創作日記&作品集

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歯槽膿漏

2016-06-13 10:34:19 | エッセイ
もうじき齢70である。下の歯は7本、上は2本しかない。それで、かろうじて総入れ歯を逃れている。
下の入れ歯の調子が悪くて、近所の歯医者に行った。
歯医者の先生は三女と同じ幼稚園に通っている子供がいたから、私と同じぐらいの歳であると思う。美男子で有名だったが、今はそれなりに老けた。月水土と週三日の診察である。
盛んに歯垢を取った後(その間自分の顔は引きつっていた)、無口な先生が
「歯槽膿漏ですね。このままやと、歯が抜けます」
 と言って、歯の磨き方を実際にやって教えてくれた。
「前からと後ろからと一日に一回ぐらいはきれいに洗うて下さい。せやないと、すぽっと抜けますよ」。
教材用に使った歯ブラシをもらって帰った。帰り道で自転車を漕ぎながら、「歯槽膿漏……」と呟いた。
昔、歯槽膿漏の人と親しくしていた。顔は覚えているのにどこの誰だったか思い出せない。
一日4回磨いた。出血も止んで目に見えて歯茎がきれいになった。
一週間後の予約日に行くと、
「きれいになってきましたね」
 と言って、二人で顔を合わせて笑った。今度は歯垢ブラシの使い方の実習をやって、歯垢ブラシを一本もらって帰った。
歯槽膿漏の人は依然思い出せない。仕事関係か、友達か、世間の非常に狭い男なのに、深い穴に消えてしまったように思い出せない。
ただ、あのかぐわしい香りだけが残っている。上手に顔をそむけていたせこい自分も。