つげ義春さんに「蒸発」(つげ義春コレクション4)という作品がある。山井は古本屋の後家に取り入り毎日を無為に過ごしている男である。名前も先の亭主が山井一郎だったのに一を加えて山井二郎としているいい加減さだ。全く働かず病人のように寝ているが病気に無縁らしい。家族の中でも自己主張はせず性質は温順で怒ったのを見たことがないという。家族の食べ残しを食べ空気のような生活をしている。ただ、時々「どうせ私はいずれ帰るのだから」と口走る。伊那の高遠出身だから伊那に家族がいるのではないかと噂されている。そんな彼に私は「あなたは自分を役立たず無用の者として社会から捨てる蒸発しているようなものじゃありませんか」と言われる。あんたにだけは言われたくないセリフである。そんな山井がある日「漂白俳人井月(せいげつ)全集を私に渡す。そこから井上 井月の話になる。井月は伊那にふらりと現れる。学識も豊かで俳句も素晴らしい。いわゆる文化人である。村人に歓待される。だが段々と厄介者になっていく。酒が大好きで、酔えば千両千両が口癖である。村人は善光寺参りのついでに、井月を捨てる。だが井月は帰ってくる。そんな井月の姿に山井と私が重なる。筆者も重なる。綿入れをくれてやったのに井月は着ていない。「どうしたのか」と問うと、「乞食が寒そうにふるえていましたので、くれてやりました」と、こたえる。これは無私なんだろうか? 小林秀雄に「無私の精神」という話があるが、これとは全く違う。これは私を捨てているのだと思う。
落栗の 座を定めるや 窪留り
何処やらに 鶴(たず)の声きく かすみかな
つげさんはかすみの文字が小さくなっていく中に井月の後ろ姿を浮かび上がらせて作品は終わる。
落栗の 座を定めるや 窪留り
何処やらに 鶴(たず)の声きく かすみかな
つげさんはかすみの文字が小さくなっていく中に井月の後ろ姿を浮かび上がらせて作品は終わる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます