中国語学習者のブログ

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『徐霞客遊記』を読む(1)遊天台山日記

2021年09月28日 | 中国文学

徐霞客

 

徐霞客(1586-1641)、名は弘祖、字は振之、霞客と号しました。明代南直隷江陰(今日の江蘇省江陰市)の人です。徐氏は代々官僚を輩出した家柄で、高祖父・徐経の代に巨万の富を築き、父の代には中衰期にあったものの、依然としてかなりの資産を有していました。幼時から多くの典籍に触れて育ちましたが、とりわけ奇書と呼ばれる古今の史書・地理書・山海経図を愛読し、仙人・隠士の足跡に思いを馳せました。科挙に合格して役人になるのは彼の本心ではなく、早々に仕官の道を諦めて名山大川を訪ねる志を持ちました。22歳より旅行を始め、55歳で病のため故郷に戻るまでの30余年、全国の名山大川、海の果て、辺境の地を遍歴しました。東は海を渡り落迦山(浙江省舟山群島の普陀山。観音霊場)に至り、西は騰衝(雲南省。ミャンマーとの国境付近)の西境に至り、北は盤山(山西省大同市天鎮県の石窟寺院)に遊び、南は広東羅浮山(広東省増城県北東。道教霊山)に達しました。彼は足跡を今日の北京、天津、上海、江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、湖北、安徽、浙江、福建、広東、江西、湖南、雲南、広西、貴州など十九の省、市、自治区に残しました。彼は中国の偉大な旅行家、地理学者、旅行作家でありました。彼は生涯、旅行中に日記を書き続けました。これが後世の人によってまとめられたものが『徐霞客遊記』ですが、『徐霞客遊記』の書き始めに当たる5月19日は、中国当局により「中国旅游日」(中国旅行の日)に定められています。

 

それでは、『徐霞客遊記』(華夏出版社2006年発行)をテキストに、内容を読んでいきます。最初は、「遊天台山日記」(浙江台州府)です。

 

天台山は今日の浙江省天台県の北、また台山と略称されます。仏教天台宗の発祥の地で、日本天台宗祖の最澄が遣唐使の一員として入唐後、804年に天台山に入り天台法門と菩薩戒(ぼさつかい)を受けました。ここには隋代創建の国清寺や、多くの景勝地があり、石梁飛瀑が最も名高いものです。徐霞客は万暦4年(1613年)、27歳の時に浙江に到り、先ず洛伽山(普陀山)に遊ぶも、旅行記は伝わっていません。その後、海沿いに南下し、天台山、雁宕山に遊びました。同行奢は江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。

寧海県及び天台県の位置

 

癸丑の年(明の万暦41年、1613年)三月末日(3月30日)、寧海(今日の浙江省寧海県)の西の城門より出発した。雲が消え日も出てきた。同行者の気持ちも、山の景色も、何れも喜ばしいものだった。三十里(15キロ)で梁皇山(寧海県の西南)に至った。聞くところによると、この地は虎が出没し、月に数十人、道行くものが襲われるとのことだったので、宿に泊まらざるを得なかった。

寧海より華頂山までの行程

 

四月一日、朝から雨だった。十五里(7.5キロ)行くと、分かれ道があり、馬首を西に天台山に向かう。雨が上がり次第に晴天になった。また十里(5キロ)行き、松門嶺の麓に至った。

松門嶺

 

山は険しく路は滑りやすく、馬を下り歩いて進んだ。奉化(今の浙江省奉化県)以降の道は、ずっと山麓を歩いてきた。ここに至って迂回しようにも登りになり、尾根伝いの道になった。雨後晴天となり、泉の音が聞こえ、山の景色は度々変化した。緑の草むらの中に赤い山ツツジの花が映え、山を登って来た苦労を忘れさせた。また十五里(7.5キロ)進み、筋竹庵で休憩し、食事を取った。

 

