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中国語学習者、聡子のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非のグルメエッセイ: 焼乳猪(仔豚の丸焼)

2010年10月03日 | 中国グルメ(美食)
 今回は、広東料理の中でも、有名な仔豚の丸焼のことを書かれた文章を紹介します。機知に富んだ、沈宏非の文章をお楽しみください。

                          焼乳猪

 “烤乳猪”、仔豚の丸焼を、広東人は“焼乳猪”、或いは“焼猪”と呼ぶ。とはいえ、言語の規範のことをあまり質問する必要はない。なぜなら、“烤乳猪”であれ“焼乳猪”であれ、広東人が発明したものだからである。ちょうど、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後、土着の住民を「インディアン」と呼び続けたのと同様、それに服せざるを得ないのである。

  《礼記》の中に出てくる“炮豚”と現代の“焼猪”の料理法は似ているが、“炮”すなわち炙られたものが“乳猪”、生まれたての、まだ母親の乳しか飲んでいない仔豚であるのかどうかは、言葉が簡単すぎてよくわからない(語焉不詳:〈成〉言葉が簡単すぎて意を尽くさない)。それに比べると、広州の考古学上の発見はより説得力がある。南越王第二代、王趙胡(紀元前122年頃)の墓の中から、仔豚の丸焼用のオーブン、叉(豚を突き刺して炙るフォーク状の鉄串)と仔豚の骨の破片等が発見されたのである。

 広東の仔豚の丸焼が天下に誇る料理技法であることを除き、“乳猪”の広東の民間風俗の中での種々の付加的な用途は、ここで説明しても自明のことであると証明できないかもしれない。婚礼に欠かせないものである他、清明節の墓参でも、広東人は乳猪を供え物とし、毎年の清明節の時分には、肉屋(“焼腊店”:香港や広東省によくある、ローストダックや焼き豚など、肉類のローストや燻製を専門に扱う店)は“祭祖金猪”、つまり先祖にお供えする仔豚の丸焼を大量に販売することで、大いに利益を上げる、黄金シーズンである。この他、仔豚の丸焼は、珠江デルタ一帯の昔の風俗では、貞節であるか否かの印とされた。凡そ新婚初夜に女性が処女を捧げ(“落紅”という。元々、処女膜が破れて赤い血が流れ出ることから)、何日かして夫婦揃って実家に里帰り(“回門”という)した日に、男性側は必ず“大紅焼猪”、つまり仔豚の丸焼を贈り、また途中の道では笛や太鼓を打ち鳴らし、村中に女性が貞節であったことを明らかにするのである。

 もし“落紅”が見られなかった場合も、やはり夫婦揃って実家に里帰りするのだが、その時は、贈り物は仔豚の丸焼から“焼鵞”、つまりロースト・グースに代わる(一説には生の豚の耳を一対贈るとも言う)。劉万章著《広州の昔の婚姻風俗》に言う。「女子が貞節であるか否かは、仔豚の丸焼が出るかどうかで一目瞭然で、もし仔豚の丸焼が無いと、訴訟を起こしたりしなければならず、堪えがたいことであった。」

 広東や香港では、今でも女性が結婚前に貞節を失うことを、戯れで“失猪”と言うが、仔豚の丸焼がどうして貞操と関連ができたかは、人を試すような問題である。イギリスの作家Charles Lambはこう考えた。仔豚が美味しいのは、その「純潔」が重要な要素であると。Lambは《豚の丸焼の技巧の起源の考察》の中で、こう言っている。「それは未だ生まれて丸一か月に満たない小さなもので、未だ汚れた豚の囲いの中で、色欲の情に汚されていない。これは、彼らの遠い祖先から代々伝えられてきた悪習である。」

 やはりこじつけがある。さもなければ、誰か、私の代わりに劉心武先生に聞きに行ってくれないだろうか。

                  食べるのは皮のところだけである

  北京ダックを食べる時は、皮に連なった柔らかい肉片があればよく、こんなに大きなアヒルの体を完全に捨ててしまって知らん顔をするのは、多くの人がもったいないと感じるところである。ところが、仔豚の丸焼は、食べるところは皮だけで、北京ダックよりもっと高慢である。

 この黄金色のサクッとして脆い皮について、Charles Lambはこう書いている。「私がずっと信じていることは、ローストの仕方がすばらしく、火加減の絶妙な超絶技巧で精緻に作られた、あのような一噛みで砕け、ほんの一口口に入れれば溶けてしまい、香ばしくサクッとして心地よく、薄茶色の脆い仔豚の皮は、天下に他に比較し得る美味は無いということである。そして、この脆い皮は、一言でまたその他のことばに置き換えて表現することはできない。――それはあなたが無意識にあのサクッと柔らかく味わい深い、脆い薄い皮を噛んでみようと思わざるを得ず、それによりその中の全ての美味しさを心の底から享受する――それは凝脂のような糊状の粘質――これを脂肪と言ってしまうと汚らしいが――しかしそれは、その名状し難い、暖かく芳しいものであるかのようで――それはすなわち油脂の花の――その蕾のまだ固いうちに摘み取られ――その芽吹きの際に採取され――その天真無垢の段階で、つまり……脂身と赤身、脂肪と肉の絶妙な結合であり、この時、両者は早くも融け合って一つになり、もはや分かつことができない。だから溶けて“玉露瓊漿”の美酒のような非凡な逸品になるのである。」

  長々と《豚の丸焼の技巧の起源の考察》の文を引用したことをお許しいただきたい。このようにせざるを得なかったのは、第一に、これがこれまで私が読んだ、仔豚の丸焼についての最も美しい、第一等の文章であるからである。第二に、このような文章がイギリス人の手によることは、いつも仔豚の丸焼を食べている中国語作家が恥ずかしく思うに足ることであるからである。もちろん、高健先生の訳文は、原作に忠実、かつ原作を上回るところもあるが、“凝脂”、或いは“玉露瓊漿”、また単一の“酥”ということばが、原文中のambrosian、adhesive oleaginous、crackling、brittleの類と匹敵しうるものであるかどうかは、ひとまず言及しない。

