中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

『徐霞客遊記』を読む(3)遊白岳山日記

2021年10月11日 | 中国文学

白岳山(斉雲山)

 

白岳山は安徽省休寧県城の西にあり、今は斉雲山と呼ばれます。道教の四大名山のひとつで、山上には碑文や摩崖石刻が数多く残されています。万暦四十四年(すなわち丙辰の年、1616年)1月、徐霞客は安徽省に入り、先ず白岳山、次いで黄山を旅行しました。白岳遊覧は1月26日から2月1日の間ですが、大雪と悪天候で、宿に止まる時間が長く、天気が回復したわずかな時間に、あわただしく景勝地を巡っています。

 

 

丙辰の年(1616年)、私は潯陽xúnyáng(江西省九江)の大叔父(父親の叔父)といっしょに、一月二十六日、徽州府休寧県に到着した。県城の西門から出発した。

休寧県より白岳山(斉雲山)を目指す

 

そこを流れる渓流は、祁門県qíménxiànから流れて来て、白岳山を通って、県城に沿って南に向け流れ、梅口に至って郡渓水と合流し、浙渓水(今の率水で、新安江の上流)に流れ込んでいた。渓流に沿って上って行き、二十里(10キロ。1里は0.5キロ、以下同じ)歩き、南渡(今は蘭渡と言い、休寧県のやや西にある)に着いた。(横江に架かる)橋(登封橋)を渡り、山の麓に沿って十里行き、岩下(今は岩前、岩脚と言い、休寧県の西の端である。横江の南岸。)に着くともう夕方であった。

横江に架かる登封橋を渡ると白岳山の麓の岩下(岩前鎮)に着く

 

山を登り五里行き、廟の中の提灯を借用し、降りしきる雪の中、雪や氷を踏みしめ、二里の道を歩き、天門を過ぎ、更に一里あまり歩き、榔梅庵(現在、跡地に榔梅苑というホテルが建つ。月華街にある。月華街は海抜585メートルの絶壁の上にあり、「天街」、「月華天街」とも呼ばれる。)に着いた。

月華街

 

斉雲山遊覧図(上が南)

 

道は途中、天門、珠簾の景勝地を通るが、それらを眺める暇も無かった。ただ、樹々の間を氷雪が下に落ちるカンカンという澄んだ音が聞こえた。榔梅庵に着いて後、雹がずいぶん降ってきたが、潯陽の大叔父と召使たちはまだ後方にいて、到着していなかった。私はひとり山小屋のベッドに横になった。一晩中、軒から水が垂れる音が聞こえ、眠ることができなかった。

 

二十七日の朝、起床すると、山中が雪や氷に覆われ、天地は一面白銀の世界であった。建物の中で座っていると、ちょうど潯陽の大叔父と召使たちが到着した。それで、一同はいっしょに太素宮(南宋の宝慶2年(1226年)創建の道教寺院。元の名を真武祠と言い、明代により名前を玄天太素宮と改めた)に登った。

太素宮

 

太素宮は北向きに建っており、伝説ではこの中にある玄帝(中国神話の北方の神で、道教では真武大帝と言う)の塑像は、百鳥が泥を口にくわえて来てできたものだと言われており、顔は黄みがかった黒色をしていた。塑像は宋代に完成し、大殿は嘉靖三十七年(1558年)に新たに建立されたもので、庭に碑文があり、明の世宗皇帝が自ら建てさせたと書かれていた。左右両側には、王霊官、趙公元帥を祭った殿宇が建ち、何れも雄大で壮麗であった。太素宮の後ろには、玉屏に背をもたれるように斉雲岩があり、前方は香炉峰に臨んでいた。

香炉峰

 

香炉峰(海抜945メートル)は数十丈(30メートル余り)の高さ突き出ていて、鐘を伏せたような形をしており、天台山や雁宕山へ行ったことの無い人が見ると、たいへん珍しく感じるだろう。廟を出て左に行くと捨身崖に至り、向きを変えて上に登ると紫玉屏、更に西側は紫霄崖で、何れも高く聳え、先端が突き出ていた。

紫霄崖

 

更に西には三姑峰、五老峰、文昌閣がその前方に立っていた。五老峰は五人の老人が肩を並べて立っているようで、決して険しくはないが、筆立てのようであった。

五老峰

 

