秋田ぐらし akita life

日常のできごと、面白いこと、おいしいこと、いろいろ

イザベラ・バード 大館に泊まる

2017年05月27日 | 日記
 イザベラ・バード一行がたどりついた大館では、嵐で足止めをくった旅人で混雑していて、宿を探しまわる目にあう。警察官バードたちの後をついてまわり、間の悪いときに通行証を見せろと要求していらだたせる。つぎからつぎへとくたびれた足で回って、おおぜいの人にもまれて長い時間をかけて、ようやく見つかった宿では薄紙を貼った襖で仕切った部屋しか確保できなかった。ほぼ全員が男性の旅人が50人この宿にいて、大半が大声で話していて、それもわけのわからない田舎の方言なので、伊藤がいらいらしているとバードは書いている。 
 横浜生れの通訳の伊藤が秋田の大館の方言が理解しにくいのてイラついて、話している言葉が騒音に聞こえるのかもしれないが、滑車を使って井戸から水を汲む音が朝の四時半から夜の11時半まで続くことが最悪と書いている。さらに、夜はふた晩ともアルコールをのんでの騒々しいドンチャン騒ぎと芸者による演奏が騒音に加わったと書いている。しかし、フォローも忘れていない。もしもイギリスの大きなホテルの厨房から同じくらい近いところにいて、50人の英国人と紙製の仕切りだけて隔てられていたとしたなら、うるささは少なくとも三倍になったでしょうと宿の騒音を擁護している。 
 この宿で、通訳の伊藤は年取った鶏を手に入れる。「伊藤に起こされました。伊藤は老いた雌鶏をもっており、煮込めば柔らかくなるというのです」
 大舘で鶏といえば、比内地鶏を思い出すが、バードは比内地鶏の先祖の比内鶏を食べたのであろうか。バードは何度か睡眠を中断され警察官がわけのわからない理由で通行証の提示をもとめてきたりしたが、宿の男であろうか、一人の男がきて、障子の「のぞき穴」をすべてふさいくれたので、宿屋が混んでいても気にならなくなったようだ。伊藤孝博著『イザベラ・バード紀行』によると、江戸中期の大館には25軒の宿屋があったと記録されており、「明治期にもほぼそれぐらいあったとすれば、バード一行があちらこちらと宿泊所を探し回ったといのもうなずけます」とある。しかしながらバードの記述だけでは宿を特定できず、たぶん大町から田町あたりかけての宿であった可能性が高いとしている。候補としては「花岡旅館」「旅館 花岡勘兵衛」「斎藤旅館(商号マルイチ㊀)」「新斎藤旅館」などがあげられるとしている。いずれにしても、50人からの客をとめて、ドンチャン騒ぎで芸者も呼べる宿は相当に大きい宿であったであろうといえる。
大館はJR大館駅(奥羽腺)よりもJR東大館駅(花輪線=十和田八幡平四季彩ライン)のほうが、当時の中心であり大館駅は当時の中心街よりも離れている。バードたちが通った羽州街道も東大館駅の近くを通っていたので、大町、田町あたりに泊まったのであろう。
ちなみに大館市には「真田丸」でドラマになった真田幸村の墓がある。幸村は大阪夏の陣で死んだはずであるが、生存説があり、幸村の娘 御田媛が秋田亀田藩(佐竹家)に嫁いでいるので、それをたよって秋田(佐竹藩)にきたとされ、大館で信濃屋長左衛門として75歳まで生きたと言われ、嫡男の大助と共に眠る墓がある。


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イザベラ・バード小繋(能代市二ツ井小繋)から大館に向かう

2017年05月22日 | 日記
 小繋を早朝に出発して、イザベラ・バード一行は雨の中を進んでいくが、道は通行不能に近い状態で、雇った馬は5度も転び、バード持病の背中の痛みと疲労がひどく北海道へ向かう目的が挫折するのではないかと絶望に陥りかける。
バードにとってはこの地が未開の地であり、駕籠も乗り物もなく、荷馬が唯一の輸送手段であり、昨日の米代川を渡る際に自分の鞍をすててしまったので、荷馬用の荷鞍を利用するしかなく、その乗り心地といえば、先端がえらく角張っていて、乗り心地が悪く、その上に敷いてあるぐっしょり濡れているうえあらってもいない布団といい、円材、索具どれもがどうにも腹立たしい気分にさせる。馬はお尻をついて坂を下ることがあったり、上りのときは這うような姿勢になったり、とびあがったりするので、のっている人間はうしろにすべり、お尻がら投げ出されてしまいかねない具合である。
そんな中でも風景の美しさを書いている。すこし引用すると

