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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2008年7月ローマ

2011-05-29 12:15:52 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

5月に続き、7月は海の日の連休を利用してローマへ行った。

3月中にローマへ行く事をノワタリさんから誘われた。私は仕事があり、1週間以上休む訳にもいかず、外国旅行も余り好きではないので、これまで断る事が多かった。しかし、今回、是非私は行かなければならないと言われた。

安く付くパック旅行を調べたが最低でも、7泊8日プラス成田までの往復が2日で10日掛かってしまう為、初めてなのに無謀にも個人旅行となった。ローマとフィレンツェという事でそれでも4泊5日で7月21日の朝成田に帰国する予定で旅の予定を組んだ。

その年、今と同じように石油は高騰したが、4月中に手配したのでそれでもチャージ料金が付かず、少し安くなったがとホテルとで25万くらい払った様に思う。しかし、ユーロは7月には¥168になり、旅行中割高感を否めなかった。

また、従兄弟や周りの人間にローマの治安の悪さを聞かされ、引ったくりやすりに注意するよう散々聞かされた。

今回の目的地は、システィーナ礼拝堂、コロッセオ、そしてフィレンツェでダビデ像を見る事だった。

出発の前日最終便で上京し、その晩はノワタリさんの娘さんに取っていただいたエクセルホテル東急で2人で泊まり、を見ながら休んだ。とても広く快適な部屋だった。

で12時間余りのエコノミー席は結構きつい。アリタリア航空だったのでスタッフはみんなイタリア人で2度の食事とおやつが出たが、30代と思われる男性客室乗務員が大きな急須を持ち「オチャ、オチャ」と言いながら歩いていたのなんともおかしく二人とも「クス」と小さく笑ってしまった。

ノワタリさんの隣の70歳ぐらいの女性はイタリアが大好きで今回が3度目だと言われた。今夜はフィレンツェでそのほか、バローネでジュリエットの像を見て、ベニスで…とまるで夢見る乙女のように話された。しかし、1週間で80万の費用だと言うがそれでもエコノミーなのはよほどホテルでも良いのだろうか?そして付近の人の情報を受けてしまうノワタリさんは「う~!痛い」と小声で言いながら足をさすっていた。隣の女性は転んで打撲したそうであった。

機内のモニターにミンスクが現れた時やっとヨーロッパに近づいた。それから、ウイーンなどの聞き覚えのある町の名が出てきたら、イタリアに入ってきたら、陸地が見えてきた。ティルニア海側から空港に降りた。もう7時過ぎだと言うが、明るかった。

 ロービーを出ると、名前を書いたカードを持った出迎えのスタッフでいっぱいだった。バスにしようか鉄道にしようかとも思っていたが、疲れているのでタクシーにした。これが…

ノワタリさんのトランクをスッツと横からやって来てひっぱて行く男性が現れた。ヤバッと一瞬思ったが正規のタクシー乗り場の方へ向かって行くので止めるのをやめた。さっさと勝手にノワタリさんのトランクを載せようとするので料金を聞いた。「90ユーロ」だと言う。

相場の倍以上だ。高すぎるからやめようとしたが、後ろが使えているので仕方なく乗り込み交渉する事にした。

その運転手セダンだから高いのだと言って譲らない。「降りるから止めろ」と言うと、スピードを出し、左右に振り嫌がらせをした。

しかし、小型の1500くらいのだ。そうする内にメーターも動いていない事に気付いた。それを言うとメーターを動かしたが、設定がたぶん2だったと思う。通常運賃でなく、深夜料金か何かだと思う。また、それを言うと、料金表を提示し、間違っていないと言うが確かに設定が違うので又抗議した。すると頭の横で手を振り、クルクルパーのような表現をした。私も負けずに運転手シートの背もたれをボコボコと蹴飛ばし文句を言った。その間、ノワタリさんはオロオロされて「何かされたら、大変だかやめて~」と言われたが、やめずに背もたれを蹴り続けた。でも、やまとなでしこで~す。

やがて市内に入り、夕暮れの建造物が見えてくると、運転手は手を替え、建造物の案内をし始めたが、取り合わなかった。そうする内にテルミニ駅近くのホテルに着いた。メーターの料金(途中からだったが)がいくらかだったかは覚えていないが、小銭が無かったので50ユーロで支払うと、釣を貰うはずが運転手は20ユーロとすり替えて足らないと言う。何と悪党め!しかし、此処で金銭を支払う時は声に出してカウントしなければならないことを学んだ。

ホテルのマネージャーを呼ぶからと言うと、荷物を置いてさっさと逃げさった。とても悔しいと思ったが、大した金額でなかったので諦めた。ノワタリさんは「気をつけるようにとの警告ですよ。」と言われた。もう辺りは薄暗くなりかけていた。

