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中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

避暑山荘(その2、宮殿地区)

2023年12月23日 | 旅行ガイド

避暑山荘正宮の中心、澹泊敬誠殿内部

 

 前回、清の康熙帝が避暑山荘を造営した背景について説明してきましたが、今回は避暑山荘の宮殿地区の紹介となります。

避暑山荘宮殿地区

 避暑山荘の宮殿地区は、山荘全体の南側にあり、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建造物から構成されている。これらの宮殿の共通の特徴は、決して華麗で立派ではなく、屋根には瑠璃瓦を用いず、屋根の棟は飛翔させず、梁の柱は多く着色せず、彩色した絵で飾られておらず、見たところ素朴でさっぱりしている。それぞれの建物の中庭には青松が何本も植えられ、あるものは築山や石段の道を築いて美しく見せている。それぞれの建物の間は回廊でつながれ、一体化されている。

 正宮は宮殿地区の西側にあり、麗正門、閲射門、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)、四知書屋、煙波致爽、雲山勝地などの建物から構成されている。これらの建物の建築様式は左右対称で、配置は緻密で、北方の四合院の様式である。

  麗正門は、避暑山荘の正門である。麗正門を入って北に行くと、 閲射門であり、門の上には康熙帝が自ら揮毫した「避暑山荘」の扁額が掲げられ、それゆえまたの名を避暑山荘門と言う。

康熙帝揮毫の「避暑山荘」扁額

 避暑山荘門の中は、熱河行宮の正殿、 澹泊敬誠殿である。この御殿は1710年(康熙49年)と1754年(乾隆19年)、全て四川、貴州から徴発したクスノキを用いて建造、改築されたことから、楠木殿とも呼ばれる。クスノキで作った梁、柱、門、窓は全て元の木材の色が保たれ、彩色彩絵されておらず、雨季や霧の季節になると、クスノキの香りが絶えず漂った。

澹泊敬誠殿

澹泊敬誠殿の「澹泊」の二字は、諸葛亮の「非澹泊無以明志,非寧静無以致遠」(無欲でなければ志を明らかにできない。静かで安らかでなければ遠望を持つことができない。『誡子書』)の名句から採ったものである。康熙帝は「澹泊」を標榜し、彼の孫の乾隆帝も「標言澹以泊,継曰敬兮誠」(無欲を標榜し、日々誠を敬う)などと言った。もちろん、こうした封建皇帝は無欲な生活をするすべがなかった。この正殿は清帝が盛大な典礼を挙行する場所であった。もし皇帝が山荘で暮らす間に誕生日を迎えると、大いにお祝いを行い、王公大臣たちがここで皇帝にお祝いの言葉を高々と叫んだ。皇帝は少数民族の首領の人物や外国使節を接見する盛典もいつもここで挙行した。特に提起するに値するのは、澹泊敬誠殿は清代の歴史上意義のある一幕、乾隆帝が万里を帰還(東帰)してきた土尔扈特(トルグート)部の傑出した指導者、渥巴錫(ウバシ・ハーン)を接見したことである。

  トルグート(土尔扈特)は元々新疆北部のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)四大部族のひとつで、その他三部はホシュート(和碩特)、ジュンガル(准格尔)、ドルベト(杜尔伯特)である。明朝末期、彼ら部族はジュンガル部上層貴族のいじめに堪え難く、西に移動し、1630年(明崇禎3年)ボルガ川下流に引っ越した。帝政ロシアはトルグート部に対して長期間残酷な圧迫と掠奪を行い、またこの部族の青年壮年の人々を徴用して侵略や戦争の拡大を行い、多くの人々が命を失った。トルグート部はこれ以上容認できなくなった。1771年(乾隆36年)初め、英雄、 トルグート部首領 ウバシ・ハーンは、部族の人々を率いて東へ帰還し、途中帝政ロシアの軍隊の追撃と阻止を粉砕し、様々な困難や危険を克服し、巨大な犠牲を払って、半年余りの時間を経て、行程1万余里、遂に元々暮らしていた清国領に戻り、貴重な保存されてきた明永楽8年(1410年)にその祖先が明朝から賞賜された漢篆玉印を清政府に献上した。

