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北京史(二十九) 第六章 明代の北京(7)

2023年08月03日 | 中国史

明朝第14万暦帝、在位15721620

 

第三節 北京の政治(続き)

北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争

 1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。

 宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発も同様に一種のゆすりたかり(敲詐勒索)の手段であった。宦官と土豪劣紳が結託し、任意に他人の田地や住宅の下に鉱脈があるのを指して、彼らに重い賄賂を請求し、少しでも思い通りに(遂心)ならないと、兵を率いて逮捕し、ひどい時は「人の手足を斬り」、「婦女を辱め」た。

 反鉱監、税監の闘争は、湖広(湖北、湖南、広東)より始まり、以降臨清、蘇州、景徳鎮などの地で次々と同様の闘争が発生した。北京順天府及び付近の蔚州、香河、広昌及び門頭溝などの地で反税監の闘争が展開された。

 1600年(万暦28年)、宦官の王虎が 香河県で漁船、葦場、鉱山への税金を徴収し、手下(爪牙)を派遣し人々をゆすった。「生員(せいいん。科挙の最初の試験に合格し、府県の学校で勉強できる書生)士民(士大夫階級)」約1千人が、手にこん棒やレンガ、石を持ち、王虎に向けてデモ行進を行った。指摘しておかなければならないのは、ここで言う「生員士民」とは地主階級の知識分子であり、彼らの闘争は主に地主階級内部の闘争であった。しかしこの時のデモには労働者の人々も参加した。というのは、大地主のグループの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。重税を搾り取ること。)に反対することは、人々にとって有利であったからである。

 この時、宦官の王朝も京西の房山、門頭溝一帯で鉱山税を徴収していた。彼はいつも京営の精鋭(選鋒)を率いてここで「劫掠(掠奪し)立威(威信を示した)」。当時、門頭溝にはたいへん多くの石炭採掘の炭鉱夫と石炭運搬の人夫がいた。彼らは炭鉱経営者の残酷な搾取を受け、生活はたいへん困窮していた。中には炭鉱経営者に騙されて坑道に入れられ、一生出て来れない者がいた。また炭鉱経営者と契約し、日割りで給料を取得したが、給料がたいへん低く、まったく家族を養うことができなかった。宦官の王朝がここで税を徴収することは、炭鉱経営者にとっても不利で、炭鉱経営者は自分が搾取して得たものの一部を朝廷に渡したくはなかった。王朝は毎年炭鉱経営者から銀5千両を受け取り、炭鉱経営者は税徴収の減免を要求し、代表として王大京を北京に派遣し交渉させ、王大京は錦衣衛に逮捕された。

 王朝はここで「劫掠立威」(掠奪し威張り散らす)したので更に広大な炭鉱労働者を激怒させた。1603年(万暦31年)3月、炭鉱労働者と石炭運搬夫を組織し、更に炭鉱経営者も加わった隊伍が北京へ向け出発した。これら「黧面(薄汚れた顔で)短衣(すその短い上着を着た(平民))之人」は北京城内で「填街塞路(街路を埋め尽くし)」、明朝の統治者に向け大いに示威行為を展開し、宦官の王朝の交替と鉱山税の減免を要求した。

 この北京の歴史上初めての大規模な炭鉱労働者の鉱監税使に反対する闘争は、明朝政府を大いに震撼させた。一部の官僚は次々と上書し王朝の交替を求め、ある者は言った。「今は朝廷内部(萧墙)の災難が方々で起こり、石炭産地、石炭運搬夫、石炭の利用者は、命に関り、畿甸(北京地区)を震撼させた。」またある者はこう言った。「ひとたびむしろ旗を掲げて立ち上がれば(揭竿而起)、天子のおひざ元では(輦轂之下)、皆災い(胡越)となった。」このことは統治階級の群衆の力に対する恐怖を十分に説明していた。鉱山労働者たちの大きな圧力の下、統治者は遂に宦官の王朝を交替させざるを得なかった。

 

閹党が北京で暴れ狂った

 天啓年間(1621‐1627年)、明王朝は既に絶体絶命の状態に陥り(窮途末路)、しかも腐敗がはびこっていた。このことは瀕死(垂死)でもがき苦しんで(挣扎)いる大地主グループがより一層狂ったように人々を痛めつけ、統治階級内部の党争は一層激化していた。