ローマで宿は交通の便を考えて駅近くの2つ星ホテルにした。数百年たっただろうと思われる普通の古い建物だったが、チェックインして大きな鍵を貰った。エレベーターはあっても、一階と2階の階段の踊り場で止る為、2階まで自力で運ぶしかなく大して役立たたず、飲料用とお清めように2Lのペットボトルの水を数本とお塩を数袋入れているのでトランクはとても重い。

私達の部屋は階段横だった。鍵と同じように古く重たそうな木製のドアを開けると、カビ匂いがプンと鼻に付きこれもまずいなと思った。息を止め、奥まで二人でダッシュして走り窓を全部開けて呼吸した。入り口に向かって古いが新しいグリンのストライプ柄の長椅子が壁の前に置いてあり、部屋の真ん中に入り口と分けるようにバスルームがあった。バスタブが在る事に幾分ホッとした。しかし、きれいに掃除はしてあり、長いすとクローゼット以外の調度品は古いものではなかった。窓の外は中庭だったがその向こうも同じような別のホテルだった。たぶん、昔はアパートであっただろう。

ベッドルームは奥の窓際で、机の上には有ったが冷蔵庫は無い。バスルームと入り口の境に塩を盛った。

時差が7,8時間有る為、とても眠い。広いバスルームも清潔だがなんとなく寒気がするのと、誰かいるようで、そそくさと洗ってリラックスはできなかった。その晩、階段や廊下の足音をうつらうつら聞きながら寝た。

夜中の2時のなると、毎晩目が二人とも目が覚めた。それでも6時くらいまでは横になって過ごした。「居ますね。」とノワタリさんに言うと「え~、女の人が6人ほど、でもお役目で来てるからそう悪さはしないでしょうね。」

「そうですね、あの人たちの此処は住処で私達が侵入者かもしれませんね。」などと話したが、入り口付近に居てベッドの方には来なかった。

弟1日目は、バチカンへ行きシスティーナ礼拝堂へ行く予定だった。家を出る前日の夜、バチカン博物館に入るのに数時間並ばねばならず、その間スリに遭う事もまれでないと書いて有るのに気付き、あわてて夜中に現地の旅行社に案内を頼んだ。

駅近くで7時半集合だったが、朝の歩道の汚い事!その年どこかの大学生が落書きをして話題になったが、壁も落書きだらけだった。

半日の観光案内とバチカンの案内と言うコースで7時半出発のマイクロバスに日本人観光客が10人余り乗り込んだ。昨日のに居た人達ばかりだった。半日観光案内というがバチカンまでの片道の案内で終わった。しかし、炎天下の中2,3時間も待つ事を考えると時間も無いのでいいのかな。

 

バチカン美術館

全部周ると、1日掛かるくらい広いらしいが、それは目的では無いので、一部の美術館のコースを案内してもらった。一部屋一部屋づつ、展示物を案内してもらった。時代やテーマによって展示されている物が違ったりしていたが、そのうちに宗教画ばかりになったが、有名画家の絵でいろいろ説明はあったが信徒でない私達には余りピンと来ないし、覚えてもいないし、戦の絵など見たくは無い。立派な回廊も天井絵も権力の象徴でしかなく、キリストはそう言う事を望んではいないだろうと思う。

システィーナ礼拝堂の前で案内は終わり、解散となったのでそれぞれ自分のペースで周ることになった。

礼拝堂に入ると多くの人が立ったままだったり壁際の手すりに座ったりしてミケランジェロの最後の審判と天井いっぱいの旧約聖書の話をテーマにした絵が描かれていた。其処で私達はどの位いたのだろう。「ここで今居る人達は助かるわ。」とノワタリさんは何気なく言われた。

何も言わずずっと立って絵を眺めていたが、30分以上居たと思う。その間人の波は幾度も変った。その後、長い回廊を歩いて出てサンピエトロ寺院へ向かった。

其処には聖人または聖女と称された人の像や法王の墓があり、スウェーデンノクリスティナ女王の墓もあった。多くの人がいたが、信徒で無い私には興味はない。

広場を出て、近くの店で昼食にパスタを取った後、バス乗り場まで出かけた。通りには物乞いの女の人がいた。良く見ると、どちらかの手首から先がなかった。どうして?と思ったが、後で旧ユーゴスラビアの内戦だと気付いた。クロアチアの方から来ている人が多いと聞いた。やはり、大陸だ。

バス乗り場はあったが、チケットの自販機が壊れていて使えない。チケット売り場を探しているとサンタンジェロ条近くまで来てしまった。此処は昔牢獄であったと書いてあるので行きたくない。近くの案内所で教えてもらって、チケットを買い、テルミニ駅まで戻った。

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