  白いもやが晴れて樅の木立を頂いた山々が垣間見えると、どしゃぶりのなかでさえこのあたりは美しい地域でした。滑り落ちるように山道を下って出た深い谷間には、苔むした石、同じく苔に覆われた切り株、羊歯の絨毯、湿った芳香を放つピラミッド形の杉があり、灌木が多く見られ、広々とした水田、すざまじい洪水がありました。

と、雨の中でも風景をみる余裕が見られる。
バード一行は雨にぬれながらも、次の宿場、綴子(つづれこ)(北秋田市綴子)に到着するが、綴子の駅があまりにも汚くバードが雨のなかを通りに座って休んだと書いているが、綴子は羽州街道の宿場として津軽藩主の本陣が置かれた宿場町であり、バードが思うほどひどい場所とは思えない。30年ぶりの大雨で、通行止めであったりで、もしかしたら災害現場に押しかけてしまっていたのかもしれない。
綴子ではここから先橋がみんな流されてしまって、歩いて川をわたれそうな場所はないからこの先は1里しか行けないと言われるが、「わたしは馬を雇いました。そして英国人特有の強情さと馬子の意欲のおかげで、馬を荷なしでべつべつに小舟に乗せて早口川、岩瀬川、持田川の増水した流れを渡り、最後になじみ深い米代川の支流三本を歩いて越えたのでした。勢いの速い流れは泡を立てて人の肩と馬の荷を白くし、100人ほどの日本人が外国人の「狂気の沙汰」を眺めていました。」と、増水した川を歩いて渡ったのである。本当に「狂気の沙汰」であったであろうから、心配からか、興味本位か、驚愕からか100人の見物人を後に先に進む。それにしても、危機一髪の目にあった、米代川を「なじみ深い」と表現するあたり、全人未踏の東北を旅しようと意を決したイザベラ・バード肝の据わり方は並大抵のものではないと推察される。この先、美しいところにある古い町、川口(大館市川口)に泊まるべきだといわれるが、辿りつくと「なにもかにもかびが生えていて湿気で緑色になっており、そこかしこにある緑色と黒の溝から立ち込めている悪臭は、通りかかっただけでも強烈だったので、大館まで馬を進め」て大館に着く。


