光さし 条々(じょうじょう)として 麦青む
田は蘇(よみがえ)り 来たれ雲雀よ 夢蔡
写真の中央奥に、浅間嶺がかすかに見える。右隅は、榛名連山である。
格別の特徴があるわけではないが、関東北隅の早春の田園風景である。
この地方は、二毛作地帯である。
麦の生産量は、全国トップクラスである。
しかし、麦は、あくまでも、米の補完作物である。
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米は、生産者・農家の自由にならず、管理統制されていた。
律令制度から荘園主のもの、藩主・大名のものであった。
戦時中の「供出」管理も、そのうちへ入るであろう。
80歳の老人が、戦時中に母親が、ひそかに、子供には米のご飯を
食べさせてくれたと、感激して話していた。
彼の実家は、中程度の農家であったにもかかわらずである。
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いずれにしても、米は、収入源であった。
昭和30年のはじめ頃まで、麦飯が普通で、冬の夜は、”煮ぼうと。
夏は、付け麺であった。食べ物としては、米の消費は控える。、
この地方の青年男子は、うどんを打つことが出来た。
小麦粉の文化、うどん文化は、今日では繁盛して美しい物語だ。
そして、早春の麦畑が広がる田園は美しい。
しかし、そこには、米生産者の【哀史】が眠っているのである
麦萌えて 条々として 遠浅間 夢蔡
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