秋田ぐらし akita life

日常のできごと、面白いこと、おいしいこと、いろいろ

ヤートセ秋田2017

2017年06月26日 | 日記
ヤートセ秋田 2017 秋田に戻って3年目 気になっていたヤートセ秋田を始めて見ました。
なんでも今年は20回目とのこと、



秋田の人口減とかいろいろいわれていますが、まだまだ元気いっぱいで見ていて元気になります。
こちらは色々なチームの混成 コスプレが楽しそう



鳥海山麓 桑の木台湿原2017

2017年06月19日 | 日記
今年も桑の木台湿原にやってきました。
今年は道中いたるところで道路修復のための工事や、道路崩壊で通行止めがあります。
花立牧場公園の先にも警備員さんがいましたが、桑の木台の駐車場までは大丈夫ということで通過し暫く進んで駐車場にたどり着きました。
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人の記憶は曖昧なもので、立派な休憩所とトイレは去年はもっと年期がはいっていたような気がしていますが、とにかく今年は駐車場に立派な休憩所とトイレが建っていました。
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例によって、車を駐車してここから湿原まで歩きますが、途中の案内板の先に施錠された鉄格子のゲートがありますが、脇を通って林道に入ります。途中の熊出現情報がとても気になります。
暫く歩いて去年はシャトルバスの終点だった処に到着しました。今年はバスの時刻表がありません。もうシャトルバスは運行を終わったのでしょうか
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熊出没の看板を見ると周りが気になりますが、ところどころに携帯繋がりますの看板がある場所では少し安心しますが、しかし、携帯で熊を追い払うことはできません。にもかかわらす安心するのは携帯異存症なのではと気になります。
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いよいよ湿原の入口で設置してあるカウンターを押して湿原へと進みます。
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暫くブナの林を歩いて湿原が前の前に広がります。
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いい天気ですが、今日は気温が高く鳥海山の輪郭がはっきりしていません。また、山頂付近には雲がまとわりついていて絵になりませんね。
去年よりも少し時期が遅くなってからの訪問ですので、ツツジがもう終わりの状態でしたが、ワタスゲが存在を主張していました。


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今年の湿原のアプロ―チは数日前の結構な量の雨のせいで少しぬかるんでいるところがありましたが、木道が敷かれているせいで普通の靴で大丈夫でした。この湿原は本当に静かで鳥の声と虫の声とカエルの声があるばかり来年もまた訪れたい場所です。
 鳥海山麓を下ってお昼は「道の駅 にしめ」にある味処 日本海の名物ダブル丼1、080円をいただきました。
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ちなみにここでは食事を注文するとコーヒーがただで飲めます。
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イザベラ・バードが泊まった院内の今

2017年06月15日 | 日記


イザベラ・バードが山形から雄勝峠を越えて秋田へと向かう道を辿るべく雄勝峠の旧道を目指して雄勝トンネルと向かった。旧道は秋田から山形に向かうとトンネルの手前を左折するとあるらしいので、手前を左折してみると、工事車両が停まっていてしかも、柵があって通過不能であった。ならば山形側がらと思いトンネルを通過して山形及位から
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荒れた道を辿っていくと
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旧道のトンネルに到着
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しかし、ここは閉鎖されて通過不能であった。
結局、峠の雰囲気は味わうことができなかったが、また、トンネルを通って院内に戻り、峠をこえたバードたちが通過したであろう関所跡を撮影
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さて、イザベラ・バード一行が雄勝峠を越えて最初の秋田での宿、院内は昭和29年まで銀を採掘していた日本有数の銀山として栄えていた。江戸時代管理していた久保田藩の人口が一万程度だった時に山の人口は一万人を数えた時期もあるそうである。
その院内銀山の資料が展示されている院内銀山異人館がJR院内駅と併設した形で公開されている。
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350円の入館料を払って見学すると、院内銀山の紹介ビデオを18分視聴、その間お茶をだしていだきました。
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この院内銀山異人館から西方5.4㎞に当時繁栄していた銀山の遺跡として史跡院内銀山がある。

