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北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

2024年01月18日 | 中国史

十三陵

 北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。

 明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきんけい)が昌平県北黄土山に「吉壌」を得、朱棣が自ら現場に赴き決定をし、遂に黄土山を天寿山に改め、1409年ここに陵墓の造営を開始し、1413年(永楽11年)完成を告げ、名を長陵とした。皇后の徐氏は先に南京に葬られていたが、この年南京から長陵に改葬された。1424年(永楽22年)7月、朱棣は北方へ遠征し、北京に凱旋の途中、楡木川(今の内蒙古多倫県の域内)で亡くなり、12月に長陵に葬られた。この後、その子孫が継承し、皆陵墓を長陵の左右に造営し、明朝末年までに、全部で十二陵が揃った。

 明滅亡後、更に思陵が出現し、遂に十三陵が形作られた。思陵だけが西南の一隅にあり、他の陵とは隔絶して見えない。ここは元々朱由検(16代崇禎帝)の妃の田氏の墓であった。1642年(崇禎15年)田貴妃が亡くなり、ここに葬られた。朱由検は即位し、陵墓の地を選定しようとしたが、天寿山にはもう選定する土地が無く、それとは別に遵化に営陵する建議があったが、まだ実施していなかった。(『帝陵図説』巻31644年李自成が北京を攻め落とし、朱由検は煤山(今の景山)で首をくくって死に、皇后の周氏は宮中で首をくくって死んだ。李自成は彼らを田妃の墓の中に葬るよう命じたので、元昌平の小役人だった趙一桂らが金を集めて墓作りを開始し、田妃を右に移し、周皇后を左に置き、朱由検を真ん中に安置し、よもぎを刈って土を封じ、慌ただしく墓を完成させた。清朝は入関(山海関内に入って)後、この墓に追加工事をして陵にし、名称を思陵に改めた。

 明朝の埋葬制度では、一帝一后の合葬であった。例えば長陵には成祖朱棣と皇后徐氏が埋葬され、献陵には仁宗朱高熾と皇后張氏が埋葬され、景陵には宣宗朱瞻基と皇后孫氏が埋葬され、泰陵には孝宗朱祐樘(しゅゆうとう)と皇后張氏が埋葬され、康陵には武宗朱厚照と皇后夏氏が埋葬され、徳陵には熹宗朱由校と皇后張氏が埋葬された。しかし裕陵以後は、皇后が慣例通り合葬された以外、位を継いでから合葬する、又は皇帝が位を継いでからその生母或いは祖母を追尊してから合葬することになり、このため、それにつれ一帝二后合葬、一帝三后合葬という情況が生まれた。例えば裕陵には英宗朱祁镇と皇后銭氏、周氏(憲宗の母)が埋葬され、茂陵には憲宗朱見深と皇后王氏、紀氏(孝宗の母)、邵氏(世宗の祖母)が埋葬され、永陵には世宗朱厚熜と皇后陳氏、方氏(陳氏死後に立てられた皇后)、杜氏(穆宗の母)が埋葬され、昭陵には穆宗朱載坖(しゅさいき)と皇后李氏、陳氏(李氏死後に立てられた皇后)、李氏(神宗の母)が埋葬され、定陵には神宗朱翊钧(しゅよくきん)と皇后王氏、光宗の母、王氏が埋葬され、慶陵には光宗朱常洛と皇后郭氏、王氏(熹宗の母)、劉氏(崇禎帝の母)が埋葬された。思陵は特殊な情況で、崇禎帝朱由検と皇后周氏、妃の田氏が埋葬された。このように、十三陵には十三帝二十四后妃が埋葬されている。

 明初、宮妃従葬の令が出され、およそ皇帝死後、諸妃は従葬させるよう強制された。長陵にはいわゆる東西二井があり、東井は徳陵の東側、西井は定陵の西北にあり、すなわち朱棣の十六妃が従葬された場所であった。従葬者の墳墓はと称した。これは墓穴があるだけで、隧道が無く、棺桶は上から直下に降ろされ、井戸に降ろされるのと同じだからである。このような人を殉葬させる制度は、英宗の末年になってようやく廃止された。この後、諸妃嬪は天寿を全うすると、各々その墳墓があり、あるものは数人、十数人が一つの墳墓に合葬され、多くが北京西山、金山に埋葬され、また天寿山の陵墓地区内に埋葬されたものもあった。

