goo blog サービス終了のお知らせ 

中国語学習者、聡子のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

秋篠寺に行ってきました

2015年07月05日 | 旅行ガイド

 近鉄京都線の平城駅から西へ、奈良競輪場の先に、樹木の生い茂った所があります。秋篠寺です。
 奈良時代の終わり頃の創建ですが、平安末期の兵火で講堂以外焼失してしまい、焼け残った講堂を鎌倉時代に修理したのが現在の本堂、写真の建物で、国宝に指定されています。屋根の曲線の美しい建物です。
 幅17.45メートル、奥行き12.12メートルの建物の中に、本尊の薬師三尊を中心とした仏像が並ぶなか、須弥壇の向かって左端におられるのが有名な伎芸天で、頭部は奈良時代のオリジナルですが、胴は鎌倉時代に作成されたもの、しかしそれを感じさせないほどバランスよく仕上がっています。


 この写真は本堂の入口手前の境内の様子ですが、地面一面を苔が覆って、幻想的です。このあたりは、元の金堂の跡地で、明治の廃仏毀釈の後、復興することなく、文字通り苔むしたままとなっています。


 秋篠寺南門です。元はこの門の手前に南大門があったようですが、今はこのような小さな門の中にひっそりとたたずんでいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三室戸寺に行って来ました

2015年06月28日 | 旅行ガイド


 JR宇治駅から北へ1キロ余り。三室戸寺へ行ってきました。あじさいを見に行ったのですが、それより、本堂前の蓮の花がすばらしかった。




 あじさいは、もう盛りを過ぎていましたが、それでも、1万株のあじさいは迫力がありました。


 三室戸寺は、平安京を開いた桓武天皇の父、光仁天皇の晩年、山間の渓谷から千手観音が現れ、自らが譲位し仏門に入るための草庵である御室にそれを安置したことから御室戸寺と呼ばれたのを、その後、光仁、花山、白河の三天皇の離宮となったことから、三室戸寺となりました。
 皇室の庇護を受けて発展したものの、足利義昭に協力したことから織田信長の焼き討ちに遇い、衰退してしまいます。
 その後、江戸時代の寛永年間と文明年間に伽藍が復興され、現在に至ります。
 宗派は、役行者を祖とする本山修験宗、これは、熊野信仰に傾倒した白河法王、復興に三井寺の支援を受けたことなどが関係していると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京阪奈纪念公园水景园

2015年06月21日 | 旅行ガイド


从近铁线祝园车站坐公交车10分钟可到得。以永谷池为中心的公园。



由进口进去,有用小竹做的篱笆,与岚山龟山公园和竹林小径的篱笆一样。



现在季节枫树的绿叶很漂亮。



永谷池周围的自然丰富,能看到野鸟和季节的花草。



池沼旁边的观月楼上安装的小孩的木偶很可爱。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粟嶋堂へ行ってきました

2015年05月29日 | 旅行ガイド



京都駅烏丸口から西へ、京都水族館のある梅小路公園の方へ約10分歩くと、リーガロイヤルホテルの裏手に粟嶋堂があります。寺号は宗徳寺、西山浄土宗のお寺です。神仏習合の流れを汲み、粟嶋大明神をお祭りし、「あわしまさん」と呼ばれています。婦人病平癒、安産、子授けなど、女性を守る神様です。本尊は阿弥陀如来、脇侍は、通常は向かって右に観音菩薩ですが、こちらは水子地蔵だそうです。人形供養をしていただけ、境内に供養された人形が飾られています。与謝蕪村の句碑が立っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様のお使いの鳥、カラス

2013年10月27日 | 旅行ガイド

  京都の熊野神社へお参りすると、本殿の拝殿の左右に吊るされたご神燈に、カラスが描かれています。これは三本脚のカラス、八咫烏(やたがらす)です。熊野神社とカラスにはどのような関係があるのか、それが今回のテーマです。



   京都・熊野神社 本殿の拝殿左右に掛かる御神燈




  
  熊野本宮大社

[和訳]
八咫烏
  「咫」とは、本来は長さの単位で、周代の尺では八寸に相当し、手のひらの下の端から中指の先端までの長さのことである。「八咫」(やあた、或いは、やた)と言うと、大きい、美しいという意味である。中国の神話に、太陽に住む赤い、三本脚のカラスがいるが、それが日本に伝わってからの名称が、「八咫烏」(やたがらす)である。八咫烏は、大型のカラスである。日本の和歌山県南部、熊野地方の人々は、これを神様の使者であると信じている。

  日本の神話では、第一代天皇、神武天皇が九州日向国から東征した際、熊野から大和へ行く間の山地の険しく狭隘な道を進むのが困難であったので、天帝は八咫烏を神武天皇のもとへ遣わし、道案内をさせたことで、神武天皇は無事大和国に到着することができた。その時の功により、八咫烏は熊野三山、特に熊野本宮大社の守り神となった。また一説によると、五世紀ごろ、京都市北部に移住を始めた賀茂氏の祖先である、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、この時神武天皇を導いた八咫烏の化身であるという。

  このため、和歌山県の熊野本宮大社、その熊野の神様を京都に分祀した京都の熊野神社、賀茂建角身命をお祭りした、賀茂一族の氏神を起源とする上賀茂神社、下鴨神社は、何れも八咫烏を神様のシンボルとしている。




   京都・熊野神社 本殿




   京都・熊野神社 サッカーお守り

[和訳]
熊野神社と聖護院
  修験道は深山に篭り、修行により悟りを開くことを目的とした日本古来の山岳信仰で、その発展の過程で、仏教の教義に取り入れられ、その後、神仏混合の現象が生まれるようになった。

  熊野神社は、811年に修験道の十世僧侶、日円が、国家守護のため和歌山県南部、紀州地方の熊野の神様をお迎えし、それを京都に分祀したことに始まる。

  聖護院は、本山派修験道の寺院で、本尊は不動明王。滋賀県大津市三井寺出身の贈誉が創建した。贈誉は1090年、白河上皇が熊野を訪問した際、先導を務めた。その時の功により上皇は彼に聖護院を下賜し、また彼を、修験道を統括し熊野三山を監督する職務につけた。

  熊野神社は、その当時は聖護院の守護神であった。このように、神道の神様が仏教寺院を護り、このような形で仏教と神道が共に発展していったというのが、日本の宗教史の特徴の一つである。
  明治時代になって、明治政府は神道を国教と定め、神仏分離の命令を発した。その際これは独立し、名前も熊野神社となった。

  皆さんの中に、サッカーファンの方はおられるでしょうか。日本サッカー協会のマスコットも八咫烏です。八咫烏の縁で、今では熊野神社でサッカーのお守りを売っています。もしお子さんが少年サッカークラブに入っておられるなら、ここでお守りを一つ買われては如何でしょう?


にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする