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Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

今度が最後かな~

2012-04-15 21:59:54 | 日々のつぶやき

今晩外へ出ると、かすかに草の匂いが漂っていた。肌寒いが、もう草である。連休頃には、ミカンの花の匂いにむせるようになるだろう。

今週末にはノワタリさんが来られる。3度目であるが、もうこれが最後になるだろうと仰られていた。私もそう思う。さてお世話になった人たちの中で何人集まるだろうか?

でも、今回この時期になぜ私の住んでいる町なのか?

先日玉置神社へ行く話しになったが、その時「上からは言われないけど、行きたいわね。」と言われていたが、雲行きが怪しくなってきた。来月の予定だったが、行けるかどうか分からない。

先日も伊勢市の川にイナという魚がわいて川が黒くなったとか、二見が浦の夫婦岩が海水が引きすっぽり現われたと言うニュースがネット上に写真入りで出ていた。

「何か落ち付かない。みんな足が地に着かず、浮き足立っているようだ。」と、チエさんと話した事をノワタリさんに伝えると、「波動がおかしいですね。」と言われた。

先日、従兄弟のハルちゃんがノワタリさんちに来て、「何時もゴルフに行ったら、富士山の湧き水を飲むのが楽しみだったのに、今回飲んだら生暖かかったんだよ。おかしいな?」と、言ったと聞いた。

妹達も姪が休みが取れなかったので、二人で夜中出発してで夜通し走って来る予定だ。もう今回を逃したら、ノワタリさんには世の中が落ち着くまで逢えないような気がする。

9年前、お言葉通りに大山祇神社に来られた時以来、逢えなかったユキちゃんも心待ちにしている。

その時、私たち二人が頂いたオーラソーマのボトルは同じ色で上下が反対になっていた。

混ぜると同じ色になる。私達は表れ方は違っていても中身は同じ質なんだねと、互いに言ったが、今回集まった者はこれから天災に遭遇しても命だけは助かりそうな気がする。システィーナ礼拝堂で一緒になった人たちと同じように。

元々、このブログはノワタリさんとの旅の記録を残す為に書き始めたので、書いている私が何処の誰か知っているのは、ノワタリさんを除いて、妹と従姉妹のタカコちゃんくらいだと安心して、前回のような話しを書いた。

先日、Sから「どしたんだ!日記のような事を書いて。」と、ブログの事を教えて読んでいたのをうっかりしていた。

Sは、独自で言魂の事を調べたり、四国の神社、パワースポットを周って2,3年前に仕事をリタイヤして普段は憧れの晴耕雨読に近い生活をしている。

「神事の話しが出来るのはお前しかいないからな~、4回続けて更新したと思ったら日記のような話しで、お前きついの~。」と言う。先日、石鎚神社の御札と御神酒と手作りのケーキを持ってきてくれた時、父と話しをしたので、書いている内容の父と大分イメージが違うらしい。

しかし、それはもう30年も前なので大分好々爺になっている事と、激しく揉めたのは母であるから分からないだろうと思う。

もう一度、前回のような私的な話を書かなければ、前に進めないので目を瞑って無視して欲しいと思う。

 


お婆ちゃんの椿

2012-04-14 16:13:43 | 日々のつぶやき

昨日は香川県の境まで走った。もう私の街では桜はほとんど散ってしまったが、途中の玉川ダム湖畔は桜の満開、多くの人と車でいっぱいだと思ったら、「桜祭り」の開催中だった。

天気予報は夕方からと言っていたのにそれから1時間もしないうちに雨が降り出した。

他人事ながら、どうされただろうと気になった。

夕方近く、仕事を終え高速にのるとこちらもあちこちまだ桜が満開で所々にツツジの赤が混じっていた。楽しみながら帰ったが、今年は長い間桜を楽しむことが出来て良かった。

家では椿が次々咲き、つつじもあっという間に咲いた。

梅の清楚さも良いが、椿はバラに負けず劣らずゴージャスで好きだ。

椿の散り方も潔く大輪の花を咲かせた後は、すっぽりそのままの形で落ちて1日くらいはきれいなままである。

昔は、カスミソウの様な花が好きだった。しかし、それ自体では目立たず、他の花と合わせてからそれ自体も存在がはっきりしてくる。なぜ、そんな花が好きだったのだろう?今は樹の花が好きだ。

10本近く椿を植えている。それはほとんど親戚の亡くなったおばあちゃんにもらい、短く数本に分け、挿し木から育てたものだで、素敵な名前が付いているはずだが、全く知らない。図書館に行って調べようと思いながらずっとそのままである。