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イザベラ・バード危機一髪 切石~小繋米代川の渡り

2017年05月20日 | 日記
 イザベラ・バードの一行はしぶきを飛ばしながら水とぬかるみのなかを進み、飛根(秋田県能代市二ツ井町富根)にたどりつく。ここの人々は川が増水したため、渡し舟は止まっていると、一行を引き留めようとしたが、バードはこれまで誤った情報にしょっちゅう惑わされていたのでとどまることなく飛根で新しく馬を雇い、半ば強引にきれいな山腹を通る道を通るルートを進んで行く。ここで米代川を見下ろす場所を通過するとき、増水した米代川をまのあたりにして「水嵩をましたこのおおきな川は、海に近くなると、あたり一帯に広がってしまっていました」と描写している。
雨でずぶ濡れになりながら、急な山道を滑るように下り切石(秋田県能代市二ツ井町切石)にたどりつく。
切石では米代川の増水は川幅400ヤード(約366メートル)の幅に広がっていて、その様子をイザベラ・バードの『日本紀行』では、「抑えた怒号あげて水車を回す流れのように渦巻いており、土手には人馬が川をわたることを禁じる役所からの通達がありました。そしてわたしが考えをめぐらす暇もないうちに馬子は泥沼のなかの小島に荷物をおろし、山頂に上がってしまいました。日本政府ももう少し面倒見が悪ければいいのにと思ったことでした。」と書いている。飛根でやとった馬子もお上の通達があったのであれば、渡るのは不可能と判断したのであろう。渡れなければ用はないし、この雨の中さっさと切り上げる気持ちもよくわかる。まさにバード一行の行く手はとざされようとしていた。
そこへちらりと川を舟が下っていくのが見え向う岸にたどり着き人をおろした。ここぞとばかり伊藤と二人の男はこちら側から大声で呼びかけ、わめき、激しく手をふった。幸いなことに向う側から其れに応える声がした。船頭はこちらの岸に着くために激しい流れに逆らって向う側を半マイル(約800メートル)を棹で遡って、45分かけてこちら側にやってきた。彼等は小繋に帰るということがわかりこの舟に乗る。
切石から小繋までは2マイル半(約四キロ)しかない行程であるが、増水のため四時間近くかかって進む。
その行程はバードの『日本紀行』引用すると、
「その四時間の人々の懸命な働きぶりは、わたしがはじめて見るものでした。いまにも血管が切れるのではないか、腱がきれるのではないかとわたしははらはらし通しでした。だれもが全身の筋肉を震わせていました。川は実に手ごわく、深さが八フィート(約2.4メートル)から12フィート(約3.6メートル)であって、泥水の渦をいくつもつくってながれています。船頭が必至で棹を使っていると、まるで棹か背中が折れてしまいそうに思えるのに、舟はそのつど2、3分間震えながら歩みをびたりと止めてしまうことがよくありました。」「川のもっと上には水浸しになった森があり、そのなかに入ると、船頭たちは木を引っ張ってかなり楽をしましたが、森を出ると、またべつの川が米代川に合流していて、その分流れの速さは増し、水音はさらに激しくなりました。」
川の流れの速さ強さに船頭の満身の力でも舟が進まない様子が見て取れる。水びたしの森では流れもすこし緩和され、生えている木を引っ張ることによって、棹よりもより舟を進めることができたのであろう。
ここでバードたちは大変な事態に遭遇する。
はるか先の対岸側いく大きな屋形舟が見え、その舟は10人の船頭が必至で棹をつかっていたが、半マイル(800メートル)先を行く船が、流れに舵をとられ、くるりと向きをかえたかと思うと波にもまれながら自分たちののっている舟に向ってきた。自分たちの舟も操船がままならない状態で身動きがとれない中、近づいてくる屋形船にぶつかって自分たちの舟が木っ端みじんになることが懸念された。自分たちの舟に屋形船がどんどん近づき2フィート(約60センチ)と近づいたとき、大木の幹にぶつかって跳ねかえった。船頭たちは頭のない木の幹をつかんで大綱を巻きその綱に8人の船頭がぶら下がった、すると大綱がぷっつりときれて、7人が仰向けに落ち、船首にいたひとりも水中に投げ出されて姿がみえなくなってしまった。屋形船はふらふらと下にながされ大きな帆柱と帆桁が木に引っかかって急停止して、ようやく船をつなぎとめることができた。
映画の一シーンのような出来事であるが、バードたちはからくも危機一髪を脱出した。
このとき激流に落ちた船頭の一人のその後のことは書かかれていないが、「その夜どこかの家が希望をうしないました」とあり、安否については暗い見通しを抱いている。
目的地の小繋の船着き場に着くために流れを逆らって1マイル(約1.6キロ)上流までいって、いっきに川をわたって船着き場に着く。川幅400ヤード(約366メートル)以上になっていたと想像できるが、400ヤード(約366メートル)を渡るのに、1マイル(1.6キロ)三角関数でいうと角度77度、ほとんど流されたまま辿り着いたことになる。こんなとんでもない激流をかろうじて踏破して、「やが晴れてきて、黄昏がやってきて形のとても趣にとんだあたりの美しい景色があらわになりました。」と周りの景色の様子を書きとどめている。小繋ではさらに湿地を手探り状態ですすみ、ようやく宿へたどり着く。また土砂降りの雨がふり、宿の土間はくるぶしまでうまるぬかるみとかして、台所は屋根まで吹き抜けで、湿った薪をくべた炉は盛んに煙をあげていたが、一番奥の空間に立派な襖で大名の部屋がつくられると、バードは満足したい気分になったと書いている。危機一髪の川渡りをきりぬけようやくたどりついた宿に一安心したことであろう。しかし、雨はまだ降り続いている。
 ここ小繋でバードは教育についてふれている。
 またしてもイザベラ・バードの『日本紀行』から引用する。
「わたしは学校のない地域では子供たちは教育を受けないままになっていると思っていましたが、それはまちがいでした。小繋には、これまでわたしが休息を取ったほかのいくつかの村落もそうでしたが、主な住民が子供たちに勉強を教えてくれる若い男を確保し、ある者は衣服を、べつのある者は住まいと食事を提供します。それより貧しい人々は月謝をはらい、最も貧しい人々は無料で子供たちに教育をうけさせられるのです。これはとてもよくある習慣のようです。小繋では、宿のあるじが教師に部屋と食事を提供しており、30人の勉学熱心な子供たちが台所の一隅で授業を受けていました。」と書いている。現代において小学校、中学校の学力テストの成績が全国トップクラスの秋田県の教育土壌は明治のころからすでにつくられていたのであろうかと思われる記述である。
当時の小繋には旅館は複数あり、バードたちを泊めた、教師に部屋と食事を提供して子供たちの教育を支えていた宿あるじは不明であるが、伊藤孝博氏の『イザベラ・バード紀行』によると、高橋家であろうと推定している。高橋家は吉田松陰もとまったといわれ、松陰が書き残したものがあるといわれているそうである。嘉永5年(1851年)脱藩して東北へ旅立った吉田松陰は、水戸、会津、弘前を訪ねたが、弘前の道程で羽州街道を通り、小繋にとまったのであろうか、秋田県大館市の山内儀兵衛宅跡に吉田松陰先生遊歴記念碑があるそうである。