この院内銀山を舞台にした小説、高橋義夫著で、銀山仕置番の助川十兵衛を主人公にした『出羽院内銀山仕置帖』仕置番とは銀山奉行の配下で銀山に諸国がら流れこんでくる浪人や荒くれ者を取しまる役割で下代ともいう。銀山奉行の配下に数人おり、下代の配下に足軽30人がいる。この仕置番が院内銀山で起きる事件を解決していく時代劇であるが、島根の岩見銀山からきた人が登場したり、まさに全国有数の銀山に全国様々な場所から人々が集まってきた江戸時代の院内銀山の様子を伺うことが出来る。この出羽院内仕置帖にあとがきに

「院内銀山は秋田県雄勝郡雄勝町にあった。かつては全国有数の銀山として栄えた、現在では、奥羽腺院内駅の構内に異人館と名づけられた資料館があり、駅から四キロメートルほど離れた銀山川の川上に史跡がある。
 院内銀山の発見の時期については、慶長元年(1596)年に平鹿郡薄井村の七郎左衛門という人が発見したという伝承と慶長11(1606)年に関ヶ原の落ち武者山村兵衛がはっけんしたという[銀山記]の記述の二説がある。銀山跡には村山宗兵衛の墓があり、宗兵衛が秋田藩家老渋江内膳に山先と認められたのは事実である。銀山の発見は、いずれにしろ、四百年近い昔のことである。最盛期の慶長末期には、推定20トンの銀山高があり、人工一万人を超える大鉱山町となったといわれる。院内銀山は繁栄と衰退をくり返して、昭和29年まで採掘がつつけられた。近代になってからは、古河鉱業に払い下げられている。残務整理にあたった最後の従業員は、44名だったという。三百五十年のながい歴史をもつ鉱山だった」

と紹介されている。
さて、院内銀山異人館でいただいた地図をもとに現地を訪ねる
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門屋養安一族の墓
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繁栄のシンボル金山神社
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銀山の入抗口であった御幸抗(五番抗)
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異人館のスタッフに「熊が・・」と言われてたがそんなことはあるまいと思いながらも、私以外誰もいないのでびくつきながらの撮影であった。

また、西木正昭著の同じ院内銀山を舞台にした『養安先生 呼ばれ』という小説があって、これは実在した院内銀山のお抱え医師であり、銀山の経営にもかかわった門屋養安が主人公である。
門屋養安についはネットで検索すると

「門屋家は、四代にわたって銀山で医師を務め、治療範囲は銀山にとどまらず、湯沢町、及位(のぞき)(現山形県最上郡真室川町)、矢島(由利本荘市)方面にまで及んだ。特に疱瘡(ほうそう)予防のための種痘(しゅとう)に代々尽力した。
 初代養安(ようあん)は、寛政(かんせい)四年(1792)、新庄藩に生まれ、若くして院内銀山を訪れ、湯沢の柳玄碩(やなぎげんせき)について内科の医学を修め、阿仁、鷹巣町七日市を経て天保(てんぽう)元年(1830)頃、家族とともに再び院内銀山に移り住んだ。天保十一年(1840)には養安の提唱により、鉱夫の「よろけ」(珪肺(けいはい))予防対策のための療養所が藩によって建てられた。養安は医師として、また奉行側近として銀山経営にも携わるなど幅広く活躍し、明治6年(1873)に銀山町で没した。
 天保六年(1835)六月から明治2年(1869)までの35年間の日記『(門屋養安日記』)には、医療活動のほか銀山町の政治、経済、文化、民俗、庶民生活まで多彩な内容が記され、鉱山史研究においても貴重な資料となっている。」
となっている。

 この実在した養安を主人公にした小説には幕末から維新までの様子がいきいきと書かれている。
西木正明は秋田出身の作家で、小説の中でも秋田の売り込みをしている。少し抜粋すると

「三船屋惣右衛門もいささか日本人離れした体躯と風貌をしている。後に世界のミフネと呼ばれた映画俳優三船敏郎は、この三船屋惣右衛門の子孫である。ちなみに三船敏郎と組んで数多くの名作を送り出した映画監督の黒澤明も、同じ久保田藩の角館近郷豊川の出身だ」