 十三陵の建築には、膨大な体系があった。陵区全体の周囲は40平方キロ、周囲には中山口、東山口、老君堂口、賢庄口など10の関所(関口)があり、各々の関所の間は全て囲い壁(垣墙)でつながれ、陵区全体が囲われていた。陵区の南端及び西南端には、大小の赤色の門が建てられ、そこから出入りできた。しかし、これらの建物は現在はもう残っておらず、その残跡が見られるだけである。

明十三陵陵区地図

 昌平から北に行き陵区に到ると、五架六柱6本の柱の上に5つの小屋根が掛け渡された)の白石坊(石牌坊が一基あり、一色の漢白玉で作られ、1540年(嘉靖19年)に建立された。

石牌坊

更に北に行くと大紅門に到り、門は三洞に分かれ、門外の両側にはそれぞれ下馬碑が一基あり、その上には「官員らはここに至り下馬す」と刻まれている。

大紅門

門を入って中に行くと一本の長い神道があり、南から北へまっすぐ長陵に到達し、その上には一連の帝王の尊厳を表す建物が聳え立っている。先ず、出迎えてくれるのが、大きな碑亭があり、二重の庇が四方に出て、中にアーチ型の碑(穹碑)があり、龍頭亀趺(頭部に龍が刻まれ、足元には石亀が置かれる)、その上には「大明長陵神功聖徳碑」と題されている。碑文は仁宗朱高炽が洪熙元年(1425年)に撰し、碑の実際の建立は宣徳10年(1435年)であった。十三陵では長陵と思陵の碑亭の碑にだけ文字が刻まれ、その他の諸陵の碑亭には文字の刻まれていない碑が立っているだけである。碑亭の北側には一群の石像が置かれ、その内容は石人が12体(勲臣4、文臣4、武臣4)、石獣が24体(馬4、麒麟4、象4、駱駝4獬豸かいち。麒麟に似ているが、身体は牛に似る)4、獅子4)で、それぞれ神道の両側を挟んで侍している。これらの石像は宣徳10年に立てられ、一個の大きな白い石を彫んで作られ、活き活きとして本物のようである。

十三陵神道石像群

石像の北には棂星門(れいせいもん)、別名龍鳳門があり、これは華表(宮殿や陵墓の前に建てられた装飾用の大きな石柱)の様な柱で組み立てられた三つの石門で、その構造は特異である。棂星門から北に行くと、七孔橋を経て長陵に到達する。

棂星門

 十三陵の各陵には、祾恩門、祾恩殿、明楼、宝城など、建物の構成は基本的に同じであるが、各陵の規模の大小、建物が豪華か簡素かの違いが存在する。長陵は規模が最大の陵墓であり、それに次ぐのが永陵、さらに定陵である。献陵、景陵は比較的小さく、思陵が最も狭小である

 長陵は陵門から祾恩門に到り、更に 祾恩殿に到り、次に明楼、宝城に到ると、全部で三重の構成(三進院落)となっている。宝城には城壁が築かれ、方形を呈し、別名を方城と言う。城壁の中は一つの大きな墳頭を取り囲んでいて、その直径は1018尺(約336メートル)。墳頭の下はすなわち地下宮殿である。明楼は宝城の楼閣で、宝城の上に盤踞(ばんきょ)し、これも方形をしている。中には墓碑が建てられ、その上には「成祖文皇帝之陵」と刻まれている。この碑は元の碑ではない。元の碑は仁宗が建て、「大明太宗文皇帝之陵」と題されていた。嘉靖帝の時、太宗を成祖と改めたが、まだ新たな碑は立てられず、木に「成祖」の二文字を刻み、元の碑の上に嵌め込んだ。万暦年間に元の碑が焼損したので、別に新たな碑を立てたのが、現在の碑である。(徐学聚『国朝典匯』巻7)祾恩殿は祭祀を行う場所で、元の名を享殿と言った。1538年(嘉靖17年)、世宗朱厚熜がここに参詣し、この時から改名して祾恩殿と呼んだ。祾恩とは、陵墓を祭り、先祖の恩を感じ、福を受けるという意味である。祾恩殿は長陵の主要建築で、九間二重の庇の屋根で、黄色の瑠璃瓦に赤い壁で、総面積は1956平方メートルに達し、今の故宮太和殿と同じ構造をしている。木造の巨大建築で、使用された木材は全て香楠木(クスノキ)である。御殿内部には32本の楠木の柱があり、各柱は一本の木材で、とりわけ中央の4本が最大で、直径は1.17メートルに達し、大人二人で抱きかかえても、手を合わせることができない。この建物は、明代の建築物中でも最大の木造建築のひとつで、その迫力は雄壮で、現在の人々もこれを見ると嘆声を発する。この建物は1427年(宣徳2年)に建てられ、今日まで551年の時間を経ている。