トルグートの西遷と東帰

  ウバシ・ハーン率いる部族が帰還したことは、ちょうど木蘭圍場で秋狝していた乾隆帝を大いに喜ばせ、彼は ウバシを熱河に来させて朝見した。この年の98日、乾隆帝は木蘭の蒙古式のゲルの中で親しくモンゴル語でウバシと談話し、東帰の情況を尋ねた。乾隆帝は続いて避暑山荘に戻り、再び澹泊敬誠殿で厳かにウバシを接見し、彼が部族を率いて祖国に帰還した壮挙を称賛し、彼を卓里克図汗(「英雄のハーン」の意味)に封じ、また山荘内の万樹園等で何度も宴席を設け、夜は灯火を灯した。この時ちょうど普陀宗乗之廟が落成し、乾隆帝はウバシに随行して参詣させ、新疆、青海等の少数民族の王公貴族と一緒に盛大な法会に参加した。

 次に、引き続き正宮の建物を説明する。澹泊敬誠殿の北側には四知書屋があり、清帝は時々ここで各少数民族の首領を招いて接見した。更に北側には 煙波致爽と雲山勝地がある。煙波致爽は前三十六景の中の第一景で、この土地は「四方が秀嶺、十里の澄湖にて、爽気を致す」、これは康熙帝がこう名付けた由来である。

 しかし、咸豊時代になり、 煙波致爽は清王朝の屈辱や醜悪な史実と関係が発生した。煙波致爽は皇帝の寝宮であり、清の嘉慶帝、咸豊帝はここで死亡した。皇帝の居室はその真ん中にあり、東西に各々ひとつ小院があり、東西所と呼び、皇后、妃が居住する場所であった。1860年(咸豊10年)9月、英仏連合軍がすさまじい気勢で北京を侵犯した。咸豊帝は北京の円明園からあわてふためき出奔し、熱河に来て、930日に 煙波致爽に入り、咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏が西側の小院で暮らした。咸豊帝は彼の六番目の弟の奕訢(えききん)に命じて北京に留まり「講和交渉」を管轄させ、英仏、及び帝政ロシアと不平等な『北京条約』を締結し、中国は大版の領土と主権を喪失した。

 1861822日、咸豊帝は煙波致爽で病死した。彼の遺詔により、まだ6歳の息子の載淳(同治帝)が山荘で皇位を継承し、怡親王載垣、鄭親王端華、戸部尚書粛順等の八大臣が「一切の政務を補佐」し、載淳を補佐した。咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏(イェヘ・ナラ氏)は載淳の生母で、載淳の即位後、咸豊帝の皇后の鈕祜禄氏(ニオフル氏)と共に皇太后になり、那拉氏が慈禧太后、鈕祜禄氏が慈安太后となった。慈禧は御簾(みす)を垂れてその奥で聴政(垂帘听政)し、朝廷の大権を操った。粛順ら八大臣は彼女に対して早くから警戒し、彼女が政事に干渉することに断固反対した。このため慈禧は政務を補佐する八大臣をひどく怨んだ。彼らを排除するため、彼女は急いで恭親王奕訢を召して北京から熱河に赴任させた。95日、奕訢は避暑山荘に咸豊帝の葬儀に駆けつけた。山荘の離宮で、慈禧は奕訢と秘密裏に協議し、北京に戻って政変を発動する計画を立てた。続いて、慈禧は八大臣に命じて馬車を準備させ、咸豊帝の柩を北京に護送させた。111日(旧暦925日)慈禧は北京に戻り、翌日彼女は同治帝の名義で上諭(勅命)を発布し、載垣、端華、粛順らの職務を解除し、逮捕させた。118日(同106日)、また命令を発し粛順を斬首し、 載垣、端華に自尽させ、八大臣中の残り五人は罷免や流刑に処した。慈禧は直ちに彼女が渇望した垂帘听政を実現し、清王朝の最高権力を奪い取った。その後の半世紀の期間、慈禧は対内には残酷な圧迫、対外には膝を屈して投降し、中国近代史に暗黒の1ページを残した。

 次に正宮の東側に位置するもうひとつの建築群の松鶴斎を紹介する。これは乾隆年間に建設され、松鶴斎、継徳堂、楽寿堂、暢遠楼が含まれる。そのうち主要な建物が松鶴斎である。これは乾隆帝の母親の孝聖憲皇后が居住した場所である。これら建築群の最後部が暢遠楼で、建物の後ろの門は宮殿地区の別の建築群の万壑松風に通じている。