  《豚の丸焼の技巧の起源の考察》は18世紀の冗談文学であるが、詩のようなことばは、ことばの表現力を少しも出し惜しみしておらず、歯の浮くようなわざとらしさはロミオの愛の独白にも匹敵する。ただし、Lambが正統な広東式の仔豚の丸焼を食べたことがあるかどうかは、これまで考証した人はいない。しかし、Lambが文章の中で話題にしている友人のM(Manning)は、17世紀初めに中国に住んだことがあり、しかも広州で医師をしていた。

 仔豚のあの脆い皮を焼きあげることは、決してたやすくできる(“軽而易挙”)ことでは決してなく、誠にLambの言うように、最高のローストの仕方と絶妙な火加減が必要である。

  10キロ以下で、まだ母乳を飲んでいる仔豚をし、内臓を取り去り、調味料に漬け込み、蜜を塗り、叉(豚を突き刺して炙るフォーク状の鉄串)を刺して炭火の上に置き、ひっくり返しながら90分ほど焼き上げる。焼く時には、絶えずひっくり返して、熱が均等に当たるようにし、同時に刷毛で絶えず豚の身に油を塗る。サクサクした皮に焼き上げる秘訣は、先ず仔豚の体の内側を炙り、その後、外皮を焼く。このようにしてはじめて、肉の油脂がゆっくりと表皮に浸透し、最後には「脂身と赤身、脂肪と肉の絶妙な結合」による「“玉露瓊漿”の美酒のような非凡な逸品」が得られるのである。

 更によく考えられた作り方は、耳や尾が焦げるのを防ぎ、仔豚の美しい体形を保つ為と言われているが、コック達は焼く前に、野菜の葉などでこれらの部分を包み、また豚の腹の中に水を入れた瓶を入れ、腹の中が焦げるのを防ぐ。

  広州では、皮の形状の違いから、仔豚の流派には二通りある。それは、“麻皮”派、つまり表面のざらざらした皮のものと、“光皮”派、つまりつるつると光沢のある皮のものがある。“麻皮乳猪”は、又の名を“化皮乳猪”と言い、特徴は焼く時に火を強火にし、更に絶えず油を塗ることである。同時に絶えず針や錐で皮の表面を打ち、油がはじけて出る気泡で豚の表皮を柔らかくし、最後に胡麻のように均一で稠密な気泡を形成させ、黄金色を呈させ、食べるとサクサクとして脆く、「口に入れると溶ける」と賞賛されるのである。

  “光皮乳猪”、皮のつるつるとした仔豚の方は、料理の工程では上記の技巧を必要としないが、見た目の深い赤紫の色彩では勝り、つやつやとして彩溢れ、売る時の見かけで言えば、“麻皮派”など相手ではない。“麻皮乳猪”と“光皮乳猪”は食べ方も異なる。前者はごく薄い皮の下の柔らかい肉の層もいっしょに切り取り、“千層餅”、つまり小麦粉をパイ状に焼いたものに挟み、海鮮醤(海老やオキアミを発酵させたペーストの入った、甘いタレ)、砂糖かネギ、赤トウガラシの細切りをつけて食べる。後者はその薄く脆い皮だけを、甘味噌をつけて食べる。

 白砂糖、甘味噌は、どの広東料理レストランでも仔豚の丸焼のお決まりの調味料である。この二種類はごくありふれたもので、生のネギと甘味噌が北京ダックに欠くことのできないものであるのとは異なるが、それでもある程度まで仔豚の最後の味を決定するものである。

                     光り輝いて登場する

 仔豚は美味しいだけでなく、見た目も良い。

  仔豚の美味はいくつかの文藝作品に見られるが、Charles Lambにとどめを刺す。仔豚の丸焼の見た目の良さ、形(体全体に、宋の哥窑の青磁のような裂花紋が入っている)、色(棗のような深い赤色、或いは黄金色)については、正式な宴席で、仔豚が供される場面での体裁にある。

  《清稗類鈔》の記載によれば、「焼烤席は、俗に満漢大席と呼ばれ、宴席中に上品(すばらしい料理)で出ないものは無い。燕窩(ツバメの巣)、魚翅(フカヒレ)や諸々の珍味の他、必ず焼いた豚が出るが、それは一匹全体を焼いたものである。酒が三巡すると、焼いた豚と膳夫(コック)が入って来て、僕人は皆礼服を纏って入って来る。膳夫は料理を奉ると待機し、僕人は身につけていた小刀をはずして肉を切り分け、器に盛り、膝を曲げて一礼すると、首座の客にそれを献じる。」

 “満漢大席”はすなわち“満漢全席”であり、中華料理の最高峰の料理である。許衡《粤菜存真》が記す広州、四川の二種類の版本の満漢全席のメニューには、何れも仔豚の丸焼が出ている。広州のメニューでは、仔豚の丸焼は“第二度”の“熱葷“とされ、紅扒大裙翅、翡翠珊瑚、口蘑鶏腰のすぐ後に出され、最後から二番目のメインディッシュと位置付けられる。やや簡略な四川のメニューでは、仔豚の丸焼は“叉焼奶猪”と書かれ、“四紅”(叉焼奶猪、叉焼宣腿、烤大田鶏、叉焼大魚の四種類のメインディッシュ)の第一に列せられている。

  今日の結婚式、同窓会、表彰式典のような会場全体を請け負った宴会で、仔豚の出てくる派手さ加減と言ったら、それに勝りこそすれ決して劣らない(“有過之而無不及”)。笛や太鼓の音が一斉に鳴り響き、数十頭の仔豚が数十台の飾り付けた輿の上に乗せられ、古代の給仕の扮装をした服務員が1列縦隊で輿を担いで現れ、仔豚の眼窩の中には二つの赤色の電球が取り付けられ、会場の照明は落とされ、それにより二つの絶えず瞬く赤い光が突出し、正真正銘の「光り輝く登場」に、主人の体面と来賓の感動は、ここに双方とも最高潮に達する。

  もっとすごい場合は、会場内を巡って来た仔豚が厳かにテーブルに置かれた後も、依然明かりが点けられず、一筋の、きらきらしたスポットライト(“追光”といいます)が仔豚に当てられ、あたかもこの仔豚が講演を始めようとしているかのようである。

                    乳猪全体(仔豚丸々一匹)

 広東では、仔豚の丸焼はレストランで食べることもできるし、街の肉屋で購入することもできる。しかし何れにせよ、仔豚を食べる時は豚の一部だけ持って来ても良くなく、一匹全体を食べるのが良いのである。