とさり気なく織り込んでいる。なおWikipediaでも三船敏郎の父は三船家の次男と記載されていて、三船敏郎自身も父の実家に一時世話になったとされている。

 さて、イザベラ・バードは門屋養安が没した5年後に院内を訪れたのであるが、羽州街道と銀山は5キロほどはなれているので、イザベラ・バードはこの銀山の様子は書かれていないが、上院内、下院内に脚気が流行って、地元の医師のほか久保田の医学校から医師が応援で訪れていると書いている。地元の医師と書かれているのは門屋一族であった可能性が高い。門屋養安の子(養子)、孫も医師となっている。また、養安の子も孫も久保田の医学校出身であったので久保田の医学校との繋がりも深かったと思われる。したがって久保田からの医師の応援も当然であったであろう。
前にも書いたように、イザベラ・バード一行の院内における宿は確定されていないが、羽州街道の本陣であったあたりの現在の様子である。
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酒田ラーメンと山居倉庫

2017年06月06日 | 日記
秋田市が雨がつづいているので、気分転換に酒田ラーメンを食しに出かけます。酒田ラーメンは連休時に食べにいきましたが、その時は県民ショーで紹介されたように、山形県民はファミレスよりもラーメン屋が多いという話のまま、午後2時を過ぎても有名店の満月も花鳥風月もまだまだ店の前に行列がつづいていて、気の弱い私はあきらめてしまいました。今回は、酒田に着くと天気もよくて満月さんの前には行列もななかったのですが、店の周りの駐車場は満車です。
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少し離れた川沿いの駐車場が空いていたので、そこに車を止め、お店に向かうと、すんなり入店できました。店内は相変わらず満席ですが、カウンターの席を進められて着席、すぐに名物のワンタン麵を注文、最近は塩タンメンとか昔食べた頃よりもメニューが増えたようです。カウンターの向かいの調理場の皆さんはきびきびと動き、接客のスタッフの皆さんも無駄なくお客様に対応していて、混んでいる割にはあまり待つこともなくいただくことができました。頂いたラーメンの写真を撮ったつもりがデジカメの中には写真がありません??撮りそこなった模様。ですが、有名店ですのでネットで検索すれば私が撮った写真よりもいい写真が載っているので残念ながらここでは写真はありません。
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ラーメンを食した後は美しい鳥海山を見ながら、せっかくの酒田ですから駐車場のそばの川をたどって、山居倉庫を見学です。
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なかなかの貫禄のケヤキ並木や、黒板張りの倉庫はとても良い雰囲気を醸し出しています。
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昔の荷上場の後があります。
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中にはお土産屋さんやレストランがあって、古い倉庫をうまく生かして、天上が高く太い梁もインテリアの一部となっていてとてもかっこよくなっていました。あいにく満月のワンタンメンを頂いた後なのでレストランもお土産にも手がでませんでしたが、またゆっくり行きたいと思います。


