統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

北九州市 震災がれきその⑩百姓の次男が医者になった理由(ワケ)

2012-05-03 07:40:00 | 時事ニュース


昨年良くできた黒スイカとマクワウリの苗を今年も頑張って植えました。

出来レース最終バージョン とうとう北九州のがれき受け入れも現実的となりました。がれきの試験焼却という最期の出来レースも終わろうとしています。そういった中、ブログでがれきのことを書いても、アクセスが100にも届かず、がれきのトップページすらもアクセス解析で3位か4位に沈んでしまうと言う関心のなさです。私のブログを見た人は幸いです。かなり良いことを書いているつもりですが、軽く見られている嫌いがある印象と焦りから、上記のタイトルで違った角度から説明することにしました。結果的に場面によっては自慢のように聞こえる箇所がありますが、この放射性がれきに関して特別の見識と経験を持つ医師としての使命感と作戦からのことでお許し下さい。

 自給自足農園での生活私の子供の頃は自給自足で生活にお金を必要とすることがありませんでした。お金が無くても生きれます。自然の大地が有れば。お腹がすけばその辺の柿や枇杷の木に登り、お腹いっぱい食べ食事ともなれば川で釣ってきた魚の甘露煮か地鶏の卵を拾ってきて卵がけ御飯で食べました。時には山で仕掛けた罠で山鳥を取りその焼き鳥がとても美味しかったのを覚えています。芦屋の海も近くに有りましたが、多くは川から取れる沢ガニ(上海がにみたいに美味しい)、コイ、フナ、どんこ、ゲール、ナマズをとって食べました。ウナギはいなかったのでドジョウ汁や蒲焼きで栄養価の高いドジョウを食べていました。夕方は山羊から乳を搾るのが私の仕事で、牛乳はありませんでしたが毎日山羊の乳をたくさん飲んでいました。


農園の崩壊が始まるところがその極楽のような生活に大きな変化がやって来ました。豊富な川魚が取れていた川のコイやフナが全て白い腹を見せて死んでいたのです。大きな白い側腹部は曲がり、その頂点だけが白い島のようになって浮かんでいました。その姿は至る川至る処で見られました。ホリドール(別名パラチオン)という殺虫剤が導入され使用されるようになり、田や川の生物は死に絶えました。たとえ生き残った魚がいても、とてもそれを食べる気にはならない悲惨な状況でした。私の愛犬ドンもたまたま風で飛んできた農薬の袋に一瞬顔を入れてしまいました。私は慌てて袋を取りましたが、犬の顔は豚のように腫れてその1ヶ月後死にました。肥料になるようにミカンの木の下に埋めました。パラチオンは後に発ガン性が証明され現在日本では使用されていませんが、その頃2人若い農夫がガンにかかり死にました。その一人がわたしの父でした。

ガンの苦しみ45歳、発見されたときは既に進行スキルス胃癌(タレントの逸見氏がなった遺伝性のある難治ガン)でした。手術はしたものの転移が起こり、手術創はやがて開きそこからも食べたものが出てきていました。ガンが転移した皮膚は化膿し膿なのかガンなのか分からないような浸出液が出ていました。ガンの床においても死後の財産分けを要求する親戚がやってきたり、今さら「顔が青い、青すぎる」といって父の心を傷つける見舞い人が来たりして、父の心は穏やかでありませんでした。その上父は母に「親が死のうとしているのに子供達が2階で兄弟げんかをしている」と嘆き「お前が死んだら子供達が大変になるので身体に気をつけなさい」と母の健康を気遣ったとのことでした。

父の死やがてその時がやってきました。大牟田から2週間ほど看病の手伝いに来ていた祖母と母と私と兄が父の臨終の床の周りを囲んで今いました。母ではなく祖母が大粒の涙を流しながら「美佐夫さん頑張らんね!小さな子ば残してどぎゃんすっとね!」と絶叫しました。父の目はそれに答えるように天空を移ろい。やがて上方の一点で止まってしまいました。その時の光景は忘れられませんが、祖母のいっていたようにガン遺児としてのその後の苦しみはまだ9歳の私には理解できていませんでた。