  いわゆる仔豚の一部分というのは、一匹の仔豚から切り取られた十から二十枚くらいの肉片である。もちろん、豚全体の焼き加減が素晴らしければ、その一部の品質も何ら劣るところが無いが、見た感じが一匹全体のようには堪能できない。この他、置いてあるうちに冷めてしまい、皮のサクッとした歯ごたえは失われ易い。一匹丸々の仔豚は、メニューには“乳猪全体”と書かれ、特別な料理の名称である。“乳猪全体”を食べようと思うと、少人数ではダメで、恐らく「友達全員」か「仲間全員」を揃えないといけない。人数を揃えるのが容易でないだけでなく、一匹「全体」の仔豚は通常、予約が必要である。

 不幸なことに、仔豚は会食や宴会でしばしば「雰囲気を盛り上げる」重要な役割を担っているので、およそ仔豚丸々一匹が出される時は、十中八九、「全体大会」の類の、空前の盛況で、賑やかで混乱した場面であり、実際に仔豚を仔細に味わうには邪魔が多過ぎる。今年の年初、香港のチャリティー公演“万衆一心千禧耀東華”の出演者として参加した時、主催者の手配で、レストランで祝賀会が行われ、皆といっしょに楽しんだが、最後は気まずい思いで別れた(“不歓而散”)。その原因は、主に騒々し過ぎたことで、舞台の下で全員が飲み食いするのは良いが、何人かは大声でゲーム(“猜枚”:酒席でのゲームのこと)をし、大声でカラオケを歌う者までいた。しかし、同じく出演していた歌手の楊千(“”は女偏)が後で芸能記者に語ったところでは、彼女はこのような「周りが賑やかな」ところで歌を歌うのは全く気にしないのだそうである。というのも、これまで彼女がしてきた経験の中で、彼女がはっきりと記憶しているのが、このような場所で歌を歌う時、お客さんの何人かはテーブルの上の仔豚の丸焼を食べるのに夢中で、音を出して食べる者までおり、楊千が言うには、このような味わいは本当に我慢できないもので、自分が甘味噌になったような感じがするそうである。だから彼女は誓いを立て、自分にこう言い聞かせた。「心血を注いで歌を歌おう。決して仔豚に付く甘味噌のようになってはならない。」

 甘味噌について言えば、私は、これは実はそれぞれのレストランの仔豚の丸焼の出来を評価する重要な指標であると考えている。大部分の仔豚を販売するレストランは、豚の焼き具合は皆悪くないのだが、ただ総じて誠意が欠けている。豚といっしょに届く甘味噌と白砂糖が、皆固まってしまっているのである。明らかに、これは厨房の中で長く保存されていた結果である。


【原文】沈宏非《飲食男女》江蘇文藝出版社2004年から翻訳

 沈宏非の食べ物描写は、表現が豊かで、いつも読んでいると生唾が出てくるのですが、さてうまく翻訳できたかどうか。読者の皆さんが、実際に食べられた時、なるほど、と思っていただければうれしいですし、食卓の蘊蓄話にでもご活用いただければ、と思います。


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沈宏非のグルメエッセイ: 生煎饅頭(焼き饅頭)

2010年09月26日 | 中国グルメ(美食)
 今回は焼き饅頭、小ぶりの肉まんを焼いた一品の話です。上海人はこの“生煎饅頭”に何か特別な思い入れがあるのでしょうか?上海出身の沈宏非の説明にも、たいへん力が入っています。表題の“十八春”は、上海出身の女流作家で、今も人気のある張愛玲の小説の題名です。《十八春》と生煎饅頭の関係、それは本文を読んでください。

                       十八春

 “生煎饅頭”(焼き饅頭)は、上海の市井の軽食(“市井小食”)である。私はこのことばを聞くだけで、或いはこの四文字を見かけるだけで、上海の横丁(“弄堂”)のにおいが漂ってくるような気がする。ちょうど、船酔いになり易い人が、船の切符を手に取るだけで、明らかに陸地の上の体と、明らかに体の上の頭が、実際は舟の上にいるのではないのに、ゆらゆら揺れて、目が回り、頭がくらくらしてくるのと同じである。

  およそ市井のものは、第一に上流の宴席には登らない(“不登大雅之堂”)-私の知っているところでは、ある高級レストランでは、“生煎饅頭”は実は店のオーナーやシェフもこの料理に私淑しているのであるが。多くは、横町の入口の屋台で、その場で焼いて売っている。第二に、安くなければならない。20年前、生煎饅頭は一両(50グラム)0.18元で売っていたが、20年後、一両1.8元に値上がりし、既にこの類の商品の中では名品と見做されている。通常の販売価格は一両1.5元、安くても1.2元以下にはならないし、高くても2.2元以上にはならない。価格の差異は大きくないが、量の上では、一律、一両4個である。二、三元のお金で、お腹一杯になることができる。五元も出せば、一家が飢えをしのぐことができ、十元はたけば、人にごちそうすることができる。

 古龍は小説の中でこう書いている。胡鉄花は小さな茶館に座って楚留香を待つ間、一度に蟹肉入りの小籠包を二蒸籠、生煎饅頭を二十個食べ、「更に麻糖(表面にゴマなどをちりばめ、齧るとサクッと割れる飴菓子)を一皿取ってお茶を急須に二杯飲んだ」。これはまさしく(“純属”)小説家の言、それも男性の小説家の言である。それに比べ、「当地の」市井の小説家の言といったら、つまるところ、やはり張愛玲のものを見なければならない。《十八春》の中で、踊り子の曼璐のことをこう書いている。彼女は「夜食を食べる習慣があり」、ある日の深夜、家に帰ってから、温め直した生煎饅頭を食べようとしていると、ふと物音で二階の母親がまだ寝ていないのに気が付いた。彼女は「その時、生煎饅頭を一皿両手で持ち、黒い緞子の黄色の龍を刺繍したバスローブをはおり二階へ上がって来た。」「曼璐は母親に生煎饅頭を一つ食べるよう言い、彼女自身も饅頭を一個、ひと口食べると、ふと怪訝に思い、電灯の下で食べかけの饅頭を左右にかざして見ると、その肉は真っ赤だった。彼女は、「こん畜生!この肉はまだ生じゃあないの!」と言い、もう一度見てみると、その白い皮の部分も赤く染まっており、それでようやくこれが彼女の口紅であることが判った。」