山頂は到る所麦が植えられていた。筋竹嶺から南に行くと、国清寺に通じる街道だった。ちょうど国清寺の僧、雲峰といっしょに食事をした。彼によると、ここから石梁に行くには、山が険しく路程も長いので、荷物を持って行くのは不便で、軽装で行った方が良い。重い荷物は国清寺へ向かわせ、そこで待たせた方が良いとのことだった。私もその通りだと思い、人夫に雲峰に従い国清寺に向かわせ、私は蓮舟上人と石梁道を進んだ。

天台山地図

 

行くこと五里(2.5キロ)、筋竹嶺を過ぎた。峠のあたりは背丈の短い松が多く、老いた幹は屈曲し、木の幹や葉は青々と美しく、町に住む人の家の盆栽の松のようであった。また三十里(15キロ)余り進み、弥陀庵に着いた。急峻な山の峰は上り下りを繰り返し、深山は荒涼として静かだった。(おそらく虎が草むらに隠れて人を襲うことのないよう、道沿いの草木を焼き払ったのだろう。)泉の水がごうごうと音をたて、風がひゅうひゅうと鳴り響き、道を行く旅人の姿も無かった。庵は山に囲まれた平らな土地にあり、道は荒涼として先も長く、ちょうどその中間地点であるので、旅人はここで食事をとり、一泊するのが良いようだった。

 

二日、雨はようやくあがった。道に溜まった水を越え、山の峰に登ると、渓流や山の岩石は益々清らかで静寂になった。二十里進み、夕刻に天封寺(現在の天台県東北境にあった)に着いた。夜、床に就いてからも、今朝の峰の頂に登った時のことが思い出された。雨がやみ空が晴れたのは縁があったからのように思えた。それというのも連日夜になってからようやく天気が回復し、朝から晴れることがなかったからである。五更の時(3時から5時の間。夜明け)に夢から目覚め、満天の星空だと召使たちが言っているのが聞こえ、うれしくて再び眠ることができなかった。

 

三日、朝起きると、果たして日が燦燦と輝いており、頂上(天台山最高峰の華頂山、標高1,138メートル)に登ろうと決めた。数里登り、華頂庵に着いた。また三里行き、頂上に近づくと、太白堂であるが、何れも特に見るべき所は無かった。太白堂の左下に黄経洞があると聞き、小道を進んだ。二里行くと突き出た大きな岩が見渡され、たいへん秀麗で美しく感じた。近づいて見ると、ひとりの出家者が結んだ庵が黄経洞の前に建てられていた。洞窟より吹いてくる風を恐れ、石を積んで洞窟の入口を塞いでおり、私は大いに感嘆した。再び道を登って太白堂に戻り、今度は道に沿って頂上へ登った。雑草が風に吹かれて千々に揺れ動いた。山の峰は高く風は身を切るように寒く、草の上に積もった霜は一寸(3センチ)余りの厚さになった。四方に連なる山々を見渡すと、美しい花と碧玉のような緑の木々が巧みに配列されて遠くに見えた。山の麓には花々が咲き乱れているが、一方山の頂上は全く花が咲いておらず、おそらく高いところは寒いのでこうなっているのだろう。

華頂山

 

もと来た道を引き返し、華頂庵まで下り、池の畔の小橋を渡って、峠を三つ越えた。渓流が巡り山々が連なり、樹木が密集し奇岩があり、次々絶景が現れ、見る者を大いに満足させた。二十里で上方広を過ぎ、石梁に到着した。

石梁・古方広寺

中方広寺

 