 万壑松風(ばんがくしょうふう)は康熙年間に建設された。万壑松風、鑑始斎、静佳室等から構成される。これら建築群は高い丘の上に建築され、青い湖に面し、松林の緑で覆われ、谷間を風が通り抜け、殿宇が入り乱れて趣があり、レイアウトが変化に富み、北方の四合院の様式とは明らかに異なり、極めて南方の園林に似ている。 万壑松風の主殿は康熙帝が章奏に目を通し、臣下に指示を与えた場所である。主殿の南側は 鑑始斎で、乾隆帝が少年時代にここで勉強をし、直接康熙帝の教戒を受けた場所である。乾隆帝の即位後、祖先を紀念し、主殿を紀恩堂に改称した。

 東宮は 松鶴斎の東側にあり、ここには乾隆年間に建設された膨大な建築群があり、南の徳匯門から始まり、北の塞湖之浜に到った。ここには乾隆帝が日常大臣を引見し、詔(みことのり)を頒布した前殿、乾隆帝の誕生日に芝居を催した清音閣(俗称は大戯楼)、宴会を挙行した福寿園、政務を処理した勤政殿があった。これらの建物は1933年の日本の侵略軍による破壊と1948年の火災で消失した。現在は塞湖之浜の巻阿勝景、これは勤政殿の後殿であるが、唯一残っているが、これは1979年に再建されたものである。

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避暑山荘史話

2023年12月18日 | 旅行ガイド

 中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

 今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』に掲載された、郭秋良、劉建華『避暑山荘史話』の内容に基づきます。


一、康熙北巡と避暑山荘創建

 康熙帝の意志に基づき、清朝宮廷は避暑山荘の造営工事を始めた。山荘は1703年(康熙42年)に正式に着工し、1708年(康熙47年)に初歩的に供用され、1792年(康熙57年)に最終的に完成し、前後90年近くの時間を要した。どうして北京北東の燕山山脈の中に規模の十分巨大な行宮を修築したのか。実は、これは康熙帝の北巡と密接な関係がある。

 17世紀後半、帝政ロシアは中国東北の黒竜江流域で侵略活動を強めた。1685年(康熙24年)正月の康熙帝の詔(みことのり)でこう指摘した。「曾てロシアは故無く国境を犯し、我が逃亡者を収め、その後次第に国境を越えて来て、索倫(鄂温克)、赫哲、費雅喀、奇勒などの地(黒竜江流域、大興安嶺一帯の少数民族居住地)をかき乱し、人口を強奪し、村落を掠奪し、テンの毛皮を奪うなど、さんざん悪事を働いた。」西北の辺境地帯のオイラト・ジュンガル部(厄魯特蒙古准格尔部)の首領のひとり、ガルダンツェリン(噶尔丹)も、帝政ロシアの支援の下民族の分裂活動を行い、兵を興して南下した。このような形勢下、康熙帝は北方の辺境の管理を強めるため、モンゴル族各部との関係を密接にし、国家の統一を維持し、帝政ロシアの侵入を防ぎ止めるため、北巡制度を実行した。

 1677年(康熙16年)、康熙帝、愛新覚羅・玄燁(げんよう)は初めて塞外の北巡を行い、1681年(康熙20年)、木蘭圍場(今の河北省承徳市圍場県)を設置した。(「木蘭」は、満州語で、「鹿」の意味狩猟の時、兵士が鹿の毛皮を身に纏い、口で鹿の鳴き声を真似て、鹿を誘い出して捕まえる。これを「鹿」と言う。「圍場」は皇帝や貴族の狩猟地。1820年(嘉慶25年)までの130年余りの長い期間中、清朝皇帝は木蘭で軍事演習を行うことが百回以上に及んだ。こうした軍事活動を、当時は「秋狝qiū xiǎn」と称し、ほぼ毎年秋に一度実施された。毎年「木蘭秋狝」の度に、皇帝は宗室の親王、内閣六部、各少数民族の王公貴族、八旗の兵士を率い、威風堂々と木蘭圍場に向かった。この周囲千里余りの広々とした狩猟地区で、皇帝は彼の従者たちと馬を駆って弓を引き、獲物を射た。金鼓が鳴り響き、何度も歓声が上がり、権勢が雄壮であると称するに堪えるものであった。狩猟が終わると、皇帝は猟で仕留めた熊、虎、鹿、ノロジカ、キツネ、ウサギなどを随行した王公大臣や各少数民族の首領に分け与えた。清朝皇帝のこうした狩猟活動は、決して単に野生動物を狩猟するためだけではなく、その主要な目的は軍事演習と同時に各少数民族間の団結を強化するためだった。