おばあちゃんは椿の鉢植えをたくさん育てていた。亡くなられた時、一鉢分けていただいたがその家に住む者も今はおらず、どうなっているかわからない。

子供の頃、従妹が縁側に落ちた時、おばあちゃんが走ってきたが「大丈夫?」と言って心配したのは従妹でなく、育てていた小さなサボテンの30個ほどの鉢植えだった。それは笑い話になっていた。

そのおばあちゃんは後1か月で100歳の誕生日を迎えるようになっていた。豪勢にそのお祝いをしようねと言っていたのに、出来なかった。

おばあちゃんは体の弱いおばさんの代わりに従妹達を育て、一家の主婦の役目を90歳過ぎまでした。

伯母が亡くなり、80過ぎの伯父とおばあちゃんで老人二人でも、独居老人ではないのでなんら公的な支援はなかった。お婆ちゃんも炊事する事が出来なくなり、昔その家でお手伝いさんをしていたおばさんが手伝いに来ていた。ヘルパーさんを伯母の時に一時雇ったが、布団のシーツの中から針が出てきたことがあったのでそれ以来止めた。

そのお婆ちゃんがなくなってから、本当に一人になっていた伯父も亡くなった。生前、伯父は平均寿命を生きたからいつお迎えが来てもいいと言っていた。

朝は近くのファミレスで、後は老人用の給食を取っていたが、「初めは良いが同じような献立なので厭きる。」と言っていた。そんなこともあり、母に頼まれて良く伯父の所におかずを届けていた。

前立腺が悪いと聞き、母はゴーヤ茶やゴーヤの輪切りの干したのを袋に入れて届けたが、8月の10日頃、とうとう手術となった。

入院した日、伯父の同級生が「わし、これから手術だ。」と言って目の前をストレッチャーで運ばれていった。もう一人も同じ病気だったが、伯父が入院している間に退院したて間無に亡くなられた。

伯父も9月の20日前に亡くなった。2か月足らずの間に3人とも亡くなってしまい、母はその病院の医者の手術のせいだと悔しがっていた。

葬式の夜、冷蔵庫を開けると、飲んでいないゴーヤ茶が水入れに数本と、戸棚からビニール袋に入ったままのゴーヤが出てきて、母は絶句した。一番頼りにしていた兄だったが、早く家族の元へ行く方が幸せだろうと言って母は自分を慰めた。

そういう形でだんだん空き家と更地が増え、バブルの頃250万した所が今は30万だと聞いた。

250万は異常だとは思うが、先日もお隣からの電話で覗いてみると「スカパーの時代劇チャンネルが映らない。」と言われ、直してから帰った。家の周辺も80歳前後の高齢者ばかり、自然と限界集落の道へまっしぐらだ。

 


実らない見合い話 フィリピンパブ

2012-04-11 11:53:11 | 日々のつぶやき

やっと解放されのびのびとしている頃、お友達のトシコさんの家で週末の土曜の夜、居酒屋の村さ来で飲む約束をしている時、何度かあったことある女性がやってきた。

私たちの話を聞いていたらしく、「あなた、そこでお見合いしなさいよ。紹介するから。」と声をかけ、半ば強引に決めてきた。

「いいえ、そのつもりはないので結構です。」と断ったが、相手はしつっこくさがらない。

仕事上の付き合いの人なのでトシコさんも困ってしまい。

「ね~え、私がちゃんと断るからOKして。」と言う。「断るってどんな風に?」

「相手が気に入らなかったら、私が対面に座るから合図して」と言う。

「合図って?」

「う~ん、そうね。テーブルの下でこっそり脚を蹴ると言うのはどう?」

そんな具合になり、しぶしぶすることになった。

土曜の夜、村さ来へ行き待っていると、3人がやって来た。打ち合わせ通りトシコさんが私の前に座ったと同時に彼女のポンと脚を蹴った。

目で合図して「早すぎる」と声を出さずに口で言われた。もうすでに私は帰りたい。なんで酒飲むはずが居酒屋で見合いなのよ。

見合いを成立させようと、トシコさんの知り合いは張り切っている。下心が見え見えで保険屋のおばさんと同じ臭いがする。

先方の男性の紹介が終わり、私の方の紹介をされた。その後どういう事が起きたかあまり記憶にないが、たぶん私が「ここへは飲みに来ただけで見合いなんかしたくない。」と、言ったのかもしれない。