昙花亭(現在の中方広寺の境内にあった)で仏様をお参りしていると、もう石梁飛瀑の絶景を細かく見ている時間が無くなった。更に下って下方広まで行き、石梁飛瀑を仰ぎ見ると、ふと滝が天の果てを流れ落ちているかのように思えた。聞くところによると、断橋、珠簾水はとりわけ有名な景勝地だそうで、寺の僧によると、食事を済ませてから見に行ってもまだ行って帰ってくることができるそうなので、仙筏橋から山の後ろに向かった。山の峰をひとつ越え、渓谷に沿って八九里行くと、谷川の流れが滝を形成し石門から流れ落ち、流れが渦巻いて、三段の流れに曲がっているのが見えた。上層が断橋で、ふたつの巨石が斜めに傾いて連なり、渓流はふたつの石の間を流れ、波のしぶきが飛び散り、それらが集まって淵に流れ込んでいた。

石梁飛瀑の上層(断橋)

 

中層ではふたつの巨石が対峙して狭い門のようになり、渓流の水はこの狭い門で拘束され、流れの勢いはたいへん激しくなっていた。

石梁飛瀑の中層

 

下層では、淵の出口はたいへん広くゆったりしていて、渓流の出口は門の敷居のように流れを隔て、水は低い窪みのところから流れ落ちていた。三段の滝は各段の高さが何れも数丈(1丈は約3.3メートル)にも達し、それぞれの景観はたいへん神秘的だが、水は各段を上から順に流れ落ち、各段は曲がった流れで遮られているので、一目で見渡すことはできなかった。また一里ほど行くと珠簾水で、渓流の流れ落ちるところは平坦で広く、したがって水の流れはゆるやかで、よどみなくこんこんと流れていた。

珠簾水

 

私は裸足になって草むらに足を踏み入れ、木によじ登り、崖に沿って前に進んだ。そのため、蓮舟和尚はついて来ることができなかった。夜のとばりがあたりに降りてから、ようやく引き返した。仙筏橋で足を止め、虹のような形の石の橋と、滝の水しぶきが雪を噴き上げているかのように見える景観を眺めていると、全く眠る気が起こらなかった。

仙筏橋

 

四日、空は真っ青で、山々は濃い緑に染まっていた。朝食を取る暇もなく、仙筏橋を経て昙花亭へ登った。「石梁」(石橋)はあずまやの外にあった。

石梁

 

「石梁」は幅一尺(30センチ)あまり、長さは三丈(10メートル)、二つの山の窪みの間に架かっていた。二種類の飛瀑(滝)があずまやの左側から流れて来て、橋のところで合流して下に流れ落ち、一本の滝となって水音は雷鳴のように轟き、まるで川の堤が決壊したかのようであった。滝の高さは百丈(300メートル)以上に達していた(これは誇張で、実際の滝の落差は30メートル)。私は「石梁」を渡り、橋の上から下の淵を見下ろすと、怖くて鳥肌が立った。「石梁」の向こうは大石に遮られ、前方の山へは進めず、もと来た道を引き返すしかなかった。昙花亭を経由して上方広寺に入った。寺の前の渓流に沿って、再び前山を遮る大石の上に登り、石の上に座って「石梁」を鑑賞した。下方広寺の僧侶が飯を食うよう催促するので、その場を離れた。食後、十五里歩き、万年寺に着き、蔵経閣に登った。蔵経閣は二階建てになっていて、南北の仏教経典が二つの蔵に納められていた。

万年寺

 

万年寺の寺の前や後ろには多くの古い杉の木があり、何れも三人でようやく囲めるほどの幹の太さがあった。鶴が木の上に巣を作っていて、鶴のよく響く、遠くまで通る鳴き声が聞こえた。これも深い山の中の清く雅な物音と言えるだろう。この日、私はもともと桐柏宮へ行き、瓊台や双網といった景勝地を探したいと思っていたが、道の途中に旅人を惑わす分かれ道がたくさんあるとのことで、計画を変更して国清寺へ向かった。国清寺(隋の開皇18年(598年)創建。当初、天台寺と言い、後に「寺若成、国就清」から取り、国清寺と改名。唐代、最澄は天台宗第9祖、道邃(どうすい)より菩薩戒を受けた)は万年寺から四十里で、途中、龍王堂を通った。山の峰をひとつ下る度に、私はもう平地に降りて来たかのように感じたが、続けて幾重もの峰を下っても、下り坂は延々終わることがなく、こうしてはじめて華頂山の高さは、天上からいくらも離れていないくらい高いと悟った。日暮れ時に、ようやく国清寺に入り、雲峰和尚と再会した。