 ここで提起すべきなのは、ガルダンツェリンに対する烏蘭布通(ウラーン・ブトン。内蒙古自治区赤峰市)の戦いであった。1690年(康熙29年)78月、康熙帝は圍場南側の波羅河屯(今の河北省承徳市隆化県)に布陣し、自ら作戦を手配し、圍場北側の烏蘭布通(今の内蒙古自治区克什克騰旗の南)でガルダンツェリンの反乱軍を徹底的に殲滅した。当時満州、モンゴル、漢族、回族の人々は労役で日夜軍需物資を時間通り運搬し、清軍は奮闘して作戦を推敲し、ガルダンツェリンの反乱軍に致命的な打撃を与えた。その後ガルダンツェリンの反乱軍は捲土重来を図ったが、康熙帝の再度の親征の下再び失敗に帰し、最後は1697年(康熙36年)人心を得ることができず孤立し、服毒自殺した。

康熙帝のジュンガル部親征、烏蘭布通の戦い

  しかし木蘭圍場は北京から7百里余り離れており、一度の「秋狝」活動はしばしば34ヶ月続き、このような遠距離で長期間の行軍には、事前に途中に大量の物資を準備する必要があり、しかも皇帝は巡行し狩りを行う途中で政務を処理し、官吏を接見し、上奏文を見て批准し、食事や宿舎を手配する必要もあった。こうした需要のため、古北口から木蘭圍場に至る途中に16ヶ所の行宮が建設された。その中で現在の承徳市に最も近いのが、承徳南西、灤河(らんが)南岸の喀喇河屯(からがとん。今の承徳市灤河鎮)行宮で、その位置はたいへん重要で、規模もかなり大きかった。承徳は当時はまだ人煙稀な荒野であり、十数戸の人家のある小村落がひとつしかなかった。康熙帝が「村の長を訪ねて石碣を尋ね」、熱河のこの場所を発見し、喀喇河屯よりも自然条件がもっと優れていて、しかも「京師(都、北京)に行くに至近で、上奏を朝に発せば夕方に至り、万机を総理するに宮中と異ならない」と思い、ここに熱河行宮、つまり避暑山荘を建設することを決定した。これより、避暑山荘が清代の皇帝が木蘭での 秋狝期間の活動の中心となった。

二、塞外の真珠、避暑山荘

  避暑山荘はまたの名を熱河行宮と言い、承徳離宮は、武烈河、すなわち熱河の西岸に位置し、北京から250キロの距離にある河北省承徳市に立地している。

避暑山荘は武烈河の西岸に位置する

 承徳は殷や周の時代、中国の北方少数民族、山戎、東胡の居住地だった。戦国時代、承徳、及びその付近は燕国の漁陽、右北平、遼西の三郡に属していた。秦、西漢初期は依然この三郡に属したが、漢の武帝の時に新たに設けられた幽州に属した。西漢から東漢を経て魏晋南北朝時代まで、匈奴、烏桓(うがん)、鮮卑等の民族が居住した。隋、唐の時代、奚(けい)、契丹の居住地であった。遼王朝の時、ここは中京道澤州滦河県及び北安州の地であった。金王朝に至り、北京路興州興化県、宜興県の地となった。元朝の時代は上都路に属した。明朝の時代は興州衛に属し、その後諾音衛に併合された。

 清の康熙帝の時に避暑山荘が建設されて後、外地から熱河に引っ越す人が引きも切らず、人口が増加し、市場が興隆し、熱河は次第に新興都市として発展し、そして行政機構の設立が必要になった。1723年(雍正元年)先ず熱河庁が設置され、1733年(雍正11年)承徳州に改称され、承徳の名称がこれより始まった。1742年(乾隆7年)熱河庁が復活し、1778年(乾隆43年)承徳府に昇格した。当地が軍事上重要な拠点であったので、1738年(乾隆3年)熱河副都統が設けられ、1810年(嘉慶15年)熱河都統に昇格、都統署は依然として承徳府の管轄であった。承徳府は直隷省に隷属した。辛亥革命後、直隷省の長城以北の地域は熱河、察哈爾の両特別区に区分された。熱河特別区の治所は承徳にあった。1928年熱河特別区は熱河省に改められ、省府は引き続き承徳にあった。1948年承徳解放後、市が設定された。1955年熱河省が廃止され、承徳市は河北省に帰属することとなった。