イザベラ・バード 矢立峠を越える 大変な水害にあい落馬する

2017年06月02日 | 日記
 イザベラ・バードは白沢で日食があった13時間というもの、どしゃぶりがつついて、二日間宿に足止めをされていたが晴れてきそうだったので正午に馬二頭と馬子三人で白沢を出発する。
出発したときの白沢の景色を
 「景色は美しく、自然のままの谷があり、その上にはいくつもの横に伸びる尾根が下がってきており、鬱蒼としたピラミッド形の杉の林があって息をのむほど画趣に富んでいます。これこそ本当に日本の美観です。」と景色をたたえている。
 しかし、降り続いている雨のため、川を渡る瀬は深くて流れが速くなっているし、道と小さな橋はすべて流れ、根こそぎにされた樹木や丸太がぶつかって折れた木がバリケードのように積み重なったり、川の流れが変わってしまい、慎重に川を渡るために、一か所に半時間も待たされることになる。
5マイル(約8キロ)移動したところで、馬で通れなくなり、馬子が荷物をかついで、先を目指して進む。そしてもっと高くて鬱蒼とした尾根に近づくと、やがて新しい立派な道路にでる。この新しい立派な道路は現在の旧矢立峠旧道(明治新道)であると思われる。
 「馬車も充分に通れるだけの車幅があり、立派な橋をわたって峡谷をふたつ越えると、この道はみごとな森の奥へと入っていきました。それからいくつも連続する、勾配のゆるやかなすばらしいつづら折りを下って矢立峠をこえました。峠のてっぺんには砂岩の深い切通しに秋田県と青森県の県境を示す立派な碑がありました。」と秋田県を越え青森県へと進んでいった。このいい道路は4マイル(約6,4キロ)のみであり、この前後は粗末な馬道であるとも書いている。
 この矢立峠の景色を次のようにあらわしている。
「わたしは日本で見たほかのなによりもこの峠には感動しました。もう一度行けるなら、まぶしい青空のもとで見たいものです。この峠はブリューニック峠〔スイス〕の最も素晴らしい個所を彷彿とさせ、またロッキー山脈の峠のいくつかをいくぶん思い出させもしましたが、木々がこのふたつよりももっとすばらしのです。この峠は寂しく、荘重であり、鬱蒼としていて、厳かなのです。」と世界を旅したバードが峠のすばらしさ、特に木々を褒めたたえている。
 しかし、この荘厳な景色に佇んでいる最中に小降りだった雨がざあざあ降りにかわる。ここから碇ヶ関まで、またしても大変な行程をたどることになる。
「水の勢いよく流れる音がいたるところでしています。大木が他の木にぶつかりながら滑り落ちていきます。岩が割れ、木々を巻き添えにして転がり落ちています。川はみるみる水嵩を増しました。地震のようなうなりや轟音とともに山腹がはじけ、山の半分が堂々たる杉林もろとも突き出て、樹木はその根を張った土を道連れに真っ逆さま倒れ、川の流れを本来のコースから逸らしてしましました。」
「あの立派な新しい道路が数か所、いまわたしの目の前で、急に現れた奔流で切断されたり、土砂崩れでふさがったりしています。もう少しでは何百ヤードかにわたって一瞬のうちになくなってしまいさらに下の川に斜めに架かっていた立派な橋もそれといっしょに流出してしまいました。」と先ほどまでの荘厳な雰囲気が一瞬にして土砂崩れが発生して、大木が流され、立派な道路(明治新道)も寸断されてしまう様子を実況放送のように記述している。川を下っていくとさらに状況はひどいことになっていて、青森側から来た荷馬と馬子に出会い、秋田側からの馬と馬子を交代する。青森から来た馬子は腕がよく勇気があったが、急げば自分たち通ってきた村にたどり着けると先を急いだ。しかし、「わたしたちは人間は肩まで、馬は背まで水につかり、よろよろ川を渡りました、何度も何度も渡りました。」
「ちょうどそのとき、目に火花が散ったかと思うと、なんともことばに言い表せないものを感じ、のどが詰まって体を打ち、息ができなくなりました。やがて馬子と伊藤が三人がかりでわたしを溝から引き上げてくれ、わたしは急な山道を下っているときに馬が転んだのだと気づきました。わたしは馬の頭から滑り落ちたのです。」とバードは馬が転び落馬してしまう。
馬子は先を急いで走りながら馬はよろけながらまだ残っている橋を通って平川を渡って、碇ヶ関に入る。宿に入り落ち着いたところで増水した平川を見ていると、その後、渡った立派な橋も300本以上の流木が流れてきて、その流木が橋の橋脚に激突して残っていた橋も壊れ流されてしまう。
バードが通過した時期の秋田~青森は30年来の大雨であったことで、大変な苦労をしたわけだが、強烈な意思と、なにか肝が据わったとでも表現しえるような心境をもって旅をつづけて山形県から雄勝峠を通って秋田に入り、矢立峠を越えて青森県にと進んでここ碇ヶ関にたどり着いた。その後碇ヶ関から黒石、大釈迦、新城を経て青森から蒸気船にのって函館へと進み、北海道のアイヌ族を訪ねてイザベラ・バードの旅は続くが、秋田の旅が終ったところでその先は他県に譲ることに「秋田ぐらし」の私のブログは終わる。なお、青森には高畑美代子さんというイザベラ・バードの研究者がおられるようである。