榔梅庵に戻り、昨夜歩いた道に沿って、天梯まで下りた。すると、三方が崖で囲まれ、上は岩で覆われ、下は崖の中にはめ込まれ、まるで回廊のようになっていた。

真仙洞府

 

崖に沿って前に進むと、泉の水が崖の外側に飛び散り、珠簾水の景勝地であった。崖の奥深くにはめ込まれているのが羅漢洞(真仙洞とも言う)で、洞窟の外は広く開けているが、中は天井が低くなっていて、奥行きが十五里あり、東南方向に南渡に通じていた。

羅漢洞(真仙洞)

 

崖の尽きるところが天門(一天門。形が象の鼻に似ているので、象鼻岩とも言う)である。崖の中間は空洞になっていて、人はその中を出入りすると、広々として爽快で、反り返った軒先が高く聳えているようで、正に神話の中の天門にいるかのように感じられた。

一天門

 

天門の外には、りっぱな楠木が聳え立ち、松の木がとぐろを巻き、緑の葉が生い茂っていた。天門の崖の一帯は、珠簾水の水が勢いよく飛散し、第一の景勝地であった。榔梅庵に戻って休息し、五井、橋崖の景勝地のことを尋ねると、汪伯化道士が私たちを明日朝案内してくれることになった。

 

二十八日、眠っていると、誰かが外は大雪だと言うのが聞こえ、召使を起こして見に行かせたところ、山も谷も一面雪で埋まっているとのことだった。気になったが、私は無理やり横になった。朝、巳の刻(午前9時から11時の間)に、汪伯化道士と一緒に靴を履いて二里歩き、再び文昌閣に着いた。あたり一面銀世界で、五井の景勝の遊覧はできなくなったが、より一層すばらしい景色を鑑賞することができた。

 

二十九日、召使たちが、「雲はもう消え去り、陽の光が林の木々を照らしています。」と報告してくれた。私は急いで服を着て起床した。空は一面の青空だった。この半月というもの、こんな良い天気を見たことが無かった。けれども寒さはたいへん厳しかった。汪伯化道士を急かして一緒に食事をとった。食事の終わる頃には、大雪がまた降ってきて、新雪が一尺以上の厚みで積もった。たまたま建物の前まで来た時、香炉峰がちょうど前方にそびえ立っているのが見えた。建物の後ろから程振華という道士がやって来て、私に九井、橋岩、傅岩それぞれの景勝の状況を説明してくれた。

 

三十日、雪は一層ひどくなり、また濃霧が一面に広がり、近い距離でも方向を判別することができなかった。汪伯化道士は酒を手に提げて捨身崖に行き、娣元閣で一緒に雪見酒を酌み交わした。娣元閣は崖の側面にあり、氷柱(つらら)が一本崖の上から垂れ下がり、長さはなんと一丈(3.3メートル)に達した。山並みの影も雪と濃霧の中に消えてしまい、香炉峰のように近いところにあっても、その影を見ることはできなかった。

 

二月一日、東の方でひとすじの雲が消え、空は大いに晴れてきた。潯陽の大叔父は足にあかぎれができて、歩くことができず、榔梅庵に留まり休むことになった。私は急いで汪伯化道士と西天門(紫雲関のこと)を通って山を下った。

紫雲関

十里歩き、双渓街を抜けると、山は開けてきた。更に五里進むと、山は再び次第に空を塞ぎ、渓流があたりを巡り、岩が渓流に映り、旅先での愉快な気持が倍増した。三里の道を歩き終わり、渓谷の入口から小道に入り、山をひとつ越えた。二里進み、石橋岩に着いた。

石橋岩

 

石橋岩の側面の外岩は、白岳山の紫霄岩のように高く険しく延々と続いていた。外岩の下には岩石を利用してお堂にしていた。岩の色は紫で、ただ一匹のうねうねした青色の石の龍が中にいて、龍の頭は垂れて突き出ること一尺あまりの高さで、水が龍の口から下に流れ落ち、龍涎泉と呼ばれ、雁宕山の龍鼻水のようであった。外岩の右側は、ひとつの山が横跨ぎに越えていて、山の中間は空洞になっていて、これが石橋である。石橋は虹のように空中に掛かり、下の空間はちょうど半月のようであった。石橋の下に座ると、山を隔ててもうひとつの山が突き出て聳え立ち、石橋を取り囲んでいて、周りをたくさんの峰に囲まれていた。風景が斉雲山の天門より優れているのは、天台山の石梁で、巨石がふたつの山の間に架かっているだけだった。それに比べ、ここではひとつの山が両側に高く架かり、中間は半分が中空になっていて、より一層巧みで変わっていた。石橋を通り、一里あまり行くと内岩である。内岩の上では泉が噴き出ていて、中では僧侶が精進飯を提供してくれ、本当にすばらしいところだった。