国清寺

 

長く別れていた気の合う親友に再会したかのようであった。和尚と天台山観光の行程順序を相談した。雲峰和尚が言うには、「天台山の名所は寒岩と明岩の二カ所に勝るところは無い。距離はやや遠いが、馬で行ける。先ず寒岩、明岩を遊覧し、その後歩いて桃源洞へ行き、桐柏宮に到達する。こうすれば、翠壁、赤城栖霞二カ所の景勝地も一度に見てしまうことができる」と。

 

五日、雨が降りそうだったが、気にしない。寒岩、明岩への道を取り、国清寺から西門へ行き、騎乗する馬を探した。乗る馬が来たが、雨も降りだした。五十里進んで歩頭に着き、雨が止んだ。乗って来た馬も帰らせた。二里歩いて、山に入った。山並みが麓を巡り流れる川に映り、木々は美しく、岩石は形が面白く、見ていてとても楽しくなった。一本の渓流が東陽の方から流れて来て、流れはたいへん急で、水量は曹娥江(天台山北麓を源に、北に流れ、新昌、嵊県、上虞を経て杭州湾に注ぐ川)のようであった。四方を見渡しても竹の筏の渡しが見当たらず、人足に背負ってもらって渡るしかなかった。水の深さは膝の高さほどあり、渓流を渡るのに一時間ほどかかった。また三里歩き、明岩に着いた。

明岩寺

 

明岩は寒山、拾得が隠棲した所で、ふたつの山が曲がりくねって鎮座し、『大明一統誌』に言う八寸関である。八寸関に入ると、四方は切り立った石の壁に囲まれ、城壁のようであった。

八寸関(明岩寺)

 

一番奥に深さ数丈の洞窟があり、穴の広い所には数百人を収容できる広さがあった。洞窟の外は、左側はふたつの巨岩で、それで壁半分を構成していた。右側には石筍が

高く聳え、てっぺんは石壁と同じ高さで、一直線になっていた。石筍の上には青松と紫色の花蕊(かずい)が盛んに茂り、ちょうど左側の巨岩と対峙していて、風変わりな景観と言うべきであった。八寸関を出て、再び岩に登ると、方向はやはり左向きであった。ここに来た時、仰ぎ見ると一本の細い隙間を隔てただけのように見えたが、岩の上に登ってみると、そこはたいへん広くて、数百人の人を収容できることが分かった。岩の真ん中には井戸があって、仙人井と呼ばれ、浅いが水が枯れることはない。岩の外には珍しい石があり、数丈の高さがあり、上部はふたつに分かれ、二人の人が立っているように見え、当地の僧はこれを指して寒山、拾得の化身と言った。寺に入った。夕食後、雲は散って消え、三日月が夜空に掛かった。人の形の岩が崖のてっぺんに見え、岩壁の上にも月明かりが注ぎ込んだ。

 

六日、夜明けに寺を出発し、六七里で寒岩に着いた。岩壁がまっすぐ上にそそり立ち、刀で割ったようであった。

寒岩

 

上空を仰ぎ見ると、たくさんの洞穴が見えた。岩壁の真ん中あたりに洞窟があり、幅八十歩、奥行き百歩あまり、洞内は平坦で明るかった。岩を右側に行くと、岩の狭くなったところから細い道が上に登って行った。山の岩の低くなった窪みにふたつの岩が相対して聳え立ち、下の部分は分かれ、上部でつながっていた。

鵲橋(寒岩)

 

