石橋みちひろのブログ

「つながって、ささえあう社会」の実現をめざす、民主党参議院議員「石橋みちひろ」の公式ブログです。

気仙沼市唐桑での行動で感じたこと(事務所だより)

2011-03-29 23:30:57 | 雑記


3月26~28日に実施した気仙沼市唐桑地区での被災地支援行動に同行しました。
少々、長くなりますが感想を書きますので、お付き合いください。



■被災地へ行く前の不安
私たちは、27日の早朝に気仙沼市内に入りました。
東京から気仙沼に向かうまでの暖房を切った車中、様々なことが頭に浮かび不安でした。
報道されている被災地の現状、そしてそこで私に何が出来るのか・・・。
現地近くまで行って2時間半ほど、エンジンを切った状態で車中泊しましたが、ほとんど眠れませんでした。
目を閉じても、足もとや肩などに、隙間から入る空気が冷たくて、丸まって毛布の中に体全体を収めても寒くて眠りにつくことが出来なかったのです。
灯油が手に入らず、電気も復旧していない中で生活している避難所の人たちの気持ちが少しだけ分かった気がしました。

■被災地で感じたこと
“情報が入らない生活はちょっとしたことで不安をおぼえることを実感”
 携帯電話もつながらない(バッテリー切れで知人の電話番号もわからない)、新聞もテレビもない環境…。
避難所から徒歩圏内でしか移動することのできない生活の中で多くの世帯が同じ屋根の下で生活する暮らし…。
パーテションなどの仕切りもない避難所での生活…。想像出来ますか?
避難所では他の避難所から身内を探しに来た被災者を何人も見かけました。
私たちは、新聞やインターネット上での避難者一覧で情報を得ることができますが、実際避難所にいる方はそれらの手段を断たれています。一番情報を必要としている方々がです。
ここに悲しい矛盾を感じるとともに、正しい情報の伝達・手段の必要性を感じました。
避難所の掲示板には市からの情報や安否情報などが張り出されていますが、自分でそれを見に行かなければなりません。
電気が復旧している避難所の方は、他の避難所にいる友人などに連絡をとり情報を収集できる安心感はありますが、一方でさまざまな情報が入り乱れていて、混乱している様子もうかがえました。
「○日から島行きの船が出ると聞いたが、ここではそんな情報はきていない。何が本当なのか…」。そんな言葉も耳にしました。
また、ある方は「身ひとつで逃げてきたので、メガネなどなくしてしまった。ここでは横になっているだけ」と話されました。
私も目が悪く、日常はコンタクトかメガネをしています。
現場の状況を見れば、コンタクトはできません。メガネもなければ、掲示板に書かれている文字をみる気力もないですし、人の顔もよく識別できません。一人で外を歩くのも怖いでしょう。これは、物資で早急に補えるものではありません。
現地で見聞きすることで改めて感じた出来事でした。
家族の安否もわからず心細い生活…、正しい情報をきちんと伝えることが、安心につながるのだと思います。


ある女性が「くつがない。家に取りに帰ったら破れていてこの一足しかなかった」と言われました。
「全国からくつだけでなく靴下や下着もたくさん送られています」と話したところ、少々、驚かれていました。
避難所の格差なくモノがないところにきちんと届くシステムも必要です。

“漁師・大工の知恵で簡易お風呂を設置”

訪れた中学校の校庭には、このような簡易お風呂がありました。
話をきけば、このあたりは水産業が盛んであり、漁師や船を扱う人、大工など多くいたため、協力しあって作ったとのこと。お湯をためているのは、ワカメを洗うためにつかっていたものだそうで、残っていたものを運んで設置したそうです。
お風呂につかることはできませんが、日中も雪がちらつくほどの寒さが続いているなか、
温かいお湯で顔や髪を洗うことができるようになっただけで、気持ちが違うと話していました。訪れた日も、赤ちゃんが入浴し、気持ち良さそうでした。
私たちは疲れた時、「お風呂につかりたい」と思うでしょう。帰京してお風呂につかりながら、あらためて、温かいお湯がどれだけ心と体の疲れをとることができるのかを感じました。