 張愛玲のペンにかかると、赤色は、セクシーだが不吉で、市井にいるのに荒涼として、華麗な服の上をはう蚤のようである。壁の上の蚊の血の跡や、胸の一点の朱砂色の痣以外に、張愛玲ファン達は未だこの赤く染まった生煎饅頭の肉餡と皮に付いた口紅に気づいていない。この小説を原作として撮影された映画《半生縁》の中で、梅艶芳演じる妾の曼璐は、真に迫って生煎饅頭を食べる場面を演じていた。これは香港映画の中でも珍しい原作に忠実な作品である。“十八春”の三文字は映画を作った時の時宜に合わなかったのかもしれないが、生煎饅頭を売る店の名前にはふさわしい。“半生縁”はやめてほしい。どこかのステーキ・レストランのようだから。実際は、“十八春”でもよいし、“半生縁”でも構わない。生煎饅頭とは別段のつながりもないことだ。私がここで取り持ちたいのは、主に私のあの熱心で客好きな上海の友人たちの巾着の中身のために、これから以降、生煎饅頭一皿か二皿で、三々五々、店名を目当てでやって来て色目を送る小金持ちの旅行客にお引き取りいただきたいということである。

 上海語で“包子”(バオズ。肉まんのこと)のことを饅頭(マントウ)と言う。したがって、“生煎饅頭”は実は“生煎包子”である。(北の包子が南下すると、自動的に一段低く見られる。ちょうど、小豆餡の包子が主食と見做されないことや、村長が政府の幹部と見做されないのと似ている。しかし、彼らが白湯を“茶”と呼ぶことを考えれば、「世の中に解けない梁は無い」の譬えの如く、解決の糸口はあるだろう。)そう、包子(バオス)である。大きさはゴルフボールぐらいで、見たところ、無邪気さが実にかわいらしい(“憨態可掬”)。“生煎”の名は、聞いた感じは、伝説上の酷刑のようだが、実際は先ず半発酵(小発酵)させた小麦粉の皮で餡を包み、平底のフライパンに並べて少量の油で焼き、何度か上から水を吹きかけてやれば出来上がるのは、全く“鍋貼”(クオティエ。焼き餃子のこと)とよく似ている。鍋から取り出す時に、白ゴマとネギのみじん切りを振りかける。香港の上海料理屋の中には、先に蒸してから焼く方法があるが、実に邪道(“歪門邪道”)である。“生煎生煎”、大事なのは“生”、つまり現場中継のように、その場で焼いてその場で売るという感覚、“Live”である。先に蒸して後で焼こうが、先に焼いて後で蒸そうが、つまり専業でなく誤魔化しをする「録画放送」では、おもしろくないのである。

 優秀な生煎饅頭の評価基準は三つ。焼いたその場で売ること、肉餡が新しくて柔らかく、肉汁(スープ)があること。下部がきつね色でサクッとしているが焦げておらず、皮が厚すぎないこと。

 高さを知ろうと思えば、先ず足元を見よ(“欲摸高,先探底”)。生煎饅頭の底の作り方には特殊な要求があり、これと鍋貼の間で一つの重大な分野を形成している。この底部は断じてピザとは異なり、薄さは各々好みがある。良い底は、堅く香ばしくサクッと脆く、キツネ色だが焦げてはいない。小麦粉以外に、これがうまくできるのは、直接、火加減が関係している。火が強すぎると堅くなり焦げてしまうし、火加減が足りないと柔らかすぎてぺしゃんこになってしまう。これを北京人は“底儿潮”(“潮”は品質や技術が劣っているの意味)と言う。強火で焼いている時、もし饅頭の底が鍋に付いていると、底の大きな面積に焦げ跡ができてしまう。したがって、生煎饅頭の焼く工程で工夫されているのは、“底朝天”(底を上に向ける)、或いは焼いている途中で饅頭の向きを変えてやることが、少なくとも欠かすことのできない工程である。しかし、効率のため、或いは怠けて、現在ではそんなことをする人はたいへん少ない。

 生煎饅頭の内部では、肉汁が成功か失敗かのカギである。味の良いこと、他に比べるもののないこのスープは、主に肉餡からのもので、その次に餡をかき混ぜる時に適量加えた豚肉の皮の煮凍りが援軍となる。小麦粉の皮が半発酵でないといけない、その目的も、発酵により餡の中のスープを吸い尽くしてほしくないからである。

 この基準に基づけば、呉江路小吃街東段の“小楊生煎館”が上海の生煎饅頭業界全体で、全てに優れた(“三好”)模範である。私が一人、店の入り口に着いたのは、ちょうど晩飯の時間で、「ザアッ」という音の中、既に十数メートルの行列ができていた。付近の“王家沙”は、上海で最も美味しく最も値段の高い生煎饅頭と称しているが、今しがた店の入り口を通った時は、店は閑古鳥が鳴き、子猫が二三匹佇み、この楊という名の男は、あの王という名の男より確かに何か秘訣を持っているのに違いない。道理で、最近《Wall Street Journal》までも取材に来て賞賛し、場を賑わしている。

 出来たての生煎饅頭を二両(100グラム)、琺瑯びきの皿を両手で持って、薄汚れた店の壁のところへ人をかき分け進んで食べる。うん、皮は薄い。底の焼け具合もちょうど良い。肉汁(スープ)は、有る、有るだけでなく、充分に有る、思った以上に多い、啜れるだけでなく、吸えるほど有る、飲めるほど多い、噴き出せる程だ。私が言いたいのは、このスープは食べている間の供給を保障するだけでなく、余分に出てくる部分は遊びに使うこともできるということだ。その時の状況は実際、少しかじると、濃厚で熱いスープが皮を破って飛び出し、まっすぐ上に飛び出し、私の眼に命中した。手で拭うと、指に糊でべとべとになったような感じで、まばたきをしていないと、まぶたが貼りついてしまいそうだった。二つ目を食べる時はひとつ目で経験したので、流体力学の理論をおさらいするまでもなく、この起爆物を危険距離より向こうに置いて、箸の先で慎重に穴を一つ開け、タイミングをみて、それに吸いつくと、大きな口で続けざまに三、四回吸い、スープを飲み尽くし、もう自分にかかったり、人に向け飛び出すことがないことが確認できたら、安心してむしゃむしゃ食べることができた。