その女性は私に「年の癖に紹介してもらえるだけでもアリガタイと思わないと」いうような事を言い、悪口雑言を浴びせ、出て行ったのだけ覚えている。

3人がその場に残り、男性は少し若い人だったがバツイチだった。

お尋ねしてもいいですかと断ってから、

「あの~、生き別れですか?死に別れですか?」と、ずけずけと臆面もなく尋ねると、「生き別れです。」と答えられた。

調子に乗り、聞き難い事をまた突っ込んで厚かましく聞いた。

「なぜ離婚したんですか?」

「彼女は結婚を利用して家を出たかっただけだったんです。」と言われた。

お嫁さんになられた人は実家で母親との仲が悪かったので、相手に対して何の愛情も無いまま嫁いだが、家を出るためのもので、芸能人張りのスピード離婚で出て行ったという。

「まあ~、お気の毒に。」と言ったものの、傷口の上にまた傷つけるような事をしてしまった。その人はとても暗い...。

たぶん、その人も私と同じように先程の人に強引に誘われたのであろうと思う。

そこに居てもしょうがないので、トシコさんと「また何処かへ行こう」と言って3人で外へ出た。

「僕も飲みに行きます。」と言って別れようとしたが、「何処で飲まれるんですか?」と尋ねた。

一瞬、躊躇ったようだったが「フィリピンパブの○○です。」と言われた。

私達二人は行った事がなかったので、「すみません。どんな所か見てみたいのですぐに帰りますので付いて行ってもよろしいでしょうか?」と言って、そこからそう遠くないその店へ行った。

薄暗い中まだ時間も早いので客は少なかった。楽器が隅にあり生バンドの演奏でもあるらしい。

ボックス席に座ると、3人の若いお姉ちゃんがやってきてすぐ水割りを作り、たどたどしい日本語が飛び交い「フルーツタノンデモイイデスカ」などと言い、次々と注文をしている。

フィリピンの男性もいて私達に接待しようとしたが「すぐに出るから、水割りはいらない。」と言って断った。

ソファーに深く腰掛けている男性が煙草を加えると、みんな一斉にライターの火を差し出し、暗闇にその人の顔がボォ~と浮かびあがった。先ほどの店での顔つきとは変わって放心しているような感じである。

見てはいけない物を見たような感じでその光景は寒々しく、付いてきたことを後悔した。すぐに『ありがとうございました。お先に失礼します。」と挨拶をして店を出た。

何とも言えない空しさと侘しさを感じながら、夜の街を歩いた。

日本人相手に言葉のキャッチボールをすることも出来ないのであろうか?それとも女性不信か?

まっすぐ帰る気も起らず、Kのレストランへ行ったが、夕飯を食べていないのにどっと疲れを感じ余り食欲は起らなかった。その晩、二人とも寝付けなかった。

 振り返れば、20回近くの見合いの中で最悪の事を書いた。

今まで読まれた方はあまりにも話の方向が違うので戸惑われたかもしれない。

しかし、私の中に有った傷を吐き出してしまう事で、消化しそれでまた、次の次元に行くことができると言われ、今回書いた。

よほど溜まっていたらしく、一気に書けた。

見合いを否定する訳ではない。私の友人たちもそれで結婚して幸せな生活を送っている人も多い。ただ、私の場合、私自身が悪いのか地場の影響か不幸な体験だった。

書きながら、自分がひどく単細胞で短気であることに気づかせられたと共に、かかわった人にご迷惑をかけてしまった。反省

 


実らない見合い話 「降りろ!」

2012-04-10 22:22:35 | 日々のつぶやき

意に副わない事を言われたり、されたりすると、押された力以上の力で跳ね返してしまう癖があり、何度か失敗をしてしてしまった。跳ね返ったボールは何処へ飛んでいくかも分からず、出てきた結果は予想外のこともあり、唖然とした結末を迎えることもある。でも、そんな事さえなければ、穏やかであると自分は思っている。

また、私の外見と中身のギャップが大きいので相手は面食らう事が多い。

車を止め「降りてください。」でなく「降りろ!」とキツイ語調で助手席に座っている見合い相手に叫んでいた。

口にした当人も普段使うことの無い言葉に荒い口調に内心びっくりした。Hの言う一番影響の強い前世の武将が現れたのか…。

そう言うと「僕はどうやって帰ればいいのでしょう?」と、聞いてきた。

「バス亭で停めますから、それから先は御自分でお帰りください。」とだけ、伝えた。公共の乗り物であれば、バスを降りて国鉄に乗り換え早くても2時間くらい掛かるであろう。

