もう鑑賞した人も多いことだからあらすじを含めてここで書いても問題はないだろう。彼の美しい妻に横恋慕した悪徳判事によって無実の罪を負わされ終身刑となった理髪師ベンジャミン・パーカーは、脱獄して十五年の年月を経て自分の街に帰ってくる。もちろん判事への復讐心に燃えて。彼はロンドン一まずいパイの店の女主人ミセス・ラヴェットの二階で床屋を開店することとした。ラヴェットから妻は砒素を飲んで自殺したと告げられ、益々復讐の誓いを堅くする。しかし彼が復讐を企てたその矢先、彼の過去を見抜いた理髪師ピレリから恐喝を受け、思わず殺害してしまう。死体の処理に窮した彼にラヴェットは、それをパイにつめる肉の原料として処分することを提案する。ここから二人の奇妙な生活が始まる。人肉パイ屋は繁盛し、トッドは判事が自分の店に訪れるよう画策する。
おどろおどろしい猟奇的な犯罪を血しぶきが飛び交う生々しい映像とともに描写していくのだが、全編ミュージカル仕立てでくるんでいるところがまるで人肉をあたたかいパイ生地で包んだような出来上がりになっており、15歳以上であればおいしく召し上がれますといったところだろうか。
しかし鑑賞して最も強く印象に残ったのは、猟奇的事件のことでもなければ、殺人の残忍な描写でもなく、資本主義というシステムの強靭さである。復讐心という実に私的な情念をも、肉詰めパイの生産過程へ組み込んで利用してしまうというところに感嘆した人はいないだろうか。これは羊頭狗肉ならぬ羊頭人肉という食品偽装事件でもあるのだが、トッドは食品偽装という意識はまったくなく、自らの復讐へ向けてまっしぐらに進んでいると思い込んでいる。しかし客観的にみると彼はせっせと毎日パイの原料の生産に励んでいる一労働者なのである。客の鬚を研ぎ澄ました銀の剃刀で芸術的手さばきで剃ること、これがパイを生産する店(一階)の二階すなわち上部構造で行われている。しかし彼は自分を支えている地下の人肉処理システムがどんなものかは全く知らない。女主人は言葉巧みに彼への愛を囁くが、夢見ているのは海岸での瀟洒な生活という上流階級への夢である。この大きなシステムの流れの中でトッドを見るとき、彼の妻と子への愛情の証明となるべき復讐心はどこか滑稽で哀れな様相を帯びてくる。映画の中で彼が歌い踊るとき、猟奇的な映画なのにどこか物悲しさと滑稽さが伝わってきてしまうのは、彼が実は踊らされていることに気づいていないことからくるのではないだろうか。
古典的な復讐劇であれば、復讐者は彼を手助けする者と知恵を出し合い計画を立てて遂に悪漢どもに正義の刃を見舞い、目的を達するが自らも傷を負い死んでしまうというプロットであるが、そこに商品生産とその消費という奇妙だがそんな情念よりはずっと強靭でずっと長生きするシステムが介在する時、悲劇は喜劇と転化する。なぜ強靭で長生きなのか? それは、そうした悲喜劇自体をさらに商品にしてこの映画のように流通させさらなる消費を生み出すことができるからである。