烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

スウィニー・トッド

2008-02-10 10:31:27 | 映画のこと
 『スウィニー・トッド』の公開が今週で終わるというので、遅まきながら映画館に足を運んだ。『チャーリーとチョコレート工場』の監督ティム・バートンとウィリー・ウォンカを演じたジョニー・デップのコンビということでも興味があった。
 もう鑑賞した人も多いことだからあらすじを含めてここで書いても問題はないだろう。彼の美しい妻に横恋慕した悪徳判事によって無実の罪を負わされ終身刑となった理髪師ベンジャミン・パーカーは、脱獄して十五年の年月を経て自分の街に帰ってくる。もちろん判事への復讐心に燃えて。彼はロンドン一まずいパイの店の女主人ミセス・ラヴェットの二階で床屋を開店することとした。ラヴェットから妻は砒素を飲んで自殺したと告げられ、益々復讐の誓いを堅くする。しかし彼が復讐を企てたその矢先、彼の過去を見抜いた理髪師ピレリから恐喝を受け、思わず殺害してしまう。死体の処理に窮した彼にラヴェットは、それをパイにつめる肉の原料として処分することを提案する。ここから二人の奇妙な生活が始まる。人肉パイ屋は繁盛し、トッドは判事が自分の店に訪れるよう画策する。
 おどろおどろしい猟奇的な犯罪を血しぶきが飛び交う生々しい映像とともに描写していくのだが、全編ミュージカル仕立てでくるんでいるところがまるで人肉をあたたかいパイ生地で包んだような出来上がりになっており、15歳以上であればおいしく召し上がれますといったところだろうか。
 しかし鑑賞して最も強く印象に残ったのは、猟奇的事件のことでもなければ、殺人の残忍な描写でもなく、資本主義というシステムの強靭さである。復讐心という実に私的な情念をも、肉詰めパイの生産過程へ組み込んで利用してしまうというところに感嘆した人はいないだろうか。これは羊頭狗肉ならぬ羊頭人肉という食品偽装事件でもあるのだが、トッドは食品偽装という意識はまったくなく、自らの復讐へ向けてまっしぐらに進んでいると思い込んでいる。しかし客観的にみると彼はせっせと毎日パイの原料の生産に励んでいる一労働者なのである。客の鬚を研ぎ澄ました銀の剃刀で芸術的手さばきで剃ること、これがパイを生産する店(一階)の二階すなわち上部構造で行われている。しかし彼は自分を支えている地下の人肉処理システムがどんなものかは全く知らない。女主人は言葉巧みに彼への愛を囁くが、夢見ているのは海岸での瀟洒な生活という上流階級への夢である。この大きなシステムの流れの中でトッドを見るとき、彼の妻と子への愛情の証明となるべき復讐心はどこか滑稽で哀れな様相を帯びてくる。映画の中で彼が歌い踊るとき、猟奇的な映画なのにどこか物悲しさと滑稽さが伝わってきてしまうのは、彼が実は踊らされていることに気づいていないことからくるのではないだろうか。
 古典的な復讐劇であれば、復讐者は彼を手助けする者と知恵を出し合い計画を立てて遂に悪漢どもに正義の刃を見舞い、目的を達するが自らも傷を負い死んでしまうというプロットであるが、そこに商品生産とその消費という奇妙だがそんな情念よりはずっと強靭でずっと長生きするシステムが介在する時、悲劇は喜劇と転化する。なぜ強靭で長生きなのか? それは、そうした悲喜劇自体をさらに商品にしてこの映画のように流通させさらなる消費を生み出すことができるからである。