その言葉を発する直前、その人はその日で2回目の出会いにもかかわらず、

「僕の何処がいいのでしょう?」と陳腐な質問をすまして言った。

「無い!、そんもん無いわ!何の感情も持っていない。」と答えた。

このまま断らなければ結婚させられてしまうと内心どうするか考えあぐねていたのでこんな言葉が出てしまったのだろうと思う。

しかし、バス亭に停めたものの降りなかった。しばらくそこに居たが、強引に引きずり下ろす事も出来ず、無言のままその人の実家のある町まで走った。近くなると、方向を指示し、家の近くで下ろした。

30歳を越え、両親はもう私に養子を取る事を諦めた。そう決断した途端「嫁に行け!」である。それならば、自由にほっといて欲しかった。

夏に知り合いのお家で会ったものの、気が進まない。顔も見たくないので助手席に乗せ、自分の好きな音楽をかけ話をほとんどせず、「はい、いいえ」の返事のみして走った。

自分の事をせっせと話すが自慢話にしか聞こえない。しまり屋らしく、喉が渇いても缶コーヒーしか渡されない。まあ~、喫茶店で対面し無くて済むからこれでもいいかとも思った。

そのまま一度も連絡も取らなかったのに話は進み、普通ならその気の無いのを判じる筈なのに親は結納の日取りだ、結婚式の日取りだと相談し始めた。

そういう事を起こした夜、明日空港まで送るようにとまだ、強制をする。

うんざりして友達のノブちゃんにその日の顛末を話すと、私の気持ちに同調したもののゲラゲラ笑って「あんたんちは平行線よ。絶対交わらないわ~。」と言う。

その話をまた、父が聞いていたものだから、こっぴどく叱られ、翌日の事を諦めた。

でも、嫌なものは絶対に嫌!!、何時もの事だが私の気持ちを尊重してくれれば、何も騒ぎは起こらず、互いに嫌な気持ちにはならないのだが。

そういうノブちゃんも結納を自分ひとりで返しに行き、本来ならば倍返しのところそのままの金額で済ましてもらった事を言った。大変厳しかった体験であったと言う。

数年後、二人で知り合いのお店にお歌を歌いに行った所、その相手に出会ってしまった。私の顔見知りの人だった。狭い町である。

そうやって私の20歳から30半ばまで結婚話でもめ、憂鬱で悲惨であった。恋愛しても親は認めず、母の態度に向こうが逃げ腰になったりした。

親の態度が軟化したのは妹が嫁ぎ、初孫が産まれてからであった。

父が40近くなった私に「嫁にも行かず、年を取っていくのを見るのも辛い。」と、ポツッと言った。

父の気持ちは良く分かるが、「でも、いっていたら、『ただいま~』って言って、人数増えて帰ってるでしょうよ。」と言い返すと、

ため息をつくように「ああ~そうだ。○○さんちも、××さんちも、そうだな。今は多いな~」と自分に聞かせるように言った。

30歳過ぎに世話になった祈祷師は「家のある土地の事件もあり、色情が一番きついからね。みんな受けてたね。あんたはこの家を納める長男の役目があるから、嫁いでも先祖が引っ張って帰らすわよ。」と言った言葉に納得した。

30半ばからは仕事も忙しくなり、そんな話に振り回されることも無く自分らしく活きられ、楽しかった。

しかし、これで心の平穏な日々が続くかといえば、その期間はわずかで御神木の枠木のベッドを買った事もあり、次々とまた霊現象が起こり、不眠と冷えのぼせが始まり更年期障害に10年悩まされた。6歳上の友人のトシコさんが38歳で更年期になったと聞いたが、私もその年であった。

その頃始まった「深夜便」の放送と仲良くなり、好きなアンカーの日は不眠も苦痛ではなくなった。

いい加減疲れ果ててくじけそうになった頃、偶然図書館で借りた宮城谷昌光著の長い放浪生活の苦労の末60歳過ぎて覇者になる「重耳」の本に勇気付けられた。その後数年間、この作者の話ばかり読んだ。

そしてノワタリさんとの出会いとその旅で自分が本当に活きている楽しさを心の其処から実感し、それが私の探している物と思った。やっとそこで心の平穏を感じるようになった。

こんな経験をしたからこそ、この道に繋がったと言われた。これまで大変だったから、もう大丈夫よとも言われた。あり難い事である。

 


