のんきいきいき So(走) Happy! -櫻庭健一の日記-

いつも笑顔と感謝を忘れずに
甘っちょろいと言われても希望を捨てず生きる
過去の少しの試練はそれで乗り越えたのだから

走れども走れどもゴールがないから人生は面白い

2016年05月18日 11時27分26秒 | Weblog
昨日、病院に行ってきた。
あ、父じゃなくて私の病院ね。
診察じゃないです。
デイケアと呼ばれている場所の夕食会。
私のたいせつな場所。

他のメンバーとは行く日を決める基準は違う。
この日に行きたいから行く。
私も昔はそうだった。
今は始めに行く日ありきではない。
父のお世話をお願いできる日。
姉とのスケジュール調整。
それで、後付けで行ける日、行く日が決まってくるのだ。

ここのメンバーになって20年以上が経つ。
私の心の病の歴史、ここはその足跡そのものである。
今の私だけを知っている人が当時の私を見たら。
にわかには同一人物とは信じられないであろう。
精神的に病んでいたのはもちろんのこと。
肉体的にも、そして外見も、今とは別人だった。
20代後半の私よりも若々しい52歳。
年相応を基準とするなら、そういうことにもなってくる。

統合失調症、精神病院への入院、今とは違った理由で働くことができなかった年月。
別に「黒歴史」でも何でもない。
その経験があったからこその今の私。
二十歳の発病から、三十年を吹っ飛ばして、フルマラソンを普通に走れる自分になったら。
深みも何もない、つまらない、それだけじゃない。
天狗の鼻の伸びきった、とんでもない勘違い男になっていたであろう。

今年二月、三十年以上を経て、やっと薬を完全に止められた。
ここは、まだゴールではない。
たとえばいわゆる「離脱症状」の存在。
覚醒剤とかとは違う。
けれど、心に直接作用する薬、向精神薬を長く続けたのは事実。
三十年以上の「薬物依存」だったんでしょ。
そう言い切られたら返す言葉がない。
薬を断ち切った段階でそれでお終い、病からの卒業。
辞めた瞬間から「不具合」は一切起きない。
そこまでの楽天家にはなれないなあ。

今、デイケアに通うのは今までとは違う意味もある。
ひとりぼっちになりたくない、楽しいから、メンバーとの交流、あるいは社会復帰の準備。
単純にそれだけではない。
スタッフとの面談、今の自分の状態を話す、自分がどう見えるか忌憚のない意見を聞く。
「調子が良い」その自覚だけで突っ走るわけにはいかない。
「この病気」だけに薬を止めたときの「調子が良い」という本人の感覚そのものがひとつの離脱症状、勘違い、悪化、失敗の入口である可能性がある。

昨夜も面談も受ける予定で行ったのだけれど。
なんか違うことになっちゃった。
普通、普段通り、みんなと話す、交流する。
そのほうが面白くなっちゃった。
馬鹿言って馬鹿やって大騒ぎしてそれでお終い。

まあ、これはこれでいい。
これも私には必要なこと。
心を癒やすために行った。
父の介護に向き合うだけの日常生活では、違う意味での「なんらかの精神的肉体的不具合」が発生する。
病気のこと、薬のこと、ここに居るときも一切考えない。
それも今の私にはとても重要な時間の過ごし方だからね。

なんだかんだであちらもプロだから、私の状態を見てくれているわけで。
「大丈夫ですか」「また痩せました?」「無理しないでくださいね」
その手の声掛けをさりげなくしてくれる。
ほんとうにありがたいこと。

今の私は一見順調、健康的。
「その情報」を知らずに今の私だけ知っている人にはそう見えている。
たとえばマラソンの会場で会う人たち。
交流して話していて前述の
「大丈夫ですか」「また痩せました?」「無理しないでくださいね」
そう言われることは皆無である。
良くも悪くもフィルターのかかっていない視線。

それとは別に謙虚な気持ち、人の意見に耳を傾ける姿勢。
私を思ってくれている人たちからのお叱りをちゃんと聞く。
自分の良くない部分、思い上がりや勘違いを改めることから逃げ回らない。
それらを忘れた回復なら、発病前の二十歳の自分に逆戻り。
つまりは真の病からの卒業にはならない。

いろいろあって。
やっぱり昨日も楽しかった。
やっぱり笑顔と感謝で締めくくれた。
やっぱり今の私は幸せなのだと思うよ。

これからどうなるかなんてわからない、今からわかるはずがない。
それでも、働くことを再開する、走り続ける、父を支え続ける、何より幸せ。
そんな今以降の自分の人生がイメージできる。
お日さまをタップリ浴びたシーツたちを見ながら。
そう、今、私は誰より幸せなのだぁ!

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