■被災地での行動を通じて学んだこと
“ボランティアとしての礼儀学ぶ。規則正しい生活を乱してはいけない”


各避難所では、7:45朝礼→8:00朝食→12:00昼食→16:00夕食など、規則正しい生活を送っています。
また、物資担当、食事担当、掃除担当などの任務分担もきちんとされていました。
私たちが手伝った昼食用ラーメンは屋外でつくり、体育館内へ運ぶ形式をとっていました。そのため、12時に昼食をとることができた人もいれば、13時の昼食になった方もいたわけです。
途中、食事担当の方から「ご苦労様です。ところで何時ぐらいまでになりますか?」と聞かれたことで私たちはハッと気づきました。
待っている方の気持ちになって考えると、作っている状況をみることができないわけですから、
「自分は何時に食べられるのだろう」「全員に行きとどくのかな。私の分までラーメンは残っているのかしら」
と不安になるのは当たり前です。前述したとおり、情報がきちんと伝わらない環境。
避難者を不安な気持ちにさせてしまい、大変申し訳なく思いました。
ボランティアで避難所へ入る場合は、その生活リズムを崩すことはいけないと感じました。

“たくさんの感謝の気持ちに涙”
 夕方、片づけをして、車に荷物を運んでいるときのこと。
「今日は寒い中、ありがとね。ずっと外で寒かったでしょう。こんな入れ物で悪いけれど…」と湯呑に入れたコーヒーの差し入れがありました。そのコーヒーも避難所の貴重な物資です。体も心もあたたまる出来事でした。
また、「ラーメン屋さん!お昼のラーメンあたたまったよ。これ持って帰りな。ここにあってもこの人数では食べきらんし、捨てるだけだから」と現地でとれたワカメをたくさん持ってきてくれました。しかも下ゆでまでしてくれて…。ラーメン屋さんご一行が「これでわかめラーメン作ろう!」と言って、大切に持って帰ってくれました。そういう温かいお気持ちにも感謝。
最後には、体育館で避難所の皆さんから大きな拍手が送られました。「あたたかいラーメンをありがとう」と。
寒さも吹き飛ぶ避難所の方々の気持ちの温かさにつつまれ、被災地を後にしました。

■被災地を後にするときに感じたこと

▲北海道から来た物資提供のトラックにはたくさんのメッセージが書かれていました(一部紹介)

帰りの車中、いろいろなことを考えました。地震や台風など自然災害が多いこの国では、私たちの誰もが被災者となる可能性があります。
今回の行動では、地域全体で取り組むことや、地域の人と人とのつながりや支えが重要であることも改めて感じました。
また、さまざまな職業の人たちが、いろいろな形でボランティア活動されている場面も目にしました。人の役に立ちたいと思っている人がたくさんいるのです。
ラーメン屋さんは最後に「みなさんだけにつらい思いをさせません。東京にも仲間がいることを忘れないでください。僕も東京で募金活動したり、このようなボランティアに参加したり、協力します」とメッセージを送りました。
まさにその通りです。地域の外にも、被災地を支援したいというボランティアが大勢いること、今後の再建・復興に向けては地域を問わずみんなで協力していかなければならないことを強く強く感じました。

被災地からの報告(その5)~気仙沼市唐桑に行ってきました

2011-03-29 23:28:55 | 活動レポート
しばらく、更新が滞っていました。その理由は言うまでもなく、大震災への対応で動き回っていたからです。それにしても、この1年半、忙しくてもほぼ毎日このブログを更新してきたわけですが、先週の金曜日あたりからの流れは、私にそのブログ更新をも後回しにさせるぐらいの動きだったのです。

被災地に入ってきました。

震災直後から被災地に支援活動に入りたいという思いは強かったのですが、数日前にも書いた通り、民主党も議員の被災地入りを原則、止めていましたので、なかなか入る機会がありませんでした。それが、24日から高速道路の通行規制が解除され、燃料の供給にも一定の改善が見られたこと、さらには救援物資の支援や現地活動への応援で議員の現地入りも解禁状態になったことで、入ろうと思えば入れるような状況になったのです。