 前で述べたが、私の見たところ、スープは肉餡と調味料の中から自然に出てくるべきであり、粘りや濃厚さを増加させる他は、豚肉の皮の煮凍りは、補助、或いはスターターに過ぎない。広東語では、ある人が色っぽいことを形容するのに、“出汁”という言い方をするが、実際、“出汁”であれ“入骨”であれ、意味は自然に現れ浸透することであり、こんこんと溢れて歯と頬の間を濡らし、“分泌”とよく似た現象である。“出汁”と“分泌”には原因があり、餡と合わせる時に決して手で柔らかくしてはいけない豚肉の皮の煮凍りを投入し、もたらされる滔々とした流れは、もはや内分泌とは言えず、外分泌である。よしんば内分泌と見做すにせよ、甚だしく調和を失っている。ようやく鍋貼から脱却し、自ら進んで湯包(小籠包)を見習うようになった。スープが多いと益々病みつきになることはとっくに分かっていたが、あのカレー牛肉スープは見れば見るほど余計なものに思えてきた。

 しかし、このことは全てを店側の責任にはできない。現在、街で売っている質の劣った生煎饅頭は、通常、乾いて水気が無いことで有名だが、それなら生煎饅頭のスープに対する要求は、食客の生煎饅頭に対する要求であろう。人間の欲望は渦を巻いているが、生煎饅頭のスープはその濫觴(らんしょう。「大河といえども、水源はやっと觴(さかずき)を浮かべることのできる小さな水たまりに過ぎない」という原議があり、普通は物事の始まりの意味)ではないか。私は“小楊生煎館”の入口で行列に並んでいる時、一人の女性が慣れた様子で先ず箸先で生煎饅頭の皮を突き破り、肉をつまみ出し、饅頭のスープを一滴残らず捨てているのを見た。このような行為に、専門家は悲しみ眉をしかめて「愚かな行為だ」(“洋盤”)と責めるが、今思えば、これも女性の身を守る術の一つに違いないではないか。

 胡蘭成はこう考えている。張愛玲の生活の中には「世俗的な清潔観があった」、すなわち「物事を処理するのに彼女の条理があり、且つ侮りを受けなかった」。《今生今世之民国女子》の中でこう書いている。彼女はある時上海の街頭で、チンピラに手に持っていた生煎饅頭をひったくられた。半分は地面に落ちたが、残り半分は彼女は紙の包みとともに「しっかりと」奪い返した。もし張愛玲の時代の上海の生煎饅頭の名店、例えば“大壺春”や“夢春閣”のものであったら、このようにスープがたっぷりで、チンピラが同じようにひったくろうとしたら、淑女も当然防戦するだろうが、“小饅頭”はこらえ切れず、スープが四方に飛び散り、めちゃくちゃになってしまった(“一塌糊涂”)だろう。張愛玲はたとえスープが顔にかかることはなかったとしても、手はおそらくチンピラの手といっしょにヌルヌルになり、世俗的と言えばたいへん世俗的だが、“清潔”とは言いようがないだろう。

【原文】沈宏非《飲食男女》 江蘇文藝出版社2004年から翻訳

  どうも沈宏非という人は、餃子や包子(バオズ)の時もそうでしたが、肉汁(スープ)に強いこだわりがあるようです。これは上海の人の一般的な感覚なのかもしれません。この話も、表題の張愛玲の《十八春》の艶めかしい世界は一瞬に通過し、肉汁の話に終始してしまいました。

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中国の伝統菓子・麻花(マーホア)の歴史

2010年09月13日 | 中国グルメ(美食)

 今回は、麻花(マーホア)という小麦粉の生地を油で揚げた菓子を取り上げたいと思います。これは、小麦粉を使って作った菓子類では、歴史の最も古いものだと思います。日本に奈良時代に伝わった唐菓子も、同じ種類に属するものでしょう。本文では、このお菓子の歴史から、後半には、天津名物で、中国内では天津土産として必ず買われる、“大麻花”について、ご紹介します。

                     寒具から麻花まで

 長江の北方にも南方にも、“繖子(サンズ)[注1]や“麻花”(マーホア)というお菓子があり、サクサクとした食感の麻花、蜜麻花、芝麻(ゴマ)麻花から、独特の風格のある(“別具一格”)天津十八街の什錦加餡大麻花まで、様式はそれぞれ異なり、味も様々である。“繖子”、麻花は中国の古い食品である。“繖子”は古くは“寒具”と称し、戦国時代の屈原の《楚辞・招魂》の中にも記載があり、後世の劉禹錫、蘇東坡もその美味を賞賛し、詩に詠んでそれを称えた。“寒具”とはどのような食べ物だったのだろうか。明の人、李時珍は、《本草綱目》の中で、こうはっきりと書いている。「寒具とは“繖”を食することなり。モチ米と小麦粉に、塩を少し入れ、紐状に伸ばし、ひねって輪っかのような形にし、口に入れるや雪を踏むようにもろく砕ける。」

[注1] “繖(糸偏でなく食偏)san3子”。《新華字典》には、油で揚げた食品とある。以降、“繖子”と表記する。

 民間の伝説によれば、寒具の起源は春秋時代に遡る。2600年余り前、晋の献公の息子の重耳は継母の迫害から逃れる為、国外を何年も流浪した。一度は途中、衛国を通った時、重耳とその随行者は襲われて殺されそうになり、荒れ果てて一軒の人家も無い(荒無人煙)所まで逃げた。重耳が腹一杯食事を食べることのできない(“食不果腹”)時、付き従っていた介子推は主人に忠誠を尽くす(“忠心耿耿”)為、自分の膝の肉を割き、それを煮てスープにし、彼の飢えをしのがせた。重耳はたいへん感動し、将来自分が王に即位したら必ず重臣に取り立て、ほうびを与えようと言った。後に、重耳は本当に即位し、晋の文公になったが、論功行賞でどうしたことか介子推の存在を忘れてしまった。しかし介子推は恨み事も言わず、こっそりと家族と綿山に隠居した。

