中国語学習者のブログ

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北京史(二十八) 第六章 明代の北京(6)

2023年08月02日 | 中国史

劉六、劉七農民蜂起

第三節 北京の政治(続き)

劉六、劉七が指導した農民蜂起

 劉六、劉七が指導した農民蜂起は、1510年(武宗の正徳5年)10月に勃発したもので、前後トータル2年持ちこたえ、活動の範囲は今の山東、河北、河南、湖北、山西、江西、安徽、江蘇の8省が含まれ、且つ4回北京を威嚇した。

 農民軍は順天府(北京)境の覇州(河北省廊坊市南部。北京、天津、保定の三角地帯の中心に位置する)で蜂起した。覇州は明朝の北京南部の重鎮で、荘園が交錯し、軍の屯田が密集して分布し、良田、美地が皇室、勲戚(勲功のあった皇族)、衛所(明の軍隊の編制)、朝廷により占拠された。ここに居住する貧しい農民と駐屯軍は、その中には漢族だけでなく、モンゴル族、ウイグル族の人々もいた。土着の人々(土著 )だけでなく、移り住んできた流民や流罪になった犯罪者がいた。 勲戚、宦官、荘園を管理する軍の校尉の直接の搾取により、官に代わり馬を養い、特殊な賦役や雑役を課せられる中、運命を同じくする各民族の軍民が連携して蜂起した。

 モンゴルの人々はここで熟練した馬術を漢族の人々に伝授し、代わる代わる北京城に赴き、馬に乗って操練する駐屯軍もしばしば人々に依存し、彼らに馬を養ってもらった。とりわけ、こうした官に代わり馬の養育を負担した農民は、馬術にたいへん精熟し、馬はここの農民の最も大切にしているものであった。しかし、統治者は官に代わり馬を養わせる名目で人々を搾取し、甚だしきは人々の馬を強奪し、わが物とした。人々は忍び難きを忍ぶ状況下、しばしば立ち上がって反抗したので、統治者はここの人々をたいへん恐れ、ここは「人々の気風(民風)が剽悍(すばしこく勇猛)」だと言って中傷し、並びにここの人々を馬賊(響馬)と呼んだ。

 ここで農民蜂起の指導グループの構成者は正に統治階級に「馬賊」と呼ばれている農民であった。劉六、劉七、斉彦名、顧子美など34人は皆、覇州、永清、固安等の県の農民であった。農民軍の指導者、朱千戸は、元々明の副総兵、朱楨の部下の兵士で、楊虎は元々都御史の寧杲の部下の兵士であった。この他、地主階級の中の一部の知識人、例えば文安県の生員(せいいん。科挙で、最初の試験に合格し、府、州、県の学校で学習できる書生)趙鐩、その弟の趙鐇、趙鎬らも蜂起に参加した。

 劉六、名は寵、劉七、名は宸。二人は共に文安人であった。彼らは何れも勇猛(驍勇)さが人に勝っており、騎射に通じ、義侠心で覇州で名が知られていた。武宗の正徳年間(1506- 1521年)、統治階級は既にたいへん腐敗が進んで、人々に対する搾取はたいへん残酷であった。明朝の時代、文安(現在の文安県。河北省廊坊市に属する)の人は北京に行って宦官になる慣わしがあり、劉六、劉七は「故郷のせいで、巧みにうそを言い(曲故)」北京に行く機会があったので、紫禁城に入った。彼らは宮廷内の腐敗した情況を目の当たりにし、これに取って代わろうと決意した。

 劉七らが覇州の人々に呼びかけ蜂起して、数か月も経たないうちに、農民軍は十数万人に達した。農民たちは蜂起軍をじぶんたちの軍隊だと見做したので、農民軍がやって来るや、誰もが身の危険も顧みず勇気を奮って(奮不顧身)軍隊に加わった。

 『正徳実録』は農民軍をこう記載した。「通過した郷村では、牛を屠り酒食を供しない所は無く、甚だしくは彼らのために門や衝立を持って矢や石を遮り、道先案内人となり州の県城を攻撃した。」またこんな記載もある。「およそ通過した所では、喜んで物資を供給し、食糧、酒、武器は皆人々が差し出した。」「家を捨て乱に従う者は至る所にいた。」(『正徳実録』巻74)しかし明軍が到着するや、農民たちは「門を閉ざして逃げ(逃遁(遯))、鞭打ち(箠楚)責め立てられ(駆逼)、もはや前に進み出ようとする者はおらず、懸賞を出し募集しても、赴く者は少なかった。」「牛やロバは悉く殺され、人々は皆隠れて出て来なかった。」ここからも、農民たちの愛憎がたいへん鮮明であったことが分かる。

