

しかし、それはより深いところに読者を誘うための作者の手管である。
それ以外の言葉がなかったのかもしれない。
もともと人間の美醜とは何だろう。
F*で語られる女性は語り手の「僕」にとって「性」を越えたところに存在している。
醜いことが、「彼女独自のダイナミズムを立ち上がらせるのだ」と「僕」は語る。
シューマンの「謝肉祭」で意見の一致した二人は、性も美醜も離れたところでお互いを理解する。
シューマンの「謝肉祭」を聴き、語ることでより深くシューマンの世界に降りていく。
仮面舞踏会の世界へ。

だが、何かしら分かる世界である。

昔は、三島由紀夫や安部公房、つげ義春をはじめ沢山いたのに。