 

外岩に戻って食事をし、道案内を捜し、崖に沿って左側に下山した。灌木や草むらの中、ふたつの山の間に一本の渓流がはさまり、道は歩きにくく、加えて大雪が一面に降り積もり、前に進むのはたいへん困難だった。案内人は私に傅岩に行くべきで、観音岩には行く必要ないと勧めた。私は棋盤と龍井の景勝地をどちらも見られなくなるのが心配だった。それは許されない。二里進み、渓流の中に深い淵があるのを見つけた。水は青緑色で、深く底なし沼のようで、「龍井」のようであった。また三里行き、崖と渓流とが尽きると、滝が突然山間の窪地から数丈の高さで流れ落ち、これも珍しい景色だった。道を転じて上に登り、山の尾根を二里進むと、棋盤石が山頂に高く聳えているのが見えた。形は手で掲げ盛ったキノコのようで、大きさは何人もの人で抱えるほどあった。棋盤石に登ると、上を覆った積雪が真っ白な玉のようであった。振り返って傅岩を見ると、高く雲の際まで聳えていた。傅岩から棋盤石までの距離はたいへん近く、道案内の勧めに従わなかったことを後悔した。棋盤石の傍には文殊庵があり、庵の中の青竹は青緑色で、山の石は美しく、互いに照り映えていた。向きを東に変え、さらに南を向いて二里進み、峠をふたつ越えて、山の中腹に観音岩が見えた。観音岩禅院は清らかできれいに整っていたが、格別珍しい景色ではなかった。とりわけ後悔したのは、傅岩は見ることができたが、傅岩を遊覧する機会を失ってしまったことである。引き続き峠を越えて東に向いて深い穴に下りて行った。渓谷の四方は崖で囲まれ、時折深い淀みが現れ、大きなものは淵、小さなものは木の臼のようで、皆「龍井」と言うが、どれが「五龍井」でどれが「九龍井」か、見分けがつかなかった。更に前に、都合三里進むと、岩の中に石紋がかすかに見られた。案内人がその中の一ヶ所は「青龍」、また別の一ヶ所を指して「白龍」と言ったので、私は微笑んで頷いた。またでこぼこの崖の中間に石が岩壁にはめ込まれ、つり下がって空中に垂れさがり、水が下に流れ落ち、外から見ると横向きの石が跨いでいて、天台山の石梁にたいへんよく似ていた。汪伯化道士は夕暮れが近いので、私にはやく谷に沿って大龍井を尋ねるよう求めた。思いがけなく、黄山から戻って来た僧侶に出逢ったので、道を尋ねると、「ここを出ると大渓だが、まだ他にどんな景色を見ようというのかね。」と言われた。それで遂に引き返した。

 

一里あまり歩いて、また別の小道から漆樹園に向け進んだ。切り立った岩がそびえ立つ中、夕陽が深く茂った木々を照らし、たいへん静かで美しかった。三里の道を歩き終え、漆樹園の山頂へ山道を登った。私は実はこの山の高さは斉雲山と同じくらいだと思っていたが、仔細に見てみると、文昌閣の方がより高く聳えているのが分かった。五老峰はちょうど文昌閣と相対して聳えており、その東側は独聳寨で、独聳寨の山あいに沿って出たところが、西天門と呼ばれていた。五老峰の西側が展旗峰で、展旗峰から下って渓流を渡ったところが、芙蓉橋と呼ばれていた。私はこれまで、西天門から出てきたが、今度は芙蓉橋から入ることになる。三姑岩の傍らを見ると、夕陽の輝きがまだ残っているので、先ず上に登って、西に沈む夕陽が五老峰の間をゆっくりと下に沈んでいくのを見た。榔梅庵に戻ると、もう夕食の時間であった。今日一日の行程を話していて、大龍井はちょうど大渓の入口であったことが分かった。足跡はそこまで至ったことであるし、僧侶に止められて遊覧できなかったのも、また運命だと思った。

 



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