 承徳は景勝都市である。全市のほぼ半分を避暑山荘が占め、山が連なり木々が青々とし、谷や川の静けさ、古松が青々と茂り、湖水は澄み渡り、宮殿が林立し、楼閣が見え隠れしている。この我が国で著名な古代の園林は、その格別な北国の景観により益々多くの国の内外からの観光客を惹きつけ、「塞外の真珠」と褒め称えられている。

 避暑山荘の所在地は燕山山脈の中、武烈河河畔の狭く長い谷の中にあり、周囲には気勢が雄大な、石を積み重ねて築いた虎皮石宮墻(虎皮石は花崗岩の一種)があり、宮墻(宮壁)の長さは20華里(10キロメートル)、幅は1.3メートルある。宮壁の上には雉堞(ちちょう。城壁の上に付けられた凹凸状の突起。ひめがき)があり、哨兵を布陣させることができた。

虎皮石宮墻

山の地形に沿ってうねうね起伏のある宮壁の内側には、564万㎡の湖や山が広がり、総面積は北京の頤和園の二倍である。避暑山荘の正面は麗正門で、門の前には赤色の照壁(目隠しの塀)があり、門の傍らには石の獅子が雄々しく盤踞(ばんきょ)している。麗正門の西側には碧峰門、東側には徳匯門、小南門がある。この他、北東には恵迪吉門、北西には西北門があり、更に専用の流杯亭門や倉門などがある。東側の宮壁の外側には谷間をうねうね流れる武烈河の流れで、山荘の中の熱河泉水は宮苑から流れ出し、武烈河に合流し、南へ向かい滦河に注入する。山荘の地勢は海抜1千メートル以上で、西側は山地、東南部は平原と湖で、全体の地形は西側が高く東南部が低い。ここの夏季の平均気温は摂氏356度くらいだが、生い茂った古樹が天高くそびえて日差しを遮り、広々とした湖面の水や空気は清々しく、そのためたとえ盛夏でも、山荘の気候は涼しく過ごしやすく、避暑に絶好の場所である。

 

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石上神宮に行ってきました

2015年08月14日 | 旅行ガイド


 近鉄天理駅から東へ2キロ余り、天理教本部の前を通り抜けた先、山の麓の森の中に石上神宮(いそのかみじんぐう)はあります。
 大陸から移住してきた渡来人の一つ、物部(もののべ)氏の氏神であり、古代の武器である刀剣の神様です。もっとも、物部氏は、物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされて後は、朝政の中枢を担うことはありまでんでしたが。

 神社の拝殿は、現存する最古のもので、国宝に指定されています。時代的には、鎌倉時代初期のものだそうです。
 また、現在は拝殿の後ろに本殿がありますが、元来は本殿がなく、神の宿る場所として、禁足地となっていました。明治の発掘調査で、ここから太刀が出土しています。

 回廊は、朱に緑色が目に鮮やか。楼門は、元々鐘楼として、鐘が吊るされていたそうです。

 境内では、30羽ほどの鶏が放し飼いにされています。神様のお使いとして、大切にされています。

 神社の境内入口の木製の大鳥居の周囲はうっそうとした樹木で覆われていて、境内を別世界にしています。

 楼門の向かいの一段高いところに、摂社の出雲健雄神社(いずもたけおじんじゃ)があります。草薙の剣の荒御霊、つまり刀の霊魂を祭っています。その向かいに、出雲健雄神社の拝殿があります。

 割拝殿という形式で、中央の通路を挟み左右に拝殿があります。ちょうど京都鞍馬の火祭りで有名な由岐神社の拝殿が同じ形式です。
 実はこの拝殿は、元来は、石上神宮から山辺の道に沿って1キロ余り南へ行ったところに、明治初頭の廃仏毀釈で廃寺になるまで存在した、内山永久寺の鎮守社の住吉神社の拝殿であったそうです。今は無き内山永久寺の遺構として貴重で、且つ建築様式も珍しく、国宝に指定されています。
 この後、内山永久寺跡まで行ってみましたが、あたりは柿畑が広がり、寺院があった面影は残っていませんでした。

 石上神宮から山辺の道を南に行くと、まもなく蓮池が見えてきます。ちょうど白い蓮の花が見頃を迎えていました。

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高台寺に行ってきました

2015年07月20日 | 旅行ガイド

 今回は京都東山の高台寺です。豊臣秀吉の死後、夫人の北政所ねねが秀吉の菩提を弔うため、秀吉の眠る東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰の麓に開いたお寺です。
 高台寺の拝観受付所を通って、その先から円山公園の方を見下ろすと、奇妙な建物が見えてきます。