脳は空より広いか

2008-02-06 19:48:53 | 本:自然科学

 『脳は空より広いか』(ジェラルド・M・エーデルマン著、冬樹純子訳、豊嶋良一監修、草思社刊)を読む。
 著者は抗体の化学構造に関する研究で1972年ノーベル医学・生理学賞を受賞した学者だが、その後脳科学やロボット工学にまで研究を広げたと巻末の解説にある。その著者が意識についての考え方をやさしく解説したのが本書である。原題の『Wider than th sky』は詩からの引用だという(このエミリ・ディキンスンという詩人については私は浅学で知らない)。ニューロンのシナプスの複雑な連結からなる脳組織は空いや宇宙よりも複雑で広大であるということを表わしている。
 利根川進博士も免疫学の研究から脳科学へと研究を広げていったが、免疫系と神経系という情報制御システムは共通したところがある。どちらも長い進化の過程によって現在の姿に至っているわけだが、エーデルマンは、これを「神経ダーウィニズム」または「神経細胞群選択説Theory of Neuronal Group Selection(TNGS)」と名づけている。著者は脳はコンピュータのアナロジーでは理解できないシステムだと主張する。脳は、外界からの情報に少しでもノイズが混ざっていると、それを消去するように処理して出力するようなものではなく、曖昧な情報に対して柔軟に対応しながら適応性のあるパターンをうみだしていくようなものだという。TNGSは、
 1.発生選択
 2.経験選択
 3.再入力
という三つの原理によって動く。外界からの感覚入力に対して適合するニューロン群のシナプス結合が選択的に強められていく。それは常に変化しながら動的な回路をつくり出している。こうした機能クラスターを彼は「ダイナミック・コア」と呼んでいる。この活動によって必然的に生まれるが「意識」だという。因果的な影響力をもつのは、神経細胞の活動であり、意識はそれに生まれる一つの特性であるという。クオリアを含め、そうした意識の特性を体験することが可能となるように進化した生物は、より他の個体と効率よくコミュニケーションできるはずで、そこに意識の存在意義があるというわけである。したがって神経活動はしながら、クオリアも感情もないようなゾンビは論理的に成立しないと主張する。進化という視点を考慮に入れて意識というものを説明していく著者の仮説はたいへん説得的だ。
 動的に神経組織をとらえる見方は、多様性、創造性を肯定し、個体の歴史的事象を単純に還元しないという姿勢と相性がいい。
 生物の進化という連続的な視点にたつと、言語を使って思考する人間を特権化する必要はないのではないかとも考えられる。確かに最終的には言語に翻訳して理解する必要があるのは確かだが、その基礎には神経細胞の選択的思考過程が働いているに違いない。文学作品を読むときに出会う目の覚めるような表現、思考の末に啓示のように降りてくるある種のひらめきなど、すべて言語で表現されることで理解をしているが、それを生み出した母体は「空より広い」のだ。神経科学領域にとどまらず、より広い分野への思考を刺激する本だと感じた。

 草思社が倒産したというニュースには驚いた。本書以外にもいい本を出版していた会社だけに残念なことだ。書店でこの本を見かけたとき、買っておかねばとすぐに手が伸びてしまった。


ラカンはこう読め!

2008-02-02 21:17:31 | 本:哲学

 『ラカンはこう読め!』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、紀伊国屋書店刊)を読む。
 ここしばらく体調不良と多忙のせいでほとんど”本らしい本”を読んでいない。久しぶりに書店に立ち寄り、ジジェクの新刊を購入した。今まで数多くのジジェクの著作は翻訳されているので、屋上屋を架す観がなきにしもあらずだが、簡潔にまとめられており、おさらいするには手ごろかと思われる。ラカンの思想を解説するにあたって、ジジェクが使う卑近な例は今までの著作の中のあちこちで使われているものである。
 ラカン理論の入門書という位置づけであるが、基本的公式を一つ一つ説明していくという入門とは異なり、さまざまな事象をラカン刀を使って腑分けをしてみせながら、「これってけっこう切れるでしょう?」と実演する形である。料理の作り方を基礎からまず説明してからではなく、実際に作りながら説明していく方が、説明される方は眠気を催すことはない。こういうやり方はプラクティカルでイギリスらしい感じがする。グランダ社が刊行している「How to read」シリーズの一冊ということだが、「How to use」という方が適切かもしれない。他の解説書もこんな感じなのだろうか。
 本書では「現実界」についてジジェクは頁を多く割いているので、後期ラカンに焦点を当てている。そしてラカンの説く<現実界>は、刺激的である。

 もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の<現実界>にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが<現実界>との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な<現実界>と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる<現実界>)に耐えられない人のために現実があるのだ。

 ラカンのいう<現実界>は、永遠に象徴化を擦り抜ける固定した超歴史的な「核心」という見かけよりも、ずっと複雑なカテゴリーだということである。それはドイツ観念論者イマヌエル・カントが「物自体」と呼んだもの、すなわちわれわれの知覚によって歪曲される前の、われわれから独立した、そこにあるがままの現実とはいっさい無関係である。


裁縫用品

2008-01-31 20:31:19 | ことばの標本箱

「一方通行路」から

犯罪者を殺害することは、倫理的でありうる。だが、それを正当化することは、決して倫理的ではありえない。

すべての人間を養うのが神であり、すべての人間を栄養不良にするのが国家というものである。 

 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)


眼鏡店

2008-01-31 20:28:46 | ことばの標本箱

「一方通行路」から

まなざしは、人間の残滓である。

  『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)