菜の花ではありません。青汁の元祖ケールの花です。

菜の花畑に救われて母は父からいわれたように健康に対する意識が高まり、しばらく健康食品に熱心でした。その時カネミのライスオイルが健康によいと言うことで、私達はこの米油を毎日ケールの青汁に入れて飲んでいました。青汁にはビタミンAが多く、ビタミンAは脂溶性なのでこのライスオイルに溶け込みケールのビタミンAを吸収しやすくするという良いテクニックだったと思います。ところが値段が高く、丁度その時農園の菜の花が良く咲き菜種油がとても沢山取れました。結局同じ植物油なら、ただの菜種油をケールジュースに使うことにしました。その後数年して油症患者が多発しました。パイプに穴が開きそこからPCB(ダイオキシンを含む)が漏れたのです。私達親子は菜の花に救われたのです。自然が助けてくれたのです。

医師への道高校2年の時あるインスピレーションがやってきて医師になるかどうか考えざるを得なくなりました。私はこのお金のいらない農園が気に入っていましたので農学部に行くつもりでしたが、北九州市の大きな本屋に出かけて仕事の適性について書かれた本を読みました。そこには医師になる資格は1.博愛精神に満ちていること2.勉強好きなこと3.屈強な身体という3つの条件が書かれていました。「こりゃダメだ。3つとも無いわ!」と言うことですぐ諦めました。その次の年もう一度インスピレーションがやってきました。「今日は勉強せず、医者になるかどうか考えろ」と言うことでした。と言っても明日は学校への願書提出の最終日でしたので、一日中考えることにしました。私は自然は大好きですが人間が嫌いですから、医者になる勇気はとてもありませんでしたが、父の悲惨な死、パラチオンやカネミライスオイル事件などを体験し、いつまでも平和は続かないという人生に有る種の危機感を感いていました。医者になってもその厳しさから逃れることが出来るとは思わないが、幾ばくかの抵抗になるかなと思い。医学部に行くことを決意しました。翌日担任にその事をいうと「医学部など行けるわけがないだろ!お前はアホか!」等々さんざん罵倒されました。当時の教師は九大に自分のクラスから何人行かせることが出来るかが評価になっていましたので、マイナス1でも、担任はもうカンカンでした。と言っても願書は書き換えることが出来ません。当然覚悟していましたが結局浪人して1年後、学生運動で東大の医学部入試が無く600人の受験生が全国に散らばり厳しさを増し、希望の東京には行けませんでしたが山陰大学医学部に進むことが出来ました。

ガンは免疫大学時代のことを書くととても長くなりますので、簡単に延べたいと思います。そんな分けで医学部に入ったのですから、学生時代から病理学教室に入り込みガン組織を見たりマウスの免疫実験をさせてもらったりしていました。当時やはり産婦人科医から病理学に変わりガンの研究をしている風変わりな講師がいました。その先生の影響もあり、そこでは私はこれからのガン治療は免疫だと思い。夏休みや冬休みを利用して金沢大学の服部内科で血液学や和歌山県立耳鼻科でアレルギーの勉強をしたりしました。そして友人と話し合い彼は千葉大学多田富雄先生のところで血清免疫を私は九大細菌学の野本喜久夫先生のところで細胞性免疫を勉強してきて、お互いディスカッションして知識を共有していきました。ガンは自分の免疫力を無視しては治らないという結論に達していました。