 宦官の魏忠賢は明朝廷の権勢のトップになった。魏忠賢は司礼(尚書省礼部)秉筆 (執筆)太監、また提督東廠で、全国軍政の大権は彼の手中に握られていた。彼の周囲で追随する官吏は彼を「九千歳」と呼び、喜んで彼の義子、干孫(義理の孫)になりたがった。天啓5年、何人かの恥知らずの官僚たちが次々と彼のために生祠(生前に建てた祠(ほこら))を建てた。一時は「都城数十里の間、祠宇(祠堂)が相望んだ」。(『明史』巻306『閻鳴泰伝』、文秉『先撥志始』下)魏忠賢はまた香山碧雲寺に自分の墳墓を前もって作った。その豪奢で金に糸目をつけぬことは皇帝の陵墓にも劣らない。彼の密偵(暗探)は北京城内至るところにいて、人々が街頭や横丁で一言悪口を言おうものなら、錦衣衛に捕えられて殺された。

魏忠賢

 当時、斉、楚、崑、宜、浙の各党は魏忠賢に追随し、「閹党」(宦官に追随する官僚の一党)を形成し、且つ断固東林党と敵対していた。明代の統治階級内部の党争はここに至り既に最高潮に達した。

 閹党は彼らの反対派を一律に東林党と呼び、且つそれらをまとめて309人の名簿を作成し、この名簿に基づき全国各地に行って関係者を捕えた。東林党の楊漣、左光斗、黄尊素、周順昌らは閹党により捕えられ北京に送られ、錦衣衛の監獄に拘禁され、非人道的な刑罰により虐待され惨殺された。しかし彼らはずっと閹党との闘争を堅持し、少しも死を恐れなかった(視死如帰。死ぬことを我が家に帰るように恐れない)

 

白蓮教の大蜂起

 明朝末期、統治階級は皆農村の人々への搾取と鎮圧を強化した。とりわけ北京に住む勲戚、宦官、大官僚たちは狂ったように近郊で田地を侵略し、農民を搾取し、彼らは社会生産の発展を著しく阻害する最も反動的な勢力となっていた。そして一般の農民は地租、高利貸、商業資本の残酷な搾取の下、生活は極端に困窮し、より多くの人々が自分の土地から離れて行った。

 この時、ひとたび北京城の郊外に出ると、農民の反抗武装が見られた。農民の武装勢力は長期間、北京南城外の海子などの地に集中していた。1596年(万暦24年)、宦官が方々に税徴収に出向いた際、1千人余りの人々が京南の農民、左文俊の指導の下、討伐に来た「官軍」に対し蜂起、反抗した。1623年(天啓3年)京営操軍は前後して北京、通州の両地で軍事クーデター(兵変)を発動した。これは当時の京営の将校の下士官に対する残酷な搾取により引き起こされたものだった。統治者は軍事クーデターの指導者、成鋒、柴登、李成、姜才らを逮捕し、彼らを殺害した。その他の兵士は南海子に逃げ込み、ここの流民と合流した。ここに至り、京南の農民軍の勢力は更に強大となり、ひとたび機会があると、統治者にひどい打撃をを与えた。

 北京地区の農民が白蓮教を利用進めた反抗活動は既に長い歴史があった。白蓮教は農民戦争の中でしばしばたいへん大きな宣伝効果と組織効果があった。農民たちは平時はこれを利用して緊密に連携し、白蓮教の経書の中の神秘な予言により、より一層農民の戦闘への自信を強めた。万暦初年、順天府で蘇州の皮革工、王森白蓮教を提唱した。搾取を受け尽くした農民たちは正に組織する必要があり、それで次々白蓮教に加入した。白蓮教徒は河北、山東、河南、陝西、四川等の地にあまねく分布していた。農民たちは竹の籤で暗号を伝えて連絡をし、同時に更に各地に教主、大伝頭、小伝頭の名称を設けた。この時、白蓮教の経書は既に三四十部まで広められ、通用する教派は十六七種にまで増加した。(当時北方で広まった白蓮教の支派は紅封、無為、紅陽、浄空、黄天、龍天、南無、南陽、悟明、金山、頓悟、金禅、還源、大乗などの教派である。)

 1595年(万暦23年)王森は北京に来て秘密活動を指導し、白蓮教の勢いは大いに増した。その後、王森は逮捕され獄中で病死し、彼の弟子、徐鴻儒于弘志が教団を継承し、各地の教徒は2百万人を下らなかった。1615年(万暦43年)内閣大学士の上奏文によれば、北京では、「游食の僧や道士が千百と群を成し、名は煉魔と為し、行踪(行方)は詭秘(なぞめいて察知できず)、究詰(突き詰める)ことができない。」またこう言った。「白蓮、紅封などの教団は、それぞれ新奇な名義を立て、妖言で衆を惑わし、実に煩わしい輩である。」(『明神宗実録』巻580)このことは北京の統治者の極めて大きな恐慌を引き起こした。北京城内に流入する流民や僧侶のうち、多くが白蓮教徒で、こうした僧侶は元々各地の農村の出身で、彼らは蜂起を組織した人間であった。

