烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

反社会学講座

2007-07-13 21:54:18 | 本:社会

 『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ著、ちくま文庫)を読む。 
 3年前に発刊されたときに購入しようかと思いつつ、そのままになっていたが、文庫化されたのを機に購入した。表題どおり、”常識的”社会学に対するアンチテーゼであり、著者の主張は冒頭で提示されている。「社会学」という学問はいい加減な学問であると。その後に続く章はそれを論証するためのものである。いわく、少年の凶悪犯罪は増えてはいない。最もアブナイのは昭和35年の17歳である。パラサイトシングルは奨励されるべきである。日本人は昔から勤勉だったわけではない。子供が本を読まなくなっているわけではない。少子化で国家の存続が危うくなるわけではない。などなどいずれも挑発的である。

 著者が指摘する問題点としては、議論する概念が研究者によって違うこと、全体をカバーする範囲があまりにも広範にすぎ、互いの研究者が容易に議論できないこと、研究者が客観的な評価に自らの倫理的規範(これを「社会学的想像力」というのだそうだ)をこっそりと忍び込ませてしまうことなどをあげている。こういう議論を聞くと、自然科学とは異なり同じ研究者同士で開かれた議論がないのだろうかと怪訝に感じる。まあもとの研究対象の概念が研究者によって異なるとするとこれは致命的だろう。同じ現象を観察しているつもりが、隣の研究者はそれを別物として認識しているわけだから。これを好意的に解釈すると社会現象というものは非常に複雑で、あたかも群盲象をなでるがごときものであり、研究者が真摯に取り組んでもそうした結果になるということだろう。逆に悪意をもって解釈すると、社会学者というものは自分が見たいものを対象に押し付け、さらに悪いことには科学の仲間入りをしたいがために自然科学という衣を装わせているのだということになる。
 社会学というものがそのような営みであるならば、本書で述べられている”反”社会学的考察自体もその餌食となりうる。ごく狭い範囲に限られる社会集団内の現象であれば、仮説と検証によってお互いに議論することが可能であろうが、一般的に社会理論というのは、普遍化の欲望に憑かれているから、仮説の検証ということが困難である。これは学問的にはかなり深刻な事態なのであるが、門外漢として眺めると本書のように非常に面白い。これもまたたいへんな問題であろうか。