長陵

 永陵の宝城の大きさは長陵に次ぎ、直径は81丈(約270メートル)である。永陵の祾恩殿も極めて雄壮で、二重の庇の屋根で七間、長陵と同じく楠の木造建築である。定陵は建築上極力永陵を模倣しており、祾恩殿も二重庇の屋根で七間である。永陵と定陵は規模の上では長陵に及ばないが、その建物の技巧の精緻で華麗なことは、長陵を上回っている。永陵で最も特色を備えた建造物は宝城で、全て花斑石(大理石の一種の、まだら模様の石)を積んで作られ、支えの木や板は一切使っておらず、「氷や鏡のようにきらきら輝き、ちりやほこりも残らない。長陵もこれに及ばない。」(王源『居業堂文集・十三陵記上』)定陵の明楼も全て石で作られ、一本の木も使われていない。残念ながら永陵と定陵の地上の建造物は皆捨て置かれていたので、祾恩殿はただ残跡だけが残され、保存され壊れていないのは明楼と宝城だけである。

 定陵の地下宮殿は1957年に発掘され、私たちに地下宮殿の謎を明らかにしてくれている。元々これは巨大な石の宮殿で、全体を大理石、漢白玉石と磚石(タイル)を積み上げて作られ、梁や柱は一本も無く、完全にアーチ(拱券)構造を採用していた。全体が前、中、後、左、右の五つの正殿から構成され、部屋と部屋の間は石門で隔てられている。石門は巨大で重いが、制作は精緻で巧みで、軸は厚く周辺は薄く作られ、開け閉めは容易である。各部屋の床には多くつるつるして摩耗に強い「金磚」(別名澄浆が敷かれ、後殿はつるつるに磨かれた花斑石が敷かれ、総面積は1,195平方メートルに達する。後殿の天井の最も高いところで高さ9.5メートル、その他の各殿は天井の最も高いところの高さ7メートル以上である。この地下宮殿は広く大きく、天井が高く、きらきら光沢があり、極めて壮麗で、中国古代建築芸術中の傑作と言って羞じないものである。

定陵地下宮殿

 十三陵の広大で精巧な建物は、人々の智慧の結晶であり、当時の優れた職人の高度な技術レベルを活き活きと記録している。しかし十三陵は人々の血や汗を使って作られ、人々が圧迫され搾取された歴史の証人である。

 昌平黄土山は別名康家庄と言い、明朝が皇帝陵をここに作るや、山を閉ざし墓をあばき、人々を悉くここから追い払った。(『帝陵図説』巻2)これより、各種の徭役、祭祀や必要な調査が次々と押し寄せ、人々は耐えられなくなった。例えば長陵の造営には、4年の歳月を要し、人夫や職人の徴発は山東、山西、河南、浙江などの布政司、直隷(今の江蘇、安徽地区)府州県と北京などの地に及んだ。定陵の造営は、6年の歳月を要し、毎日使役された軍人、職人、人夫は23万人を下回らなかった。たとえ比較的小さな景陵の造営でも、6か月の時間を要し、使役された軍人、職人、人夫は十万人余りに達した。また定陵が完成した時は、費用が銀8百万両に達した。(『明史・礼志・山陵』)慶陵着工の際は、スタートで銀50万両を使った。徳陵のプロジェクトでは、その中の橋を一本架けるだけで、銀20万両余りを消費した。また陵墓建設に用いる楠や杉の大木は、皆雲南、貴州、四川などの深山老林から伐採されたもので、陵墓の建設に用いる漢白玉、艾叶青(大理石の一種で浅い灰色、青みがかった灰色のもの)などの石材は、皆百里離れた房山大石窩で採取され、花斑石は河南省浚県普化山中で採取された。

 十三陵は明代には恐れ多い禁区で、人々はここに一歩たりとも立ち入ることができなかった。明朝の律令の規定により、凡そ勝手に山や陵門に立ち入った者は棍棒で百回打たれ、陵地に入り柴を拾い草を抜いた者は、辺境に流され兵役を課され、陵地内で樹木を伐採し、採石した者は斬殺に処された。

 然るに、現在の十三陵は、中国の人々のための園林となっている。その容貌は面目一新した。古い建築群の他、壮麗な十三陵ダムや肥沃な田園が加わった。勇壮な古い建築と大自然の湖の景色や山水が互いに引き立て合い、ここは旅人を惹きつける場所となった。