統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

神功皇后伝説その④日本古代医学の原点

2015-09-23 11:40:44 | 九州王朝



若戸大橋の下にある神社で洞海湾のすぐそばにあることが分かります。




若松恵比寿神社に来ました。これも若松区に30年ばかり住んで初めて来ました。昔、恵比寿市場や大黒市場には良く来ていました。市場の名前がおめでたい名前で変わっているなと思っていました。今神功皇后がらみと知ってからはありうる名前です。


昔、遠賀川は遠賀潟であり海でした。洞海湾もドン詰まりではなく遠賀川に江川に沿って繋がっていました。昔は八幡区と若松区は別れており、若松は二島と言うところもあり、神功皇后が井戸の表面を鏡としてお化粧をしたという井戸もあります。八幡という地名はもろに(はちまん)であり、倭人すなわち海人の神様です。神功皇后の軍事拠点および住居は岡田宮辺りか、わが熊井温泉近くの神崎町かであったと思います。ここから、三韓征伐や熊襲征伐、征伐と言っても実際は戦略経済的互恵関係を構築したと言うほうが正確かもしれません。また瀬戸内海に入り近畿方面か山口から日本海を通り若狭湾から近江、滋賀に行っていたと思います。あるいは来ていたか。いずれにせよ神功皇后は長く北部九州にいました。




洞海湾を進行中、神功皇后の船が動かなくなったので、船頭を海底に潜らせたところ光る石を発見し、この地に祭らせる。そしてそこに若い松を植えたところから若松と呼ばれるようになりました。

今に及ぶ神功皇后の足跡神功皇后ほどこの日本の各地において伝承を持つ人はいません。母方を新羅に持つせいかそれとも戦後の反省からか神功皇后は天皇の系列からはずされました。架空の人物と言う人がいますが、それでは私のすんでいる若松や熊井温泉近くの神崎神社も無い事になってしまいます。先日行った佐賀の嬉野温泉も無い事になります。嬉野温泉に神功皇后が入って「あなうれしいのう」と言ったことから嬉の温泉と呼ばれるようになりました。神功皇后を無き者にして今の日本はありません。4世紀後半神功皇后は日本においてまるでキリストが現れたような絶大な人気があったと考えられます。私はそれは武人ではなく救世主のようなものだったと思います。

神功皇后と石神功皇后には石に関する話がとても多くあります。

月延石や鎮懐石:お腹に石を3個さらしで巻き、出産を遅らせたとされる

馬蹄石(ばていいし):神功皇后が乗った馬のひずめの跡のついた石

腰掛石:神功皇后が腰掛けた石はすぐ祭られる山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎などに3000箇所以上

東風石:壱岐の島で船を走らせる追い風が吹くように祈願すると、祈りが通じて割れた石

光り輝く玉の霊石:仲哀天皇の熊襲親征に従った神功皇后は洞海湾を進んだ。船が進まなくなったので漁夫に命じ海底を調べると、光る石を見つけた。この石は神功皇后を守る霊石とした

腰掛石:神功皇后はこの石の上で「あな、わびし」と言った事から
わびしがたびしとなって旅石と言われている

その他
神功皇后の馬蹄石や神功皇后が髪をといた髪櫛石
三石神社:神功皇后が朝鮮遠征の帰りに和田岬の田の中に三個の石を置いて祈り広田、生田、長田の三神を祭った。さらにそこで安産や健康を祈願した。


水と石との関係今「水が変われば人生が変わる」と言う本を書こうとしています。水はエネルギーを貯めることができ、情報を記憶することができます。私達の体は60%が水でできています。その水のエネルギーや情報のよしあしで病気や健康が決まるのです。しかし神功皇后のことを考えていると、今や私は石に強い関心があります。熊井温泉の地下には花崗岩があり、県下一のラドン温泉なので花崗岩の中にはラジウムを多く含みます。マサ土すなわち赤土は花崗岩が風化して鉄分が残ったものです。花崗岩はさまざまなミネラルを含みラジウム放射線、自らは崩壊しラドンとなり地下水に溶けアルファ線(高エネルギー電離放射線)を出します。花崗岩はさらに4~14マイクロの生育光線と言われる遠赤外線を出しています。鉄分を含みわずか磁力線もあり、その岩石の亀裂を地球の重力によるエネルギーで地下水がすごい勢いで流れています。地下水は磁力線、放射線そして遠赤外線を受けます。そして結果的にあらゆる自然の力を記憶した高エネルギーの地下水となるのです。ラドン温泉といえば皆、放射性希ガスとしてのラドンのホルミシス効果のことを言いますが、酸化還元電位も低くエネルギーが高く人体に活力を与えてくれるのです。ですから水が変われば運命が変わるのです。しかしながら、その主な源は実は岩石であると言うことです。




温泉水の方お花は早く咲き始めて遅く残る。そして匂いも色も強い




温泉水にいれた釘は何時まで経っても錆びない


本日驚いたことに何んと10年近く経っても変わらず、しかも蓋まで錆びていない!


