾隆8年)弘歴は庭園の建造を始めた。静宜園は静明園と異なり、庭園の範囲が広大で、建造物の配置が分散しており、十里の内にこれら全てが配置されていた。築造された塀(圍墻)は内垣、外垣に分かれ、内垣には二十景あり、外垣には八景あった。外垣の外には、別の垣根の中に「宗鏡大昭之廟」が建てられ、これは乾隆がチベットの班禅(バンチェン・ラマ)が遠路はるばる祝福に来た時に建てたものである。昭廟の北には「碧雲寺」があり、元々明の正徳帝の時、宦官の于経が建立し、天啓帝の時、宦官の魏忠賢が再建し、巨刹になった。弘歴がこれを拡張し、また魏忠賢が墓園を建てる予定であった跡地に「金剛宝座塔院」を建設した。塔座は高さが頗る高く、階段に沿って上に上がることができ、中央に一塔、四隅に各一塔が配置され、均しく精緻なレリーフが施され、乾隆時代の石造芸術の粋を示している。寺内には「羅漢堂」があり、杭州浄慈寺の羅漢堂に似せて修築された。

廟宇

 清代、北京に建てられた廟宇はあまり多くなく、著名な巨刹には例えば法源寺があるが、これは唐
の憫忠寺が元になっている。天寧寺の塔は遼代に修築されたものだが、寺院は明に建てられた。妙応寺の白塔は元の世祖フビライが建造したもので、妙応寺の名は明の天順帝の時に改められた名前である。

 清朝はラマ教によりチベット、モンゴルの頼るべき勢力を統治したので、それゆえ再建、或いは新たに建てられた寺院の大多数がラマ廟であった。

 護国寺は元の時代に建設が始まり、明の正徳年間、大慶法王に命じてここに居らしめ、チベット僧(ラマ)のために線香を焚く地にした。1721年蒙古諸部族の王公が築造を求め、玄燁が勉めてその求めに従い、再建を加えた。

 新たに建造されたラマ廟は三つあり、最大のものは「雍和宮」である。 雍和宮は安定門内にあり、元々胤禛(いんしん。雍正亭)の王府で、彼が皇帝になってから今の名前に改めた。1744年(乾隆9年)にラマ廟になった。中には正殿、永佑殿、法輪殿などがある。法輪殿が最大で、殿内には金質の釈迦牟尼像が供えられ、像は清が郡王に封じたチベット臣、頗羅鼐が鋳造した。「万福」、「永康」、「延寧」の三閣があり、 万福閣が真ん中にあり、また大仏閣と称し、供えられている大仏の体躯は高さが七丈余りに達し、伝説では檀香木を彫って作られたと言われる。両側には 永康、 延寧の二閣があり、閣道を通じて、連ねて一体とし、極めて壮観さを備えている。この宮殿には黄教(ゲルク派。チベット仏教最大の宗派で、僧が黄色の僧帽を被るので、漢語で俗にこう呼ばれる)祖師宗喀巴(ツォンカパ)像と達頼講座があり、また弘歴が、モンゴルの呼図克図(チャンジャ・フトクト)の転生のくじ引きのための金奔巴瓶と、その著した『喇嘛説』の刻石がある。この廟宇はラマ教の中でも最も高い地位を備えている。

 その次は黄寺で、安定門外で、東、西の二寺に分かれている。東寺は順治、康熙年間に建立され、西寺は雍正、乾隆年間に建立された。雍正元年正月、喀尔喀(ハルハ)の澤卜尊丹巴呼図克図(ジェブツンダンバ)、49族の札薩克(チャサク。モンゴルの各部族の総長の称号)、七旗 喀不喀(ハルハ)、厄鲁特衆(オイラト族)札薩克汗(チャサク・ハーン)、王、貝勒、貝子、公、額附、札薩克合吉、塔布嚢などが、元々ダライ・ラマのために建造した黄寺を修理するよう奏上した。乾隆年間になると、二寺は何れも増築され、面目一新していた。とりわけ西黄寺には班禅六世(バンツェン6世)塔を建立した。班禅額尔德尼六世は1780年(乾隆45年)北京に来て乾隆帝弘歴の誕生日を祝い、西黄寺に住んでいた。その年病で逝去し、彼の衣冠は西黄寺に石塔を建立し、これを「清浄化域塔」と呼んだ。


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