 晋の文公は人々の不満の声の中で、ある日ふと介子推のことを思い出した。そこで自ら人を連れ四方へ彼の足取りを捜した。やがて綿山に到ったが、介子推は避けて会おうとしなかった。晋の文公は気持ちが焦るあまり、山に火を放ち、介子推が無理やり山から出てくるように迫った。しかし、思いもかけないことに、介子推は決して意志を変えることなく(“堅定不移”)、最後には、樹を抱いて山火事の中で焼け死ぬとも、出て晋の文公に会わぬことを選んだ。晋の文公は、感動と悲しみ、憐れみの気持ちが交錯し、大火を責め、国中に命じて介子推の命日の前三日間は火を使うことを禁じた。人はどうして炊事を止めることができるだろうか。しかし人々は良い方法を思い付いた。この日の数日前に、保存のきく、変質しない食べ物を油で揚げて作っておけば、食事をするのに都合がよい。これが、それ以降俗に言われる寒具である。寒食節も、このことに由来する。

 宋の人、庄季裕は、《鶏肋編》の中で寒食節の細かい内容について記録している。
 飯麺餅餌(飯は米、それ以外の麺、餅、餌は何れも小麦で作った食品)の類は皆、(寒食節の三日間のうちの)二晩の備えである。キビ粉を蒸して甘い団子を作り、切って日干しすると、もっと長く保存できる。松の枝に棗糕(ナツメ入りの小麦菓子)を挿して門の上の横木に付けたものを、“子推”と呼び、何年も置いたものは、口の中のできものを治すことができると云われた。

 寒具は、最初は米粉を使っていたが、後に小麦粉が使われるようになり、製作の中で砂糖を加えたり蜜を混ぜたりして甘いお菓子にしたり、塩を加えて塩辛い食べ物にし、味の種類は絶えず豊かになっていった。今日に至り、“繖子”の名は南方でも北方でも昔と変わらず聞くことができるが、人々がもっと好きなのは、“繖子”から発展した各種の麻花で、“繖子”も次第に麻花の品種をざっと挙げた時のその一種と見做されるようになってしまった。

 “繖子”の作り方は、先ず、ミョウバン、炭酸ソーダ、赤砂糖(漂泊していない砂糖)、キンモクセイの花などを温水で溶かし、小麦粉を加えてかき混ぜ、小麦粉が練って柔らかくなったら、一個一個小さくちぎり、ゴマを貼り付け、二本の細い紐状にしたものをより合わせ、何回か巻いたら、一本か二本の頭の部分を挟んでいっしょにして、油を熱した鍋で揚げる。揚げる時には火加減と“繖子”の形に注意し、紐と紐がくっつかないよう注意する。黄金色に揚がった“繖子”は甘い香りがして、サクサクとして壊れやすく、たいへん美味しい。この他、内蒙古の羊油(で揚げた)“繖子”、青海省の蜜“繖子”も、少数民族地区の特色あるお菓子である。

 脆麻花、芝麻麻花は、昔の北京のお菓子で最も人気のあるものだった。砂糖を混ぜた小麦でできた脆麻花は、三本の麺をより合わせ、長さは12センチ前後、通常の揚げ油の温度の六、七割の、低温の油で揚げて、一本、一本の間が多少緩んで動くぐらいになったら、揚げ上がりである。芝麻麻花は、小麦粉を小さくちぎった時にゴマをつける。更に、芙蓉麻花は、麻花が油で揚がった後、漂白した小麦粉と白砂糖を混ぜたものの上を転がして、砂糖の層を作るので、独特の風味がある。よく見かける麻花の作り方に、“倒三股”、“縄子頭”などがある。縄子頭麻花は、両手で麺を押えながら左右両端をより合わせ、両端を持ち上げて繋げて輪にすると、より合わせた力で、麺は勝手によじれて麻花の形になる。最後につなげて輪にした両端を軽くいっしょに押さえつける。

 麻花を揚げるのには要領がわかっていないといけないと言うなら、麻花はほとんど芸術作品を作っているかのようであるが、それなら、それより一頭地を抜いている(“高人一等”)天津大麻花のことを言わないといけない。現在に到るまで、短期間、天津に来たことのある外地の人にとって、天津の何の印象が最も強いかを聞いてみたら、その中の多くの人が、口を開くや、大麻花と言うだろうと思う。

 1920年代の初頭、河北省滄州出身の劉八が、天津東楼で麻花店を開いた。店では範桂才、範桂林の兄弟が店員をし、麻花作りの技術を学んでいた。劉八はたいへん細心で頭がきれ、麻花の材料の配合、加工技術、製品の食感、外形などにたいへん気を配り、彼が揚げる麻花は風味豊かで、たいへん人気があった。十数年語、劉八の麻花店は、種々の原因で廃業した。範桂才、範桂林の二人は、1936年前後にそれぞれ麻花を商う小さな店を開き、店の名は桂發成、桂發祥と言った(民間資本を吸収して公私共営を行う時に、二店は一つに合併して桂發祥になった)。兄弟二人は頭の回転が速く、彼らはこれまで学んできた技術と自分の理解や知識を完全に理解(“融会貫通”)していたので、作られた麻花は更に甘く香ばしく、サクッとした口当たりで、お客は絶えることがなかった(“盈門”)。麻花店の住所(旧住所)が東楼十八我街付近であったので、人々は俗に“十八街麻花”と呼んだ。

  十八街の麻花には、“花理虎”、“縄子頭”などの種類があり、その製造過程は独特で、厳格である。麻花は一般に酥餡条、麻条、白条が組み合わされている。酥餡条は、熱した油と小麦粉でパイ生地を作り、更に胡桃の実、青梅、キンモクセイ、青紅絲、閩姜、ゴマなどを餡に使ったものである。白条は、砂糖液を小麦粉の生地に揉み込んだものである。同時に一部の白条にゴマを貼り付けたものが麻条である。酥条、麻条、白条をいっしょにねじり合わせて様々な模様にし、これを麻花の白地(油で揚げる前の状態)とする。油で揚げる時は、落花生油を用い、油の温度は二百度前後に調整し、弱火にして充分に火を通す。鍋の中で麻花は三十分以上の時間をかけて揚げられ、出来上がった黄金色の麻花の上には、更に氷砂糖をかけ、青紅絲や南瓜の種の仁などを散らす。