 1511年(武宗の正徳6年)3月、農民軍は既に山東、河北など20州県余りを攻め下した。そのうち2隊が主力で、1隊は劉六、劉七が指導し、河北、山東から湖北、江西を経て、元の道を京畿の覇州に戻って来た。もう1隊は、楊虎、趙鐩、劉恵らが指導し、山西から河南に入り、西から東へ、河北省威県で黄河を渡り、劉六、劉七らと合流し、彼らも京畿の覇州にやって来た。この時、明朝の統治者グループはたいへん驚きうろたえ、直ちに北京に戒厳令を布告した。兵部は京営の軍隊全てに旅装(束装)し戦いの準備をさせ、兵を覇州、文安等に派遣し鎮圧させた。同年7月、農民軍の先遣隊44人が北京阜成門外に到着し、牌甲(保甲制(警防のための隣組制度)で氏名が登録された人)で常礼(通常の礼制)に基づく人と巡城御史(都察院に属し、北京城内の東、西、南、北、中の五城の治安管理を担当)を殺害した。久しく朝政を顧みなかった明の武宗も、内閣大臣を召集し、左順門に入り軍の情勢を尋ねざるを得なかった。農民軍に対処するため、明の統治者は京営の軍隊を移して結集させ、甚だしくは延綏(陝西省榆林鎮)、宣府(河北省張家口市宣化区)の辺境の兵も北京に移した。農民軍は明朝のこれらの警戒を探知して後、北京に攻撃して来なかった。

劉六、劉七蜂起軍経路

左順門

 1511年(正徳6年)11月末、農民軍はまた山東から京畿の覇州に戻った。農民軍の指導者たちは山東臨清に駐屯していた明軍を迂回し、121日武宗が天壇に祭祀に来る時、雷鳴の如く迅速で耳を塞ぐ間もない速度で(迅雷不及掩耳 )襲撃し、この愚昧な(昏庸)皇帝を死地に置く準備をした。不幸にも情報が漏れ、兵部尚書何鑑がその日の夜密報を書き、廐卒(馬方)に命じて司礼監(明朝内廷で宮廷内の事務を管理する十二監の一つ)に手渡し、司礼監の宦官が武宗に会ってこれを手渡した。武宗は大層恐れ、直ちに何鑑を引見して内廷に入れた。この時、宮廷の統治者達は大層慌てて取り乱し、兵部は城内の勲戚や武官に伝令を発し、急いで北京城の九門を手分けして守備させ、また人を派遣し、城壁の上から縄につかまって降り(縋城)、通州、良郷、涿州などの守備官に通知に向かわせ、直ちに兵馬を調達し、京城の南の羊角房、南海子、盧溝橋などに派遣し、宿営させた。しかし官軍が厳密に防備を敷いているという知らせは、瞬く間に農民軍に探知され、農民軍は自発的に今回の襲撃計画を放棄した。

 1512年(正徳7年)18日、劉六、劉七が指揮する農民軍は覇州に攻め入り、明朝の統治者達は北京に戒厳令を発した。兵を派遣し盧溝橋、羊角房、草橋などを手分けし守備した他、更に提督軍務の陸完、総兵の毛鋭に詔を発し、兵を率いて北京に来させた。農民軍は相変わらず東を討つと見せかけ西を討つ(声東撃西)戦術を採り、虚に乗じて南の博野、蠡県、臨城などに入った。明朝は農民軍に対し引き続き強い圧力をかけ、都御史の彭澤、咸寧伯仇鉞に命じて河南方面の農民軍を迎撃させ、また都御史の陸完に命じ、兵を率いて山東、河北の農民軍を鎮圧させた。

 同年3月、劉六、劉七らが統率する農民軍は山東で明朝の辺境警備兵、蒙古兵、及び当地の地主の武装兵、計十万人余りの包囲を受け、大量の武装力と傑出した将校を喪失した。他でもなくこのような状況下、劉六、劉七らは依然勇猛な騎兵(驍骑)三百を率い、勇敢に幾重もの包囲を突破し、軽装で北上し、間もなく再度大量の農民の武装兵を結集した。この時、農民軍は再び故郷の覇州に戻り、また順天府に属する香河、宝坻(天津に属する)、玉田などの県を攻撃し、明軍を大いに破った。同時に農民軍は武清県八里庄で参政の王杲を打ち殺し、また首切り役人(刽子手)寧杲の軍隊を殲滅し、北京に再び激震が走った。劉六、劉七らは今回は直接北京を攻撃することなく、河南方面に向けまっすぐ進み、そちらの農民軍の支援に向かったが、この時河南の農民軍は既に明軍に破れており、彼らは単独で戦闘せざるを得ず、農民軍の力はこれ以降日増しに弱体化した。

 この時の蜂起の規模はたいへん大きかったが、農民軍自身の欠点も大いに明らかになった。農民軍は何回も覇州に来たが、何回も撤収し、終始「流寇主義」(流れ者の盗賊の流儀)のやり方を克服することができず、明確な政治主張を打ち出すことができなかった。地主階級は自分たちの階級の利益を保つため、連合してなんとか農民軍を打ち破ろうとした。この時代の統治階級の軍事力はまだ大変強大で、力の差のかけ離れた情勢下、農民軍は遂に失敗し、北京入城の望みも実現することがなかった。

 しかし指摘しておかなければならないことは、農民軍は強大な統治者の鎮圧を受け、極めて困難な条件下でも、屈服することはなかった。農民軍の指導者の劉六、劉七ら全員は最後まで粘り強く戦い、最後は命を犠牲にした。