抗ガン剤治療の矛盾もうみなさんも放射線科医の近藤氏や少数の医者が抗ガン剤に厳しい見解を持っていることをご存じでしょう。私も卒業後は多くの抗ガン剤を使いましたが、ガンの症例によっては延命は出来ることもありますが、多くは免疫力も完膚無きまで抗ガン剤で叩かれ苦しい死を迎えてしまいます。最後はガンで死んだのか副作用で死んだのか分からなくなるくらいです。ある抗ガン剤と放射線療法を専門とする婦人科の同僚に呼び出され「君は東洋医学をやっていると言う話しですが、妻がスキルス胃癌だが抗ガン剤は使いたくない。何か良いものはないか」と聞かれました。「余命3ヶ月という厳しさではいくら漢方でも期待できませんよ」と言いながら中国から漢方薬と免疫力を高める霊芝を輸入し使ったところ以後6年間元気で長生きしました。抗ガン剤もケースによっては使って悪いことはありませんが免疫強化療法はすべきです。でも多くの西洋医は漢方生薬を使うことは許しません。


30歳の時始めた農園スタッフ。トラクターはもう5台目位。

統合医療への道その後私は統合医療へ進むことになりますが、統合医療は端的に言って患者さんを身体と心と社会的環境ストレス、食などの自然医学から見ていく統合的治療アプローチです。西洋医学に反する代替医療ではありません。私は内科を一通り、心療内科と精神科、さらには産業医としての経験も長く積んでいます。勿論農業は幼いときからの自然農法の知識と30歳頃から郷里の荒野とかした農地を開墾しホリスティック医療実践の準備を始めました。

私の放射能における知識と経験ここはどうしてもがれき反対のためにアピールしないといけないところなので、自慢と取られてもしかたりません。以上のような努力の上に私の放射能についての知識と経験は特殊です。時間がありませんのでこれも誤解を恐れずはっきり言いますが、私は原発の電離放射線の特殊健診の経験もありますし、内分泌内科では長く放射性同位元素を使った仕事と研究をしていました。私の博士号も放射性同位元素を使った糖代謝の研究で、アメリカの一流紙にも載りました。以後複数の企業の産業医経験が長く、産業衛生学会や精神神経学会の指導医また労働衛生コンサルタントの国家資格もあります。そんな医者は日本で私しかいません。おまけに放射能温泉の発見者で、もう昔から放射線測定器を腰に巻きマイクロシーベルトは体感覚として知り尽くしています。しかし北橋市長に早くからメールをしていても私が20人の専門家に選ばれることも呼ばれることもありません。どうせ御用学者みたいなヒトが集まっているのではないでしょうか?出来レースですから。

今から農作業にいってきますからここで一端アップしますが、夜またアップします。終わりではありません。

御用学者の罪震災がれきに関しては原発事故前の安全基準が100ベクベル以下であったのが8000ベクレルまでOKになった。それでも日本学術会議の提言ではがれきが焼かれても周辺住民が受ける放射線被曝は自然放射線の10000分の1で健康被害無しという。本当ににそれで良いのでしょうか。御用学者は原発事故が起こるのも1億分の1とか1千万分の1といっていました。それが4つお釈迦で4乗ですから、トンデモナイ確立が現実となったわけですから、彼らの1万分の1とは相当危険であると言っているのと同じではないでしょうか。医療被曝やピカドンの外部被爆と内部被爆とはその障害において次元が違うほど異なります。外部被爆は一瞬ですが、内部被爆はほとんどが死ぬまで続きます。放射性同位元素は多数有り、口からはいるよりは空から降ってくるのがとても害が大きいのです。たとえばプルトニュウムは口から入ればヨードの10倍の害ですが呼吸器から入れば何万倍にもなります。がれきの放射線を核種別に正確に測ることは不可能です。またその害について提言すること自体おめでたい。

がれき焼却後最悪のシナリオ今日本のがれきの拡散焼却に最も反対しているのはアメリカ西海岸の女性達であろう。西海岸にプルトニュウムやウランが降ったからである。国内に放射性同位元素が降ったのは一瞬で長い時間は太平洋に降下した。しかし、マーク1もアメリカが輸出した欠陥品でもあるし、地震と津波による犠牲者も多いためまだ同情的である。しかしながら、がれきが焼却され再び太平洋に放射性物質が降下するとなると同情が非難と軽蔑に変わるかも知れない。今グリーンピースやシーセパードも静かにしているが「日本人は鯨を食べイルカを殺し、挙げ句の果ては放射性物質で海を汚す」と非難を始めるかも知れない。何年か後に、ががれき汚染による疾病の増加の原因が統計的手法で明らかになれば、日本の農産物、海産物は外国に売れなくなりTPPどころではなくなる。がれきは現地でコンクリートで埋め固めるべし。放射性同位元素は経口より経呼吸器が最も被害が大きくなる。