 十八街麻花は使う材料の配分が正確で、例えば半斤の重さの麻花を揚げる時は、油四両、白砂糖二両五銭、氷砂糖半両を使う。麻花は小麦粉を発酵させる酵母、パイ生地に練り込む油、炭酸ソーダなどの面でも少しも疎かにせず(一絲不苟)きちんとした要求があり、また状況を見ながら随時変化させた。十八街の麻花は、酵母は大きく膨らむ強いもので、生地は硬すぎず柔らかすぎず、炭酸ソーダは強すぎず弱すぎず、パイ生地に使う油は多すぎず少なすぎず、火力は弱すぎず強すぎず、このようにして初めて品質を同じに保つことができ、香り、甘さ、サクサク感、歯ざわり、色つや、外観が一つ一つすばらしい。製造技術が精緻であるので、十八街桂發祥の麻花は数か月置いても味や香りが抜けることがなく、油が回って柔らかくなってしまうことがなく、変質しないという優位性を持っており、その名声は長きにわたって続いており、国内だけでなく海外でも歓迎されている。

【出典】由国慶編著《追憶甜蜜時光―中国糕点話旧》百花文藝出版社 2005年

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中国の伝統菓子・薩其馬(サチマ)

2010年09月04日 | 中国グルメ(美食)

  前回、月餅のことを書いた時、薩其馬(サチマ)のことが出てきました。この不思議な名前の由来は、この後に出てきますが、見た目、日本の粟おこしのような感じですが、材料が言わばドーナツの生地のようなものを一旦油で揚げてから蜜で固めたものなので、食感はふわふわ、サクサクで、しっとりしています。中国のスーパーのお菓子売り場の隅にパックされたものが売っているので、一度お試しを。もっとも、今は大量生産品しか見たことがありませんが、昔は手作りで、バターや蜂蜜を贅沢に使ったものは、高級菓子であったのだろうと思います。

 今回紹介する文を書いた雲郷(1924-1999)氏は山西省生まれ。北京大学中文系を卒業し、1956年より1993年まで上海電力学院教授を務められ、紅楼夢研究の第一人者でしたが、歴史、民俗学にも深い造詣を持っておられました。《雲郷話食》は、専門の《紅楼夢》にまつわる食べ物の話、昔の北京の伝統的な食べ物の話などがまとめられていて、歴史好き、食べ物好きの私にとっては、美味しい、お気に入りの本です。

                      薩其馬

 ある友人が北京から一箱のお菓子を持って来てくれた。箱を開けひとつ取り出してみると、黄色くて、一本一本がくっつき合い、上を青や赤の糸で覆われている。その名を“薩其馬”という。これは北京の薩其馬であり、上海の薩其馬ではない。

 薩其馬は、“沙其馬”、“賽利馬”とも書き、要するに音訳の書き方であり、翻訳した言葉のように、決して一致しない。この奇妙な名前はどこから来たのだろう?《光緒順天府志》に簡単な記載がある。

 賽利馬はラマ教の菓子(点心)であり、今は店で商う。小麦粉を木の実と混ぜ、砂糖とラードを加えて蒸しあげたもので、味はすこぶる良い。

 富察敦崇《燕京歳時記》に言う。

 薩其馬はすなわち満州族の菓子(満州餑餑bo1bo)であり、氷砂糖、バターをメリケン粉と混ぜ合わせ、形をもちのようにし、灰の出ないオーブンでよく焼き、四角く切れば、甘くておいしい。芙蓉糕は薩其馬と同じだが、小麦粉に赤砂糖を加え、色艶がハスの花のようであるだけである。

 このふたつの記事は、大同小異で、どちらも簡単に書いてあり、その作り方は、あまりはっきりしない。しかしこの名前が音訳であること、モンゴル語でなく満州語であるので、書き方は人により異なる。ラマ教の菓子と言うなら、モンゴル語である。満州族の菓子なら、満州語である。かつて上海では、人々は薩其馬を広東のお菓子だとばかり思っていたが、それはその本源を知らない人が誤って伝えたからである。

 薩其馬の作り方は、卵白と牛乳、砂糖、小麦粉を混ぜて糊状にし、じょうごを揚げもの鍋の上に渡しかけ、糊状の小麦粉を揚げてはるさめのようなものにし、それを型の中に入れて蜂蜜でくっつけて押し固め、ちょっと蒸してから、上に煎ったゴマや、瓜(西瓜や南瓜)の種の仁、青や赤の糸状の飴をまぶし、長方形に切れば完成する。製造する時に蜂蜜を調合するのは、主に湿り気を与えるためで、日が経っても乾燥しない。また小麦粉の中に卵白を加えるので、油で少し揚げると中が中空で外側がまっすぐな細い棒状になる。食べる時、口に入れると溶け、ほとんど咬む必要が無い。その中には卵の味、牛乳の味、蜂蜜の味があり、三者が小麦粉、油と混ざり合い、他に無い美味しさを形成し、他の如何なるケーキやクッキーもそれに及ばない。

 薩其馬の表面に、一層のピンク色に染めた綿砂糖を敷いたなら、見た感じが一層きれいで、つけた名前がとりわけ耳に快く、これを芙蓉糕と言う。実際は薩其馬のようにおいしくなく、一に甘すぎ、二に綿砂糖を固めてあるので、食べてもさくっとした柔らかさが無い。薩其馬と芙蓉糕は何れも冬のお菓子であり、だいたい冬に入ると売り出し、春先まで売っているだろう。良い薩其馬は高さは1寸(3.3センチ)もなく、2寸余りの長さの長方形のぺしゃんこの固まりで、底は一面によく煎ったゴマが貼り付けられ、お菓子箱に入れられても、一層一層がお互いにくっつきあうことがない。

 北京の昔のお菓子屋は、おおよそ三種類に分かれ、ひとつは満州餑餑舗で、多くは内城に店を開いた。ひとつは南果舗で、多くは南城に店を開いた。後になってもうひとつ、西洋式の菓子店が現れ、麺包房(パン屋)とも呼ばれ、東安市場の国強、西単の濱来香等で、西洋式のケーキやお菓子を専門に売り、北京では洋点心と呼ばれた。この三種のお菓子屋の中で、前の二種類の店の看板には“満漢餑餑”等の文字が書かれ、何れもたいへん良い薩其馬を売った。例えば前門大街の正明斎、西単北の毓美斎、蘭英斎等で、それ以外にも庚子前の旧店があった。

