中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

避暑山荘(その6)外八廟(2)

2024年01月10日 | 旅行ガイド

普陀宗乗之廟

 

(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順

 普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺境地区の各民族を安撫するの意味である。

 普陀宗乗之廟は山勢に依って建ち、前部と中部は河谷と緩い斜面に築かれ、後部は高き山の巅(いただき)に盤踞し、宏偉(雄大)巍峨(高く聳え立ち)、たいへん壮観である。廟の前部はかなり整った漢式(中国式)建築で、主に黄色の瑠璃瓦で屋根の頂を覆いた方形の重檐(ひさし)の碑亭である。碑亭を北に往くと、極めてチベット族の色彩の濃い五塔門で、門の上には五基のラマ塔がある。

更に北に往くと、光華艶麗(光り輝き色鮮やか)な瑠璃牌坊(アーチ状の門。牌楼)である。牌坊は北に延び、20基余りの白台が、間隔が異なっているが趣があり、まちまちの高さで徐々に昇って行く斜面に設置されている。

更に北には、廟の中心の建物の大紅台である。大紅台の高さは43メートルに達し、正面の赤い壁の上には、上から下に向け6つの交互に黄色と緑の瑠璃瓦の仏龕(ぶつがん)嵌め込んで装飾され、最も上端の女児墻(城壁の上にある凹凸形の小さな壁)の上には更に瑠璃瓦の宝塔が嵌め込まれていた。

大紅台の四方には慈航普渡殿、洛伽勝境殿、千佛閣等の建物があり、中心には楼閣群より一段高い万法帰一殿で、建物のてっぺんの金メッキをした銅瓦がきらきらと光を発し、左右を照り映えさせている。

 普陀宗乗之廟は1767年(乾隆32年)に着工した。1771年(乾隆36年)の竣工時、ちょうど乾隆の母親の80歳の誕生日で、ここで盛大な宗教儀式を挙行し、皇太后のため祝福した。この時、トルグート部(土尔扈特)の人々数万人を率い、半年余りの期間、1万里余りの行程を費やし、祖国に戻った渥巴锡(ウバシ・ハーン)も、ちょうど承徳に到着したので、このことは乾隆をとりわけ喜ばせ、彼は万樹園で歓迎宴を催した他、更に万法帰一殿でこのために経典を唱え祝福した。普陀宗乗之廟の碑亭内の巨大な石碑に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四種の文字で乾隆が著した『普陀宗乗之廟碑記』と『土爾扈特全部帰順記』。『優恤土爾扈特部衆記』を刻んだ。前方の一基の石碑には廟宇建設の経緯が記載され、後方の二基の石碑にはトルグート部が祖国に戻った壮挙と清政府がトルグート部に同情した情況が記述された。

 

(四)須弥福寿之廟と班禅(バンチェン)六世の乾隆との朝見(覲見)

 

須弥福寿之廟

 須弥福寿之廟はチベットの日喀則(シガチェ)の扎什倫布寺(タシルンポ寺)の形式を真似て建てたもので、避暑山荘北側の獅子溝の、普陀宗乗之廟の東側に位置する。「扎什」とは福寿の意味、「倫布」は須弥山を指し、須弥福寿とは即ち福寿が須弥山のようだという意味である。

 1780年(乾隆45年)乾隆帝70歳の誕生日の際、各民族の王公貴族が熱河行宮に集まり、彼の長寿を祝った。事前に、班禅(バンチェン)六世が自ら求めて都、北京に赴き、「以て中国が黄教(ラマ教)を振興させ、万物を撫育し、国内を安寧にし、万物が静まり安らかな光景を見」て、更に避暑山荘に至って乾隆の長寿を祝った。乾隆はこれに対してたいへん喜び、そして命令を出し、バンチェンが暮らしている タシルンポ寺の形式を真似て廟宇を建立させ、バンチェンが経典を唱え仏法を伝え、居住する場所とした。

 バンチェンはラマ教の重要な指導者であり、モンゴル、チベット地区でたいへん高い声望を享受していた。バンチェン六世は熱河に来て乾隆に謁見し、疑い無く重要な政治的影響をもたらし、中央の朝廷とチベット地方の関係を強化し、民族の団結を維持するのに有利であり、それゆえ乾隆の特別な重視を引き起こした。17807月に、バンチェン六世は熱河に到り、乾隆は直ちに避暑山荘の澹泊敬誠殿で接見し、自ら茶や点心を賜り、チベット語でバンチェンと談話し、並びに金冊金印を賜った。翌日、乾隆は自ら班禅行宮、すなわち須弥福寿之廟に来てバンチェンを尋ねたが、これは極めて特殊な待遇であった。

 須弥福寿之廟は華麗で堂々としている。バンチェン六世が経典を唱え仏法を伝えた大紅台主殿、妙高庄厳殿は、屋根が二重の檐(のき)を持つ(重檐)とんがり屋根(攢尖)で、頂には魚鱗状の金メッキ(鎏金)の銅瓦で覆われ、四方の仏殿の棟(屋脊)は各々二匹の金の龍で覆われ、一匹は上を向き、一匹は下を向き、姿かたちが活き活きとし、まるで飛び立たんばかりである。

殿内には今も乾隆当時、バンチェンが経典を講じた時のふたりの坐床(座席)と銅造と木造の仏像が残っている。大紅台の北西には吉祥法喜殿があり、これはバンチェンの居室であった。廟の一番後ろは山の斜面の高い所に建てた七層の瑠璃塔である。

 乾隆が著した『須弥福寿之廟碑記』の中で、次のように書かれている。百年余り前(1652年、順治9年)チベットのダライ・ラマ五世が清朝廷の「敦請」(切なる要請)により北京に赴いた。当時、辺境地域は尚朝廷に服していなかったが、この時はバンチェン五世が「自ら進んで」皇帝に拝謁(朝觐)し、オイラト部が「亦無不帰順」(また帰順せざること無く)、須弥福寿之廟が建立されたのは、「答列藩傾心向化之悃忱」(列藩が心から帰順したことの忠誠)を表すためだった。こうも言うことができる。この廟の建立は、ひとつの側面では乾隆時代に辺境地域の統一事業がより一層強固になったことを反映している。