 1622年(天啓2年)、徐鴻儒が指導する白蓮教の大蜂起が山東で勃発した。間もなく、京畿南部の人々もこれに呼応した。蜂起軍は江南から北京に到る食糧供給ルートを遮断し、山東、河北の多くの州県を攻略した。北京城の統治者は大いに震撼し、大急ぎで関外の満州族統治者を抵抗防御していた軍隊を呼び戻して鎮圧した。

 この時の蜂起は準備不足と彼ら自身の教派の争いにより、統治者に間もなく鎮圧されたが、この時の蜂起軍は明の統治者に容赦のない打撃を与え、中国全土の圧迫された農民、群衆を喚起し、明末の農民大蜂起爆発の前奏となった。

 

清統治者の北京地区での破壊と騒乱

北京の人々の反清闘争

 万暦年間以降、東北の建州部が日増しに強大となり、後金政権を建立し、明朝と長期間戦った。明朝統治階級の腐敗、無能、政治軍事の堕落により、前後して遼陽、瀋陽など72都市を失った。北京は既に厳しい脅威の下にあった。

後金政権の建立

 1629年(崇禎2年)10月、後金の指導者ホンタイジ(皇太極)が兵を率い龍井関(喜峰口の西にあった)から長城を壊して関内に侵入し、近畿の要衝、遵化を攻め落とし、三河県全域の住民を屠殺し、彼らは程なく順義、通州を経由し、116日に北京に迫った。明朝の薊遼督師、袁崇焕はホンタイジが回り道をして北京に迫ったことを知って後、直ちに9千の精鋭部隊(勁旅)を率いて、その日の夜(連夜)関外から北京に急行し、落ち着いて北京の周囲の防衛線を手配し、自ら兵を広渠門外に駐屯させた。崇禎帝は袁崇焕を各鎮の援兵に移動させ、状況に合わせて進むか止めるか判断し、後金兵に反抗した。

 1120日、明軍は双方の人数の多寡の差の大きい(衆寡懸殊)状況下、後金兵と広渠門外で戦い、敵兵1千人余りを殺し、後金兵は大敗した。袁崇焕は自ら軍を率いて自陣を監督し、彼は矢が当り「両脇がハリネズミのように(両肋如猬)」なっても依然軍を監督して懸命に戦った。(周文郁『辺事小記』(『玄覧堂叢書続集』))ホンタイジは兵を南海子に移すよう迫られ、北京城は危機から安全に転じた。ホンタイジは軍事上敗北して後、袁崇焕を骨の髄まで恨み、逆スパイの計(反間計)を使って彼を陥れた。彼は二人の南海子で捕虜にされた太監(宦官)を利用し、彼らに袁崇焕とホンタイジが密約を結んでいるとのデマを聞かせ、その後彼らを解放して帰らせた。デマは宮廷にもたらされ、愚昧な崇禎帝はそれを真に受け、12月初旬に袁崇焕を錦衣衛の監獄に投獄した。

袁崇焕

 ホンタイジの陰謀は目的を達し(得逞)、勢いがまた盛んになり、良郷で虐殺を行い、薊州で掠奪をし、転じて河北各州県で掠奪をし、崇禎35月になって、ようやく各地で軍民の打撃の下、関外に退いた。

 1630年(崇禎3年)8月、袁崇焕は明朝に体を切り刻まれ(凌遅)死に処せられた。袁崇焕は明末満州族の統治者に抵抗し反撃を加えた最も傑出した将校で、明朝の統治者が既に極端に腐敗し無能であった時期、袁崇焕が立ち上がり徹底的に抗戦することができ、関内の人々の生命財産を守り、彼の抗戦は人々の支援を獲得し、しかも幅広い人々の願望に適合した。(袁崇焕の墓は北京の広渠門外にあり、左安門龍潭東湖西岸に袁督師廟があり、解放後何れも人民政府が装いを一新(修飾一新)させた。)

 ホンタイジ1636年(崇禎9年)建国し、国号をとした。この時、清軍は既に山海関を押えていただけでなく、更に内蒙古を攻略していた。これより、明朝の「藩屛」は尽く失われ、清軍の侵攻は一層激烈になった。1636年、1638年、1642年と、清軍は三度京畿まで攻撃を加えた。彼らは毎回国境を入る度に都市を虐殺し、村に火を燃やし、大量の人口、家畜、、財物を奪い、北京郊外の人々の生産にひどく破壊を加えた。初めて清軍が京畿で破壊活動を行ってから、五年後に二回目の南下の時もまだ回復していなかった。二度目も、清軍はまた近畿の州県の「人や家畜18万」を奪って行った。