秋田ぐらし akita life

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イザベラ・バード 山形から秋田に向かう(金山から院内へ)

2017年05月07日 | 日記
北海道のアイヌ民族の風俗その他のそれまで西欧に伝えられていた情報を自分か現地で確認し、現状をより正確に報告するという目的のイザベラバードの旅は東京(江戸)を出発して、日光、会津を通って新潟までの旅は高橋克彦の『ジャーニーボーイ』(朝日新聞出版2013年)に冒険時代小説風に、通訳の伊藤との出会いも小説のエピソードとして描かれている。
バードのとったコースはこれまで西欧人がこれまで踏破したことのないルートであり、現地での人々出会いや風景、風俗を西欧社会に紹介する目的をもって手紙の形で綴ったものが本として出版されたものであるため、詳細な記述が明治11年の時代を蘇えさせることができるのだと思う。
さて、バードの旅は山形県金山を出発し、人力車夫1人、荷駄馬一頭で、羽州街道・森合峠を目指す。この道程は『イザベラ・バード紀行』(伊藤孝博著 無明舎出版 2010年刊)に詳しいので抜粋する。

  〇金山から院内へ
7月19日朝6時45分、前日食べた“鶏の効き目”で元気に早立ちしたバードたちは、荷駄馬1頭と人力車夫一人とともに、羽州街道・森合峠に向った。森合峠道は、バードが上台峠から眺めて「ピラミット形の山々」と表現した金山三峰のうち、薬師森(薬師山。436メートル)と中ノ森の間を通る。
金山から北上し秋田県の院内に至る羽州街道新ルートの「金山新道」は、明治13年(1880)4月に着工され、明治天皇巡幸に間に合うよう突貫工事で同年12月に完成した。
バードは、江戸期以来の険しい旧ルートを進んだのだった。森合峠道の途中には、振り返ると金山の町を一望できるポイントがある。きっとバードも振り返ったのではあるまいか。
 森合峠を過ぎた道は、これも難関の主寝坂峠(塩根峠)を越え、及位(真室川町)に下る。バードはここで休憩し、新たに馬一頭を調達。再び長い山道を進んだ。景色は美しかったが、途中で小雨が土砂降りに変わった。深い泥道を難儀して進み、山形・秋田県境の雄勝峠を越え、院内に下った。
 主寝坂峠の明治期の旧道には、頂上付近にKDDIの施設が、少し下に東北電力主寝坂無線中継所が、少し手前に建設省(現国土交通省)新庄工事事務所の雨量計がある。この旧道と、バードが実際歩いた道筋がどの程度重なっているのかは定かでない。
 雄勝峠は院内峠とも杉峠とも莅峠とも呼ばれた。これも相当の険路で案内なしに本来の旧道を辿るのはかなり難しいが、雄勝トンネル(国道13号)の秋田側出口の左手付近に出て、雄物川上流沿いに院内に下る。院内に入る羽州街道の旧ルートは現道より少し左手にズレており、踏み切りの手前1キロはどの区間はJR奥羽腺の線路で消滅した。明治の新道沿いに家並みが形成され「八丁新町」と呼ばれている。
 金山から院内までの15マイル(約24キロ)を進むのに、バードたちは15時間もかかった。勇んで早立ちしたにもかかわらず、院内に辿り着いたのは午後10時近くだったことになる。及位で休む前の段だが、「(道が険しくて)結局はほとんど全行程を歩かざるを得なかったばかりか、何度も車夫に手を貸さなければならなかった」(趣旨)ほどだったと書いているから、歩き旅の苦手なバードが険路と悪天候に大難儀した様子がうかがえよう。
「この癪にさわる遅れがなかったら、院内でなく湯沢に」泊まる予定だったとも記している。

 バード一行の通った峠道は現在においてたどろうとしても、新道が上書きされたりして、完全にトレースはできないと思われるが、可能なところは、追跡してみたいものである。