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イザベラ・バードの見た久保田(秋田)の今

2017年05月20日 | 日記
明治11(1878年)年秋田を訪ねたイザベラ・バードの見た久保田(秋田)は、140年近くのときを経て、現在はその面影もないが、イザベラ・バードが見た風景の今を訪ねてみた。
院内で出会った若い医師が教えた、洋食屋はたぶん「与階軒」であろうと思われる。場所は川反四丁目の旧検番の跡地にあったとされているが、このあたりがそうであろうか?検番跡地のいうからには芸者衆がいたのであろう。
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そして、若い医者が所属していた秋田病院は当時の住所は土手長町末町225かつては院長と6人の医師、6人の事務員、50人の医学生、100人の患者を収容していた大きな準洋風な二階建てで、奥行きのあるベランダがぐるりについていたと書かれている建物があったとされる場所の現在は華のゆ」の駐車場あたりであろう。
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イザベラ・バードが久保田でもっとも美しい建物の一つと賛美し、校長の青木保氏がイザベラ・バードと英語で話そうとした師範学校。現在は県立図書館やエリアなかいちの商業施設などがたっている。
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イザベラ・バードが雄物川から支流を遡って舟を進めた橋が多い緑色の細い川(旭川)は今は澄んで鯉が泳いでいる。
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また、イザベラ・バードは手織りの織物工場を訪ねている。
秋田県営機業場(旧砲館跡)180人、半分は女性が働いていた。
現在は病院などが立っている。
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久保田から北へ向かう途中、昨年2018年にユネスコ無形文化遺産に登録された土崎港曳山まつりにであう。イザベラ・バードが見た50フィート(約15メートル)の曳山は今はみられないが、今もたくさんの人を集める。
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イザベラ・バード 豊岡から小繋に向かう

2017年05月16日 | 日記
 イザベラ・バード一行の旅は豊岡から先、困難を極めた。
「豊岡からわたしたちはとても難儀な旅をしました。その日雨は絶え間なく降り、煙雨のなかでは地平にそびえる低い山々、松の生えた砂地、灌木、水のあふれた稲田以外、ほとんどなにも見えず、深さ1フィート[約30.5センチ]のぬかるみと化した道路に沿ってある村落が変化していくくらいのものでしたが、このあたりの人々の衣服はとくにぼろぼろで汚いものでした。」と書いてあるが、ここでも道中の悪い印象はバード自身が言うように「北部日本を旅するのは体力のある人にかぎられます。疲労は避けがたく、天候でそのひどさをさらに増します。わたしが土地土地から受けた印象もきっと天候に左右されているでしょう。灰色のもややどしゃぶりの雨に包まれた湿地にある村落は、同じ村落でも明るい陽光を浴びたときよりもはるかに快さが劣ります。」と、通過する村々の印象はまさにバードの体調と、天気の影響が印象を左右している。今、旅をしているバードは持病の背中の痛みと、30年ぶりの大雨の中で、ずぶ濡れである。この旅はイザベラ・バードにとってはものすごいダメージであったと思う。それが影響して悪いイメージをもってしまったのであろうと思う。そんな中、「美しい山腹にある士族(サムライ)の村檜山は例外で、立派な家屋はそれぞれ離れてたっており、美しい庭、大きな屋根のついた門、芝を植え石垣のある段地があって、閑静で快適そうなたたずまいでした。」と檜山の美しさをたたえている。
旅の途中、イザベラ・バードたちは、出会った子供たちに猿と猿回しにまちがえられたエピソードを書いている。
「ある村の大きな村のそばで、わたしたちは荷馬に乗った伊藤を先頭に馬で田んぼの字畦道を進んでいるとき、学校帰りの子供たちおおぜいに出会いました。子供たちはわたしのそばまで来ると悲鳴をあげながら向きを変えて逃げ出しました。なかには溝に飛び込んだ子供もいます。馬子が子供たちを追いかけ、いちばんうしろの男の子をつかまえてこちらへ引っ張りました。男の子が怖がってあばれるので、馬子は笑いました。男の子が言うには、伊藤が猿回しで、わたしが大猿、そしてベットの棒を舞台の足場だと思ったとのこと!」
と他から見るとコントのような場面であるが、子供たちは生まれてこの方、見たこともない欧米婦人に出会ったのだからその驚きようは大変なものであったであろう。
この後、イザベラ・バードの『日本紀行』には宿泊の記載がないものの、土崎港から虻川そして豊岡までの行程を鶴形にて書いたとあるので、宿泊の記載、宿や村の印象など一切書かれていないのだが、鶴形に泊まったものと思われる。バードが泊まったと思われる当時、鶴形は水陸交通の要所として栄えていて、舟宿、御番所などあり、旅人の宿泊は充分に可能な集落であった。


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