これがいわゆる「鵲橋」で、上方広寺の「石梁」(石橋)と相争う奇観であるが、ただ水しぶきの上がる滝の水が落ちる景観がここには無かった。僧の宿舎に戻って食事をとり、竹の筏を探して渓流を渡った。渓流に沿って山を下った。この一帯は、断崖絶壁で、雑草が巻き付き、木々の枝は下に垂れ、多くの海棠やハナズオウの木があり、濃い影が渓谷に映り、一層風景を優美にしていた。香しいかおりを帯びた風が吹いてくるところには、モクレンやかぐわしい香草が群生していた。山の支脈の尾根まで来ると、岩壁はまっすぐ谷底に垂直に落ち、谷川は深く流れは急で、あたりには足を踏み入れる場所も無かった。岩壁は穴を穿って通れるようになっていて、穴には足先半分しか踏み入れることができず、身体を岩壁に貼り付けてやっと通ることができ、行く者をはらはらどきどきさせた。寒岩から十五里歩いて歩頭に至り、小道を通って桃源洞に向かった。桃源洞は護国寺の傍にあった。護国寺の建物は既に廃墟となっていた。土地の者に聞いても事情を知る者はいなかった。雲峰和尚に従い、草木が生い茂った曲がりくねった道を進むうち、日も沈んでしまい、泊まるところも無く、また道を尋ねるうちに、遂に坪頭潭(現在の平鎮。天台県の西の境界)に着いた。坪頭潭から歩頭まではわずか二十里の行程だが、今日は小道を来て、三十里あまり回り道をして、ようやく宿に着いた。確かに桃源洞は人を誤らせるところだ。

 

七日、坪頭潭から曲がりくねった道を三十里あまり行き、渓流を渡って山地に入った。更に四五里行くと、尾根がだんだん狭くなり、そこに宿坊があり、「桃花塢」(「塢」wùは山の窪地のこと)と言った。深いよどみに沿って進むと、よどみの水は次第に澄んできれいになり、ほとばしる山の湧水が上からよどみに注ぎこむところに来た。ここは「鳴玉澗」と呼ばれる。谷川の水は山に沿って流れ、人は谷川に沿って進むことになる。谷川の両側はむき出しの岩山で、連なる山々はあちこちで緑の木々と入り混じり、およそ目に入るものは全て鑑賞に耐える景観で、たいていが寒岩、明岩の景色より勝っていた。谷川が尽きると道も無くなり、一本の滝が山の平らになったところから流れ落ち、その勢いは甚だ奔放であった。宿坊で食事をとって、桃花塢を出、山の窪地に沿って東南に向かった。峠をふたつ越え、「瓊台」、「双闕」の二ヶ所の景勝地を尋ねたが、誰も知らなかった。更に数里歩いて、やっとそれが山頂にあることが分かった。雲峰和尚と山道をよじ登り、やっとのことで山頂に着いた。下を見下ろすと、切り立った崖は削られ、曲がりくねった岩肌は、全く桃源洞の景色と同じようであった。そして一面緑の木々に覆われた万丈の岩壁は、桃源洞の急峻を上回っていた。山の峰の頂が欠けて二つに分かれているところが、いわゆる「双闕」(「闕」quèは古代の王宮の門の両側にあった望楼のこと)で、「双闕」にはさまれた中間の輪になった石の台が「瓊台」qióngtáiである。

双闕

瓊台

 

「瓊台」は三面が絶壁で、後方だけが「双闕」につながっていた。私は望楼に向いて立った。日が暮れて、もう再び「瓊台」に登る時間は無かった。しかし優美な風景はもう堪能し尽くしていた。遂に下山し、赤城山の背後から国清寺に戻った。およそ三十里の道のりであった。

 

八日、国清寺を出発し、山の後ろを五里進み、赤城山に登った。赤城山の山頂には円形の岩壁がそびえ、見たところ城壁のようで、岩の色はやや赤みがかっていた。岩の洞窟は僧の宿舎になっていて、中は散らかり、自然の景観はもう見る影もなかった。玉京洞、金銭池、洗腸井は何れも見てもどうということはなかった。

 



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