中国語学習者のブログ

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避暑山荘(その2、宮殿地区)

2023年12月23日 | 旅行ガイド

避暑山荘正宮の中心、澹泊敬誠殿内部

 

 前回、清の康熙帝が避暑山荘を造営した背景について説明してきましたが、今回は避暑山荘の宮殿地区の紹介となります。

避暑山荘宮殿地区

 避暑山荘の宮殿地区は、山荘全体の南側にあり、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建造物から構成されている。これらの宮殿の共通の特徴は、決して華麗で立派ではなく、屋根には瑠璃瓦を用いず、屋根の棟は飛翔させず、梁の柱は多く着色せず、彩色した絵で飾られておらず、見たところ素朴でさっぱりしている。それぞれの建物の中庭には青松が何本も植えられ、あるものは築山や石段の道を築いて美しく見せている。それぞれの建物の間は回廊でつながれ、一体化されている。

 正宮は宮殿地区の西側にあり、麗正門、閲射門、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)、四知書屋、煙波致爽、雲山勝地などの建物から構成されている。これらの建物の建築様式は左右対称で、配置は緻密で、北方の四合院の様式である。

  麗正門は、避暑山荘の正門である。麗正門を入って北に行くと、 閲射門であり、門の上には康熙帝が自ら揮毫した「避暑山荘」の扁額が掲げられ、それゆえまたの名を避暑山荘門と言う。

康熙帝揮毫の「避暑山荘」扁額

 避暑山荘門の中は、熱河行宮の正殿、 澹泊敬誠殿である。この御殿は1710年(康熙49年)と1754年(乾隆19年)、全て四川、貴州から徴発したクスノキを用いて建造、改築されたことから、楠木殿とも呼ばれる。クスノキで作った梁、柱、門、窓は全て元の木材の色が保たれ、彩色彩絵されておらず、雨季や霧の季節になると、クスノキの香りが絶えず漂った。

澹泊敬誠殿

澹泊敬誠殿の「澹泊」の二字は、諸葛亮の「非澹泊無以明志,非寧静無以致遠」(無欲でなければ志を明らかにできない。静かで安らかでなければ遠望を持つことができない。『誡子書』)の名句から採ったものである。康熙帝は「澹泊」を標榜し、彼の孫の乾隆帝も「標言澹以泊,継曰敬兮誠」(無欲を標榜し、日々誠を敬う)などと言った。もちろん、こうした封建皇帝は無欲な生活をするすべがなかった。この正殿は清帝が盛大な典礼を挙行する場所であった。もし皇帝が山荘で暮らす間に誕生日を迎えると、大いにお祝いを行い、王公大臣たちがここで皇帝にお祝いの言葉を高々と叫んだ。皇帝は少数民族の首領の人物や外国使節を接見する盛典もいつもここで挙行した。特に提起するに値するのは、澹泊敬誠殿は清代の歴史上意義のある一幕、乾隆帝が万里を帰還(東帰)してきた土尔扈特(トルグート)部の傑出した指導者、渥巴錫(ウバシ・ハーン)を接見したことである。

  トルグート(土尔扈特)は元々新疆北部のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)四大部族のひとつで、その他三部はホシュート(和碩特)、ジュンガル(准格尔)、ドルベト(杜尔伯特)である。明朝末期、彼ら部族はジュンガル部上層貴族のいじめに堪え難く、西に移動し、1630年(明崇禎3年)ボルガ川下流に引っ越した。帝政ロシアはトルグート部に対して長期間残酷な圧迫と掠奪を行い、またこの部族の青年壮年の人々を徴用して侵略や戦争の拡大を行い、多くの人々が命を失った。トルグート部はこれ以上容認できなくなった。1771年(乾隆36年)初め、英雄、 トルグート部首領 ウバシ・ハーンは、部族の人々を率いて東へ帰還し、途中帝政ロシアの軍隊の追撃と阻止を粉砕し、様々な困難や危険を克服し、巨大な犠牲を払って、半年余りの時間を経て、行程1万余里、遂に元々暮らしていた清国領に戻り、貴重な保存されてきた明永楽8年(1410年)にその祖先が明朝から賞賜された漢篆玉印を清政府に献上した。

トルグートの西遷と東帰

  ウバシ・ハーン率いる部族が帰還したことは、ちょうど木蘭圍場で秋狝していた乾隆帝を大いに喜ばせ、彼は ウバシを熱河に来させて朝見した。この年の98日、乾隆帝は木蘭の蒙古式のゲルの中で親しくモンゴル語でウバシと談話し、東帰の情況を尋ねた。乾隆帝は続いて避暑山荘に戻り、再び澹泊敬誠殿で厳かにウバシを接見し、彼が部族を率いて祖国に帰還した壮挙を称賛し、彼を卓里克図汗(「英雄のハーン」の意味)に封じ、また山荘内の万樹園等で何度も宴席を設け、夜は灯火を灯した。この時ちょうど普陀宗乗之廟が落成し、乾隆帝はウバシに随行して参詣させ、新疆、青海等の少数民族の王公貴族と一緒に盛大な法会に参加した。