自分だけは大丈夫とみんな思っている昔英語の受験勉強で随筆集を訳していた。その中で記憶に残った一編がある。第二次世界大戦の兵士の手記の英文があった。「今ここに死に絶えた兵士達。彼らは皆自分が今日死ぬと思ってはいなかっただろう。この私も自分が明日死ぬとは思ってはいない。しかし私もこの死に絶えた兵士のように自分だけは死なないと思い込んでいるに過ぎないのだ」という一説であった。父の死やカネミライスオイル事件を通して、この言葉は私を納得させるものであった。みんなも「放射性同位元素はほんとの所よく知らない。しかし学者も安全といっているので多分大丈夫だろう。万一害があったとしても自分は大丈夫さ。」そうみんな考えているが、それは何の保証もない。

ガンは苦しく辛いです>みんなガンは怖いと思っているが本当の怖さが分かっていない。厳しい治療に絶えても、いつ再発するかという不安に勝てますか。転移が見つかったときのひどい落ち込みが分かりますか。さんざん抗ガン剤を打たれ、もう治療できませんと医師に言われ、余命宣告付きで病院を追われたときの絶望感が分かりますか。家族の苦しみやガン遺児の苦しみが分かりますか。ガンは予防が一番で最高の治療です。それでもあなたは8000ベクレル以下のがれきの焼き灰が空から降ってくるのを吸いますか。可能性が少しでもあれば避けるのが1番合理的な考え方でしょう。間違ったことにあらゆる理由付けをしても、波寄せる砂浜に「安全」という文字を書いて満足するようなものです。


私は「微量放射線は身体に良い」というホルミシス効果説ですここまで言うとみなさんは私を放射線に神経質な医者と考えるでしょう。しかしそうではありません。放射線障害の直線仮説とはどんな微量でも放射線は害があるという考え方。しきい仮説とはある程度微量になると全く害が無くなるという仮説。ホルミシス効果説というのはある程度微量になれば害が無いどころかガンにもならず寿命も延ばす効果があるという説です。ところがこのホルミシス効果はラドンなどの自然放射線やラジウムのガンマー線におけるもので、放射性同位元素には当てはまりません。ラドンはアルファ線でかなりきついものですが、風呂から上がり30分もすれば身体から全て抜け出てしまいます。軽いジョギングや日光浴みたいなものです。ですが、プルトニュウムは2万4千年の半減期で、肺に入ったら出てきません。ストロンチュウムは骨の構造に食い込みデトックスできません。ダイオキシンの方が科学構造物ですのでまだデトックスできます。ですから放射性同位元素によるガンは統合医療でも治りにくいのです。


1901年、これは官製八製鉄所が出来た年です。富国強兵の最中、日本の歴史的に地震のもっともない場所が選ばれて建てられました。先日その話しをタクシーの運転手にしたら、運転手が「天皇家の土地もあり、天皇家が日本の国の発展のために寄進した」と言っていましたが、それは無かったと思います。しかし北部九州は神宮皇后がいたところです。この溶鉱炉の上にある帆柱山は神宮皇后の軍艦の帆柱を取ったのを記念して名付けられました

不思議な都市、北九州今までは北九州市は運に恵まれていました。不謹慎ですが2度の原爆を避けることが出来ました。もし広島が曇りだったら北九州市へ落とすと決められていました。2個目は北九州市が目標でしたが、曇りで長崎の落とされました。でも今度こそ3度目の正直となりました。






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