 これは大雲寺祇園閣、1928年に当時の大倉財閥の大倉喜八郎が祇園祭の山鉾をモデルに作ったもので、鉄筋コンクリートの建物です。設計は西本願寺伝道院を作った伊東忠太。
 さて、高台寺での見ものは庭園です。小堀遠州作庭。方丈正面の枯山水、方丈から開山堂を望む、池を中心とした緑豊かな庭園の二つがあります。


 先ずは正面、勅使門を背に、白川砂を敷き詰めた枯山水。真っ白な白川砂で盛り砂が二つ作られています。一つは丸、一つは四角。臨済宗のお寺ですから、これも禅の公案でしょうか。

 こちらの庭は、偃月池、臥竜池を中心に、樹木と芝の中に石が効果的に配され、心が洗われるよう。行った日はちょうど朝から雨が降っていましたので、一層緑が鮮やかでした。

 開山堂。建仁寺から迎えた三江紹益を祀っていますが、このお堂の見ものは内部の天井の彩飾。秀吉使用の船の天井、北政所の御所車の材が使われているそうで、当時の色使いの絵がそのまま残っています。
 開山堂正面の左右の窓は火頭窓。中国宋から禅宗と共に日本に入ってきたものです。
 もうひとつ、高台寺の見ものは趣向を凝らした茶室の数々。

 傘亭。屋根は宝形作り、天井が無く、屋根裏を放射状に竹の垂木を組み合わせてあり、傘の骨に見立ててあります。

 時雨亭。珍しい二階建ての茶室で、階下が待合、階上が茶席だそう。ねねの時代は、樹木もまだ生い茂っておらず、人家も少なかったので、遥か淀川から大阪方面も見渡せ、ねねはこの階上から大坂夏の陣で燃え落ちる大坂城を見て一人涙したとか。
 この傘亭と時雨亭は、秀吉の居城であった伏見城から移されたものです。

 遺芳庵。豪商、灰屋紹益と、その妻になった六条三筋町遊廓の吉野太夫の好みの茶室で、吉野窓と呼ばれる丸窓が印象的です。
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奈良白毫寺を訪ねて

2015年07月12日 | 旅行ガイド

 奈良公園の東側、北から若草山、そして春日大社の鎮座する御蓋山(三笠山)の南に、高円山(たかまとやま)という山があります。標高400メートルの穏やかな山です。この高円山の西麓にあるのが白毫寺です。
 春日大社本殿から南へ、通称ささやきの小道と呼ばれる森の中の道を抜けると、光明皇后ゆかりの新薬師寺。ここから南東へ1キロほど歩きます。人家の並ぶ坂道を登りきったところに石段が見えてきます。

 石段の両側は萩が生い茂っています。9月の花の季節には、さぞ見事だろうと思われます。そして、石段を登りきったところが白毫寺境内。

 白毫寺本殿。真言律宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来。建物は江戸時代に再建されたもの。白毫寺は715年、志貴皇子の死を悼み、父の天智天皇の勅願で、元の志貴皇子の山荘を寺にしたと言われています。


 桔梗の花咲く中庭を抜けて、宝物殿に入ります。見所は、正面の須弥壇中央の平安末期~鎌倉期、定朝様式の阿弥陀如来、その右に、伝文殊菩薩、左に地蔵菩薩。何れも木像ですが、穏やかな表情に気品が感じられます。一方、左手の台には閻魔像、こちらはたいへん表情豊か。右手の台上には、鎌倉時代に白毫寺を中興した、西大寺の叡尊の老年の像が安置されています。

 白毫寺境内から、奈良盆地を見下ろします。遠くの山並みは左手が葛城山、中央が二上山、右手は信貴山から生駒山。ここは奈良盆地の東の端を縫って走る山辺の道の北端に当たります。
 近鉄奈良駅から、春日大社、新薬師寺と通って白毫寺まで。約5キロのコースです。
 次回は是非秋の萩の花が見頃の時期に来たいものです。万葉集、笠金村の詩、
 高円の野辺の秋萩いたづらに
 咲きか散るらむ見る人なしに
朝早く、人気の無い時間に訪れれば、この詩の雰囲気に浸れるのではないかと思います。
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