そしてそのタイミングで、大変興味深いオファーが舞い込んできました。都内のあるラーメン屋さんが、「被災地の皆さんにぜひ、温かいラーメンを食べさせてあげたい」というのです。それをぜひ実現しようという話になり、同僚の安井美沙子参議院議員と連携して、そのラーメン屋さんの自主的な炊き出し支援を応援してあげよう、そしてその機会に、民主党の現地支援活動を実施しようという話がまとまったのでした。

訪問したのは、宮城県気仙沼市の唐桑地区のある避難所。今回の大震災で大きな被害を受けた気仙沼市の中でも、海よりの半島部にあり、沿岸部は壊滅的な被害を受けたところです。震災後も、気仙沼市全体が大きな被害を受けたためになかなか支援の手が回らず、避難所の皆さんも大変苦労をされながら避難生活を送っておられます。

出発は土曜日の午後8時。日曜日の早朝に現地入りしたいということで、かなり時間に余裕を持って東京を出発しました。現地までは約8時間の道のり。車を交代で運転しながらの行程でしたが、思いの外、高速道路は空いていて、順調に現地そば50キロ地点まで行くことができました。ここで約2時間半、仮眠をして、朝7時半頃に避難所に到着。別々に移動していたラーメン屋さん部隊と合流して、いよいよ準備の始まりです。

とは言え、炊き出しをするのはラーメン屋さん。われわれは間をつないであげただけ。準備の時間を使って、避難所役員の皆さんとの意見交換や、市街地の視察、現地の防災センターへの訪問、さらには避難所におられる避難住民の皆さんからのヒアリングなどの活動に出かけていきました。


(避難所の役員の皆さんとの意見交換)


(避難所の本部長さんとの意見交換)

いろいろと書きたいことはあるのですが、私が感じたことを以下にまとめて書き綴っておきます。

まず、今回の被災地支援活動を通じて、被災現場の状況は、写真や映像で見ていたものとは全く違うものであることを実感しました。目の前に広がる光景 ---- 津波で作られた広大な更地、その反対側に積み上がった膨大な瓦礫の山、津波の到達点によって分けられた明暗、避難所での集団生活の状況、自治体の災害対策現場の混乱など ---- は、まさに直接現地に足を踏み入れて見なければ、到底理解できないものだったのです。


(気仙沼市鹿折地区の様子)


(気仙沼市街沿岸部の様子)


(内海太・県会議員に説明を受けているところ)

すでに述べたように、気仙沼市は市街地が壊滅状態になった上、唐桑地区を含めた広範な沿岸地域が被災しています。そのため、市役所の行政機能が麻痺し、その立て直しにかなりの時間がかかった(かかっている)のです。市内の避難所数は約100カ所。その避難所の場所や避難住民の人数を把握するのにもかなりの時間を要し、救援物資の提供は未だにスムーズにいっていません。特に、唐桑地区など、市街地から離れた避難所への支援は遅れ気味であり、私たちが訪れた避難所では「支援も、情報も、物資も来ない」「置き去りにされている」「今後が不安だ」という声が渦巻いていました。

皆さんは驚かれるかも知れませんが、孤立した避難所では全く情報が入りません。テレビも、ラジオも、新聞も、電話もない世界を想像してみて下さい。何が起きたのか、何が起きているのかも分からず、ただ支援を待って助け合い、必死に生き延びてきたという状況だったのです。

唐桑地区のこの避難所には、避難後間もなく、米軍がヘリコプターで支援物資を大量に届けてくれたということで、米軍に対する感謝の声が上がっていました。その一方で、自衛隊は一度調査に来てくれただけでその後、一度も入ってきていないとの不満が。実は、自衛隊は気仙沼市中心部での活動に忙殺されているのですが、唐桑地区の皆さんは疎外感を感じておられるわけです。

