京都歴史ミステリー (らくたび文庫) | |
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コトコト |
【本文からの抜粋】
延暦13(794)年、桓武天皇が造営した新都は、北の一条大路から南の九条大路までは約5.2km、東西の幅は約4.5km、中央には朱雀大路、南端には都の正門にあたる羅城門と官寺の東寺と西寺を配し、威容を誇った。
京都盆地が新都に選ばれた理由は、4つの方角を四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)が守る風水の「四神相応」に合致したことにある。神仏に守り固められた新都は、平安なることを願って「平安京」と名付けられ、以来、千年の都・京都として政治や文化の中心地となり華やかな歴史を積み重ねた。しかし、その名に反し、政争に敗れた荒ぶる魂が怨霊となって渦巻き、人びとの愛憎からさまざまな怪奇伝説も生まれていったのだった。
都に潜む数多のミステリーを紐解き、訊ね歩く旅は、京都の歴史を裏からも見つめ直す新しい旅になるだろう。
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京都のガイドブックって、大概がエリア別にまとまってるやないですか。「清水・祇園エリア」とか「京都駅周辺エリア」とか「二条城・御所エリア」ってやつです。
この本の内容には目新しいスポットや新説はないんですが、編集の新たな切り口として一条通から九条通までを通りごとに紹介してるんですわ。
たとえば鴨川沿いに走っている京阪電車に乗って京都までいって、その通りの東端から西へ歩けば、簡単に京都歴史ミステリースポットへ行けてしまえるんです!
全ページがカラーで、写真や図が豊富に掲載されているのもうれしいじゃないですか。
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形あるものはいつか滅びるとはいえ、羅城門とか聚楽第は見たかったなー。地震で倒壊した方広寺の大仏は奈良の大仏さんよりもデカかったというし……、どうして巨椋池を埋め立てちゃったんじゃー。
応仁の乱で一度焦土と化した京の都ですが、もし応仁の乱が起きてなかったら、21世紀の現代にもっと平安京の遺構や史料が現存してたんでしょうね。残念。
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桓武天皇は怨霊や厄災から都を守るためにさまざまな防御システムを構築しておりまして、その一つとして東西南北に4つの岩倉を設け、それぞれに平安楽土の祈願を込めた教典『一切経』を埋めたといわれております。
本書では「平安四岩倉」のことをさらりと書かれているのですが、調べてみると岩倉の場所は特定されているようなのです。
東の岩倉・・・観勝寺(左京区粟田口大日町・大日山(東岩倉山)にあったが応仁の乱で焼失)
西の岩倉・・・金蔵寺(西京区大原野石作町・現存)
南の岩倉・・・明王院不動寺(下京区石不動之町・現存)
北の岩倉・・・山住神社(左京区岩倉河原町・現存)
オイラが不思議に思うのは、条坊制のような四角四面な碁盤の目の都を造った桓武天皇にしては、四岩倉の位置関係があまりにも歪すぎるところなのであります。
さあ貴君も京都の地図に四岩倉の位置ポイントをうち、定規で北と南、東と西のポイント間にそれぞれ線を引き結んでみましょう。
ほらね、まったく十字にならないでしょ。
南の岩倉なんぞは平安京の内部にあるではないかいな! どーしてなんだ四岩倉?
東の岩倉の大日山は、日向大神宮付近にあるらしいので、機会があれば探検してみたいと思います。しかも近くには「日ノ岡一切経谷町」という町名まであるじゃないか。
ふ~む、まだまだ九条山エリアを探索せねばならないようだが……イノシシには会いたくないでござるよ。(>_<)
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