 劉六、劉七の指揮する蜂起は地主階級の国家に鎮圧されてしまったが、この時の蜂起は統治者に極めて深刻な打撃を与え、彼らに階級間の矛盾を幾分緩和する措置、例えば皇室の荘園を実地調査(勘察)し、租銀(地租として小作人から徴収する銀)を軽減し、賦役を改革し、宦官勢力を抑え込むなどといった対策を取らざるを得なくさせた。

 

明朝後期の統治グループ内部の闘争

 

 明代中葉以後、北京地区の勲戚、宦官、大官僚たちは、農民蜂起が鎮圧されて後、統治政権が相対的に安定した情勢下、自分たちの欲望を満足させるため、より多くの富とより大きな政治権力を奪い取ろう(攫取 )と考え、そのため彼らは異なるグループの間で熾烈な権力闘争、利権の奪い合いを展開した。

 明朝の内閣大臣たちの間で最初に展開されたのは、「内閣首輔」の職位争奪の闘争であった。この時期、著名な首輔は相前後して夏言、厳嵩、徐階、高拱、張居正などで、彼らは宦官や勲戚を味方につけ(拉攏 )、結託(聯朋結党)して競争相手を打ち負かしてようやく、その地位を勝ち取ることができた。こうした結託して私利を追う闘争の過程で、各地の大小の役人は、権力を握る官僚に迎合する(逢迎 )ため、着服した所得を贈り物の名目で彼らに賄賂として渡した。首輔の厳嵩を例にすると、彼の財産の多さは驚くべきもので、大部分の財産が彼の故郷の江西袁州に集中していた他、北京だけでも家は19百間余りあり、荘園は150ヶ所余り、また数えきれないほどの薄衣や緞子、金銀や骨董、珍宝などがあった。

 当時、ほとんど全ての大小の官僚たちが、厳嵩の周囲に取り入り(攀附)、彼と一緒に人々の血と汗を収奪し、悪事の限りを尽くした(無悪不作)。しかしまた楊継盛、沈錬、海瑞など個別の人物は、悪を憎むこと仇の如く(嫉悪如仇)、断固として悪党と組みしなかった。刑部員外郎の楊継盛は上奏し厳嵩、厳世蕃父子の十大罪悪を暴き出し、錦衣衛の獄中に拘禁された。1555年(嘉靖34年)厳嵩に害され、西市で死んだ。彼は終始権勢を畏れず、少しも死を恐れず(視死如帰)、堅忍不抜(堅韌不抜)の気骨を表した。北京の人々は彼にたいへん同情し、彼のために「楊椒山祠」を建てた(椒山は楊継盛の号で、「楊椒山祠」は元の司法部街にあった)。これらの首輔の中で、張居正が神宗万暦初年(およそ1573年から1582年に至る間)にまだ為すところがあり、明朝の悪政の改革に努め、成果を上げていたのを除き、後継者は消極的でいいかげんにごまかし(因循苟且)、腐敗して無能であった。万暦中期に到り、宦官、勲戚、王公、内閣大臣らは、当時の政治や経済における最も暗黒で最も反動的なグループであった。そして一部の官吏は、政治のうえで排斥され、万暦年間にひとつのグループを形成し、権力中枢への反対派となった。これがすなわち明末の東林党である。

 東林党の名前の由来は、朝廷に排斥され職を辞した吏部郎中の顧憲成、高攀龍といった人が、いつも江蘇省無錫東林書院で講義を行い、朝政を評議した。彼らの中でも一部の人は北京で官職についていた。彼らが反対した政権を担っていたグループの主要人物は、皇帝、宦官、勲戚であれ、首輔であれ、何れも北京に住み、このため、高攀龍は後に北京の首善書院で講義を行った。

東林書院

 東林党の人々と闘争するため、権力者グループは更に浙、斉、楚、宜、崑の各党派を組織し、自分たちの道具にした。当時、東林党の人が意見を出すや、これらの人々は次々立ち上がって反対した。

 東林党と権力者グループは、何れも自分たちが擁立すべき皇帝を利用して相手方を圧倒しようとし、そのため明の神宗の立太子の問題をめぐって、20年以上にわたり休むことなく論争を行った。いわゆる「国の本を争う」のが主路線であり、北京の宮廷内で前後して発生した三つの事件(梃撃(暴力事件)、紅丸(毒薬事件)、移官(官職の移動))はその余勢(余波)であった。

 東林党の人々はずっと神宗の愚昧に反対し、廠衛の官民に対する害毒に反対し、王公、勲戚による土地の略奪に反対し、宦官たちの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。重税を搾り取ること。横征暴斂)などに反対を表明した。これらの主張は皆、一定程度当時の人々の利益、要求を反映していたので、客観的にはある程度進歩的なものであった。しかし彼らは地主階級の一部であり、彼らの目的は地主階級の政権をもっと強固にするためであったので、根本的には彼らは末端の人々とは対立していた。彼らの闘争手段もたいへん軟弱で、上記の上奏は、十に九つは皇帝に「保留」(留中)にされ、日の目を見ることは無かった。