 薩其馬は季節の食べ物で、一般には冬だけあり、夏は暑いので、粘り気のあるお菓子を作るのは当然困難であった。良い薩其馬はたいへんきめ細やかで、サクサクして、柔らかく、相当の技術を持っている必要がある。薩其馬がお菓子屋で価格が比較的高い理由は、バター、蜂蜜といった原料が何れも高級なものだからである。曾てのような品質の薩其馬は、現在は中国各地どこへ行っても見ることができないが、このことは製作技術とたいへん大きな関係がある。民間の伝統食品の製作技術は、しっかり発掘、継承していかなければならないようだ。

 薩其馬と似たものには、他にも年越しに仏様にお供えする“蜜供”があり、小麦粉を練って小さな棒状に切ったものを油で揚げてから一本一本を蜂蜜で貼りあわせ、積み上げて方形の塔状にし、高さは様々で、仏前に一対、左右各一個お供えし、終わったら子供達に食べさせるので、「蜜供尖」と呼ばれ、もっとも良いのは新街口の聚声斎、地安門外の増慶斎のもので、看板には桂花蜜供と書かれた。これは北京の昔の特別な食品で、江南には無く、想像の難しいものである。

(〈甜品集錦〉より)
【出典】雲郷《雲郷話食》河北教育出版社 2004年

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月餅のこと(その2):月餅の木型

2010年08月22日 | 中国グルメ(美食)
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  中国では、7月頃から9月下旬~10月(旧暦なので、毎年異なるが)の中秋節まで、贈答用の月餅商戦が街を賑わす。今や、月餅は工場で大量生産されたものを買うのが当たり前になっているが、昔は一個一個手作りされていた。そこで活躍したのが、四角や丸の形の上に、様々な図柄を浮き出させる木型である。今回は、月餅の木型について紹介する。

                月餅の木型(月餅模子)について

 月餅の木型(中国語で“月餅模子”という)については、人々は決して知らない訳ではない。これは昔の生活の中で、私たちが最もよく見かけた、お菓子と密接に関係した道具(型)であり、お菓子屋だけでなく、一般の家にも、おそらくは一つや二つ常備されていたものである。長年使い込まれた月餅の木型のあの黒ずみ、油でてかてかした色合いの中から、甘く芳しい香りが漂い、いつも子供たちのあこがれの的であった。こうした思いでは、しばしば今目の前にあるお菓子よりもっと甘く芳しい。

  月餅の木型は一般に棠梨(杜梨ともいう)、日本では酸実(ずみ)、小梨といい、バラ科の木で、緻密で固く、家具や細工物の材料として用いられるが、この棠梨に刻まれ、大きさは様々で、形も丸いもの、正方形、楕円形、蓮の花の形、石榴の形などがあった。形が様々なのは、お菓子の外観に変化をもたせる為と、時には中の餡を区別する為に用いられた。一般に、月餅型の図案は、内側と周囲の二重になっている。周囲の図案は、多くは巻いた草、絡まる枝、花などの模様であり、内側のメインの図案はたいへん種類が多く、およそ中国の伝統的な吉祥図案で、あるべきものは全て揃っていたが、人々が特に好んだのは、昔から変わることのない、月の世界(月宮)の図案であった。

  筆者は以前、とある博物館で、一枚の百年余り前の大型の月餅の木型を見たことがあるが、直径三十センチ余り、おそらく五斤、つまり2.5キロくらいの大きな月餅が作れるだろう。型の真ん中は広寒宮(月にあるという伝説上の宮殿で、西王母の不老不死の薬を盗んだ嫦娥が幽閉されているという)の図案で、玉兔、嫦娥、呉剛、月桂樹などが生き生きと描かれ、玉兔搗薬(月にいる白い兎が薬草を搗いて仙薬を作っているという)、嫦娥奔月(嫦娥が夫の后羿が西王母からもらった不老不死の薬を飲んだところ、体が軽くなり、月に昇っていき、帰れなくなってしまった)、呉剛折桂(呉剛が天帝の怒りを買い、月にある大きな月桂樹を切り倒すよう命じられた)、それぞれの情景が見る者を惹きつける。これら主な図案の周囲には、春の蘭、夏の蓮、秋の菊、冬の梅など四季の花が描かれ、月宮の優美さを互いに惹きたて合っていた。

 北方では、月餅の木型の加工は、天津と河北の両地が最もよく知られている。19世紀末、天津では針市街の胡という姓の家だけが工房を開き、点心の木型を専門に彫り、商品は供給が追いつかなかった。

 庚子の年(1900年)、八カ国連合軍の侵略後、天津市街は治安が乱れ(“兵荒馬乱”)、建築装飾業(家の内外を飾る木彫りの細工物を作る)はそれにつれ不景気(“蕭条”)となった。同時に、天津の警察は、火災防止の為、建物の外の軒に木彫りの飾りを付けることを禁じたので、それにより木彫りの職人は深刻な打撃を受け、次々に職を変え、別に生計の道を捜した。彼らの中の一人、有名な木彫り職人、傅宝元は、旧市街の鼓楼の近くに玉順合木型店を開き、専門にお菓子の木型を彫って販売したところ、製品はすぐに市場で販路を切り開いた。天津玉順合、文蘭堂などの屋号の製品は、月餅を含むお菓子の木型を、長期間遠く東北三省で販売した。

  現在では、精緻で美しく彫られた古い月餅の木型は、民俗文物として骨董的価値を持つようになり、民間の収蔵品の市場でいつもその姿を見ることができる。

【出典】由国慶編著《追憶甜蜜時光―中国糕点話旧》百花文藝出版社 2005年

 今は、月餅は贈答品として、大量生産されたものを買うのが普通になり、木型を使って手作りすることは稀となった。古い木型は、骨董品として取引されるようになっている。 それにしても、月餅の木型作りが、義和団事件に続く八カ国連合軍の中国侵攻の結果、職を奪われた木工達によって天津で盛んになったという話は興味深い。
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