今後、全ての避難所や被災住民をつなぐ「情報の共有システム」をきちんと整備し、被災地域の住民の皆さんに安心を与えることの重要性をあらためて感じました。その上で、被災者の皆さんがまずは安心して生活出来るよう、日々の生活に必要な救援物資の「定期的かつ安定的な搬送システム」が構築されなければなりません。また、唐桑地区では未だに「瓦礫の撤去と行方不明者の捜索支援」がほとんど手つかずで残っています。この点も、市役所との連携により、自衛隊や消防など、重機を使える部隊の支援活動が早急に必要です。

今回は、ラーメン屋さんによる炊き出し活動を応援したわけですが、その体験から大勢の避難民の皆さんに毎日確実に食事を提供することの大変さも実感しました。この避難所では、毎日当番を決め、届いた物資を活用して炊き出しを行っています。当初は一日2食、今は3食提供しているそうですが、メニューは簡素なものにならざるを得ず、量の面でも栄養面でも大きな課題があります。

今後、避難生活の長期化が必然となる中で、安定的な食事の確保が非常に重要な課題になることは間違いありません。

そして、避難所生活を送られている被災者の皆さんから話を伺う大変貴重な機会をいただきました。避難場所の仲間で足を踏み入れることに最初は抵抗があったのですが、むしろ避難されている皆さんから呼び込んでくれて、今回起こったこと、避難所生活の問題点、将来への不安など、多くの課題について生の声をいただきました。皆さんが過ごしておられる布団の上に私も座り込んで、一緒の毛布をかけて話し込んだのです。

いろいろな話をしました。しかし一番心に残っているのは、「いつまでも悲しんでいられない。生き残ったわれわれが、この後の人生を賭けて再建・復興しなければならない」という言葉でした。私がお話しした方々の多くが、奥さんや旦那さん、ご両親を失っている方々でした。しかし、しっかり生きていきたいという力強さを感じさせてくれたのです。もちろん、不安は大きいです。家はどうするのか、仕事はどうなるのか、町は再び立ち上がれるのか・・・いや、それでも生きていくんだ、という思いが感じられたのです。

私たち国会議員は、その被災者の皆さんの思いをしっかりと成就しなければいけません。時間はかかるでしょう。しかし出来ることは全部やる、党派を超え、国民の力を総結集して復興する、そういう気持ちで当たっていかなければならないと思っています。私自身、今この瞬間ほど、「つながって、ささえあう」ことの重要性を感じたことはありません。

国会議員の活動として、物資の輸送などの活動も重要でしょうが、被災者の皆さんのさまざまな声に直接耳を傾け、それを今後の国政の場での議論に活かすこと、それこそが私たちにしか出来ない重要な役割なのではないかと思います。今回、気仙沼や唐桑でいただいた皆さんの声は、必ず今後の国会での活動に生かしていきます。

最後に、今回のきっかけをつくってくれたラーメン屋さんに感謝しないといけないですね。なんと言っても、約250食をすべて自費で、材料も道具もすべて持参で、避難所には一切の迷惑をかけずに提供してくれたわけです。最後には、避難所の皆さんが大きな拍手と感謝の言葉をラーメン屋さんに贈っていました。「温かいラーメンをありがとう」と。協力した私たちも、少しばかりの「温もり」を運ぶことができたかなと嬉しく思っています。その場でお別れしたラーメン屋さん、今度食べ損ねたラーメンを都内のお店に食べにいってきます。

島根県安来の見事な大粒いちご「紅ほっぺ」(事務所だより)

2011-03-29 13:10:44 | 雑記



▲普通の大きさのいちごであれば、1パックに16~20粒は入りそう


まさか、議員の生まれ育った島根県安来にこのいちごがあったとは…。
「紅ほっぺ」といえば、静岡などが有名だそうです。
大粒いちごですが、中まで赤くておいしかったです。
もし、お店で見かけることがありましたら、食べてみてください。1粒で十分な大きさなのですが、ついつい、2粒、3粒と手が伸びてしまう美味さですよ。
いちごはビタミンCの宝庫! また、免疫力も高めるので、この時期、風邪の予防効果も期待できそう…。加えて、お肌に効果的と聞けば放っておけません。
早速、事務所でいただきました(笑)。