実らない見合い話

2012-04-09 22:25:37 | 日々のつぶやき

4月4日の朝「抜けたっ!」と、私が呟くとチエさんが「あ~、そうね」と相槌をうった。

「でも、天中殺ってどんなの?」と聞いてきた。

12年の中で2年間天に味方されない時であり、してはいけない事を説明していると「プラトニック以外の恋愛」と言った時、「え!それも」と言って絶句した。

「そしてその頃何があった?」と聞いてきた。

思い出すと、まだ一度も御祓いをしていない時なのでいろんな事が噴出しかけていた。そして何時も落ち着かず、心の置き場が無かった。

しかし、振り返れば普通の生活をしていてもお経や祝詞をあげなくとも在宅の尼さんか巫女となんら変わりは無い。

30年の天中殺は最近まで知らなかったが、土地の因縁か、数年前ローマへ行った時にノワタリさんから言われた2000年前の前世のネロ帝の参謀であったが牢で自殺した人物の影響ではと思っていた。

若い頃からあまり結婚願望は無かった。

50近くになった時、kが「お前、結婚せんのか?」と聞いてきた。

「うん、普段はいらんのよ。ただね、疲れた時、ごろニャんっと言って寄りかかれる人があればいいと思うのよ。」と答えると、「それ、男の感覚だ!」と言われた。

「ふ~ん、男か…?」

そんなであったが、長女と言う立場なので20歳の学生の頃急に家に帰る様に言われ、帰宅するとその晩相手の家に連れて行かれた。父の親しい友人の家であった。

それは夏の事であったが、忘れた頃の大学祭に相手はやって来た。

1時間ほど付き合ったが、「用があるとか」と言って、すぐに逃げ出したのでその気が無いと悟ったらしくそれは其処で終わった。

本格的になったのは卒業してからだった。

母が車の教習所で知り合った保険のおばさんが付いて離れなかった。

しかし、始めに持ってきた話は祖母の従姉妹が嫁いだ家の親戚だったので母が大乗り気だった。

友達が一人増えるくらいの軽い感覚で行ったのが大間違いで、意思表示をしなければあれよあれよと言う間に話は進められた。

会ったもののその気は無い。苦手なタイプで1m以内近寄るなと言いたかった。

断ってくれと言っても母は勧めようとする。

2度目に会った時、「すみません、1本下さい。」と言って、タバコをふかして帰った。

当然、大目玉である。でもこちらの目論見は外れ、口外しないから進めてくれと言う。

そしてそのおばさんは私が無愛想な事を注意した。

「コーヒーにお砂糖を入れてあげるとか、相手に気遣いをしないと」とか言う。

アホらしくて、ばかばかしくって聞いて居れなかった。

「絶対嫌だ!」ごね捲くり、9月に会ってから年内中もめた。

「出て行け!」と言われ、喜んでその気になり準備していると、

「世間体が悪いから、やはり居れ」と言う。

その後その人の弟さんと正月にと言う話が来たが、友人宅でお母さんに「ネコちゃん、見合いは無いの?」と聞かれ、「正月にあるけど、いいの断るから。」と言ったのが、先方さんに伝わり消滅した。

でもそういう事をして壊したので家では風当たりが強く、まるで罪人扱いであった。

その後もその保険のおばさんはいくつもの話を持ってきたが、母の気に入るのは無く会ってもすんなりと断ってくれたので安堵した。

その人もよく言うクリスマスケーキの例えのように26,7歳になると諦めたみたいであったが、留守中に、20以上の結婚写真を持ってきてどれだけ自分が世話をしたかと家族に見せた。

妹が笑いながら「あんた、居なくてよかったわよ。でもどれも割れ鍋に綴じ蓋よ。」と言ったが、その人達がどれだけカモられたかと思う。当人の保険、子供が出来れば子供に、そして先回りして家具屋、呉服屋、結婚式場と数えたらきりが無い。

そういう人であったので、当然家の方にも保険の勧誘があったが、自分の取り分の良い保険それもそれまで入っていた保険と同じ物に入らせていることが分かり、即刻全部解約、出入り禁止となった。バンザイ

それでも善意で知り合いやご近所、親戚が30半ばまで話を持ってきてくれたが、せっかくの休日なんでこんな事に費やさなければならないんだろうと思うと腹が立ってきた。

そんな心つもりでしぶしぶ行くので相手も迷惑な事である。

その気が無いので、親が断ってくれる場合は良いが、その話が進んでも一向に心を開かず、「はい」と「いいえ。」の返事のみ、遠距離であってもこちらからは電話も手紙も出さないので立ち消えになった。

とうとう親は怒り、「一体、どんな人ならいいのよ。」と聞いてきた。

「そんなん分からん。幾つか条件を書いて消去法で消していったら分かるかも?」

と答えると、益々怒り叱られた。もとよりそんなことをしても分かるはずの無い事を知っていたが。

相手の方は気の毒であったと思う。本当はよい方もいらしたと思うが、落ち着けるような感じの人には出会えなかった。いや、居たのかもしれないがこちらが閉ざしていたのだろう。