 次に、引き続き正宮の建物を説明する。澹泊敬誠殿の北側には四知書屋があり、清帝は時々ここで各少数民族の首領を招いて接見した。更に北側には 煙波致爽と雲山勝地がある。煙波致爽は前三十六景の中の第一景で、この土地は「四方が秀嶺、十里の澄湖にて、爽気を致す」、これは康熙帝がこう名付けた由来である。

 しかし、咸豊時代になり、 煙波致爽は清王朝の屈辱や醜悪な史実と関係が発生した。煙波致爽は皇帝の寝宮であり、清の嘉慶帝、咸豊帝はここで死亡した。皇帝の居室はその真ん中にあり、東西に各々ひとつ小院があり、東西所と呼び、皇后、妃が居住する場所であった。1860年(咸豊10年)9月、英仏連合軍がすさまじい気勢で北京を侵犯した。咸豊帝は北京の円明園からあわてふためき出奔し、熱河に来て、930日に 煙波致爽に入り、咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏が西側の小院で暮らした。咸豊帝は彼の六番目の弟の奕訢(えききん)に命じて北京に留まり「講和交渉」を管轄させ、英仏、及び帝政ロシアと不平等な『北京条約』を締結し、中国は大版の領土と主権を喪失した。

 1861822日、咸豊帝は煙波致爽で病死した。彼の遺詔により、まだ6歳の息子の載淳(同治帝)が山荘で皇位を継承し、怡親王載垣、鄭親王端華、戸部尚書粛順等の八大臣が「一切の政務を補佐」し、載淳を補佐した。咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏(イェヘ・ナラ氏)は載淳の生母で、載淳の即位後、咸豊帝の皇后の鈕祜禄氏(ニオフル氏)と共に皇太后になり、那拉氏が慈禧太后、鈕祜禄氏が慈安太后となった。慈禧は御簾(みす)を垂れてその奥で聴政(垂帘听政)し、朝廷の大権を操った。粛順ら八大臣は彼女に対して早くから警戒し、彼女が政事に干渉することに断固反対した。このため慈禧は政務を補佐する八大臣をひどく怨んだ。彼らを排除するため、彼女は急いで恭親王奕訢を召して北京から熱河に赴任させた。95日、奕訢は避暑山荘に咸豊帝の葬儀に駆けつけた。山荘の離宮で、慈禧は奕訢と秘密裏に協議し、北京に戻って政変を発動する計画を立てた。続いて、慈禧は八大臣に命じて馬車を準備させ、咸豊帝の柩を北京に護送させた。111日(旧暦925日)慈禧は北京に戻り、翌日彼女は同治帝の名義で上諭(勅命)を発布し、載垣、端華、粛順らの職務を解除し、逮捕させた。118日(同106日)、また命令を発し粛順を斬首し、 載垣、端華に自尽させ、八大臣中の残り五人は罷免や流刑に処した。慈禧は直ちに彼女が渇望した垂帘听政を実現し、清王朝の最高権力を奪い取った。その後の半世紀の期間、慈禧は対内には残酷な圧迫、対外には膝を屈して投降し、中国近代史に暗黒の1ページを残した。

 次に正宮の東側に位置するもうひとつの建築群の松鶴斎を紹介する。これは乾隆年間に建設され、松鶴斎、継徳堂、楽寿堂、暢遠楼が含まれる。そのうち主要な建物が松鶴斎である。これは乾隆帝の母親の孝聖憲皇后が居住した場所である。これら建築群の最後部が暢遠楼で、建物の後ろの門は宮殿地区の別の建築群の万壑松風に通じている。

 万壑松風(ばんがくしょうふう)は康熙年間に建設された。万壑松風、鑑始斎、静佳室等から構成される。これら建築群は高い丘の上に建築され、青い湖に面し、松林の緑で覆われ、谷間を風が通り抜け、殿宇が入り乱れて趣があり、レイアウトが変化に富み、北方の四合院の様式とは明らかに異なり、極めて南方の園林に似ている。 万壑松風の主殿は康熙帝が章奏に目を通し、臣下に指示を与えた場所である。主殿の南側は 鑑始斎で、乾隆帝が少年時代にここで勉強をし、直接康熙帝の教戒を受けた場所である。乾隆帝の即位後、祖先を紀念し、主殿を紀恩堂に改称した。

 東宮は 松鶴斎の東側にあり、ここには乾隆年間に建設された膨大な建築群があり、南の徳匯門から始まり、北の塞湖之浜に到った。ここには乾隆帝が日常大臣を引見し、詔(みことのり)を頒布した前殿、乾隆帝の誕生日に芝居を催した清音閣(俗称は大戯楼)、宴会を挙行した福寿園、政務を処理した勤政殿があった。これらの建物は1933年の日本の侵略軍による破壊と1948年の火災で消失した。現在は塞湖之浜の巻阿勝景、これは勤政殿の後殿であるが、唯一残っているが、これは1979年に再建されたものである。



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