表層に出ているラジウム花崗岩。地下にはもっと強いのがあると考えられます。

宇宙は波動でできている。すべての物質にはエネルギーがあり振動数があります。また情報を伝達する性質もあります。心療内科的に言えば「心身一如」宗教的に言えば「色心不二」、量子力学で言えば「MC2」です。見える世界と見えない世界。分子より細かい原子や素粒子、素粒子よりさらに細かくなると紐になります。ヒモ理論は弦です。弦は音です。神事の神楽は巫女にあの世への道を誘導する方法です。音楽と色は振動数を代表するものです。これらを使うことにより肉体以外の世界に通じることができるのです。

急用にて・・・つづく


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高橋信次(その③メシアの主治医)祝!!10万アクセスPV22万

2015-09-12 00:11:54 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)

信次先生入門上級編、左が宇宙と魂の仕組み、右が悟りの方法(心のあり方)が書かれた本です。なくしたらもう手に入らないと思います


ブルーベリーの甘酸っぱい味は、寂しい秋の始まりを感じさせます








今年はブルーベリーが豊作でした。ブルベリージャムを作って、蜂の巣ケーキ(子供がアトピーだった頃、ケーキが食べられないので、そのために作っていたケーキ)にこれをつけると最高に美味しい

東京から鳥取へ信次先生に3月に研修会があるから参加しませんかと誘われましたが、大学の医局人事で出向病院に行かなくてはならなかったので参加することができませんでした。そこは恐怖の病院で1ヶ月の間に受け持ち患者が二桁死亡するという病院でした。医師になって2年目に入ったばかりの私には、心理的には宗教の研修会どころではありませんでした。

死亡患者ゼロ外来患者は昼の3時まで、病棟勤務は10時までの厳しい職場、お金が無くて腎透析ができない患者に腹膜透析で夜12時過ぎまでお腹に水を出し入れ、夜中に交通事故の縫合を3時間というときもありました。夜間救急では医師も救急隊員も区別なく診察し入院のときは、自ら患者を担架に乗せて運ぶ、細い山道や田んぼ道を下るときは腕がしびれて患者を落とすのではないかというくらいのきつさでした。そんな状況でしたが何んと死亡ゼロで任務が過ぎました。

 前任の友人が出張を怖がる私を見て「お前はいい。がり勉で勉強しているから。俺は勉強しなかったので大変だった」と慰めてくれましたが、確かに良く勉強していたのは良かったと思いました。高橋信次のパワーアップもあったかもしれませんが、宗教活動よりやはり今はしっかりとした医学研修をするべきと思いました。人の命が懸かっているので、実際それどころではありませんでした。


メシア高橋信次死すしかしながら、病院から解放されて安心するや、また東京へ行くことを考え東京のGLAの友人に電話しました。「え!お前知らないの!!信次先生なくなったよ!」一瞬時が止まりましたが、信次先生は自分自身のずっと前からの予言どおりに、やはり48歳で亡くなったのです。私が会った死亡する2ヶ月ほど前のときは、私に八起きビル2階のテナント病院の医師になりなさいと言われていたので、まさか死亡するとは思っていませんでした。顔色が良く肌ツヤがとても綺麗に見えたのは、今から考えるに彼の肉体ではなく光子体を見ていたのかもしれません。

万歳三唱私は電話が終わった後、官舎の外にでて夜空を見つめ山に向かって、「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」と大きな声で万歳三唱しました。私は彼の死を悼むというよりは、彼が亡くなる前のしかも入院していたときのたまたま外泊時に2日にかけて個人指導を受ける幸運に恵まれたのです。早く信次先生に会いなさいという霊友の言葉を聴きながらも長く彼に会うのを遠慮していた私にとっては、本当にぎりぎりセーフという感じだっのです。自分自身にとってはまさに万歳物の出来事だったのです。

 ガンで早く死んだ父もそうでしたが、祖父母が敬虔なクリスチャンで家には聖書関係の書類が多くありました。私も聖書は一通り読みましたが、イエスの奇跡を私自身の目で確かめないと聖書に書かれてあることは信じられないというのが実感でした。しかし信次先生の文証、理証、現証と彼自身との奇跡の遭遇から全身全霊を持って、見えない世界がありそれが本当の世界であることを確信したのです。私の人生は大きく変容し、ある面そこで終わったのです。


下のユーチューブの講演は多分なくなられる前の熊本の講演ではないかと思いますが、これを聞くと信次先生の医学に深い思いが生じたことが分かります。



メシアの主治医信次先生がなくなって東京に行ったときに、私の話を聞いた信次先生を診ていた療術師が、一緒に信次先生の自宅に行こうと言い出しました。私達は霊前に供えようと浅草のりを買い自宅を訪れました。奥様が対応されましたが、そこには信次先生の面影もなく、さすが信次先生がなくなったようには感じられないさばさばした感じでした。

 療術師が「旅に出ようと思います」と言うと「出られたらよいと思います」という返事でした。私の「信次先生は自分の関係した病院を紹介する言われていましたが、その病院をご存じないですか」と聞くと「私には知りません」という返事でした。二人とも信次先生にお参りすることもなくおいとまし帰りました。お互い話しませんでしたが、思いは同じでした。心の中で「奇跡の時と人は終わったんだ」と思いながら、トボトボと帰って行きました。

 信次先生が生きていれば、やがては八起ビル2階で開業し、メシアの主治医になったかも知れません。信次先生は療術が好きであまり西洋医学的治療はされてなかったのではないかと思いました。私が主治医なら本日、国と県と市から100歳表彰された母のように長生きさせることができたかもしれません。もしそうだったら、それが光か暗黒か分かりませんが、私はとんでもない医者になったかもしれません。






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