統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

死者よりも生者に寄り添え(形式宗教その①)

2014-08-26 21:38:21 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)



母親の18歳の時の写真があったので、現在の98歳の親に私の丸メガネをかけさせ、同じポーズで写真を撮ってみた


盆明けに心療内科の患者さんが増えました。今年は家内の里が初盆で、家内は13、14、15日と朝から晩まで里帰りで、当然かもしれないが私は食事作りと母親の介護で終わりました。母親はもうすぐ99歳となりますが、お盆に孫や子もその他誰も訪ねてくる事も無く孤独なお盆でした。一方死者のいる里では、大きな祭壇が作られお参りに来た人でも300人近く、お墓参りや精霊流しとまるでお祭り騒ぎです。死んだらみんな集まるが生きていれば誰も来ないというのも変なものです。盆明けには、お盆の準備や行事に疲れ果て、胃腸症状やその他の疲労で受診してくる患者も多くいました。ちなみに親戚も盆疲れで1人入院しました。一体何のための宗教行事なのでしょうか。また生きているときは寄り付かないで死んだらやって来るというのは一体どういうことなのでしょうか。

私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。という歌がありますが(千の風になって?)、実はその通りで49日が過ぎれば、魂はこの3次元世界から離れて行きます。だから49日でちょっとしたフェアウェルパーティを開くのは分かりますが、7×7の九の算ではあるまいし、初七日ふた七日、三七日・・・の宗教行事をして初盆から一周忌三周忌・・・と言う法事をしても如何なものでしょう。あまり現世の人が故人を思い騒ぐと、死んだ人が気になり成仏できません。

人生が終わるということは夢から醒めたようなものこの世から死んだ人のことを考えると、さぞかし淋しい思いをしているのではないかと思うでしょうが。もともとこの世は現世(うつしよ)で、映画の一幕のようなものなのです。真実の世界(実在界)はあの世にあるので、あの世に帰った者は基本的にはこの世には執着しません。しかしこの世に執着して地縛霊や浮遊霊となっている人も多くいます。そういう人の霊を慰めることは価値があるかもしれませんが、成仏した人には失礼だし、何やかやと名を呼ばれたり、死んでしまった自分の事を思われると気になって迷惑です。一体昨日見た夜の夢を現実のようにいつまでも引きずって生きている人がいるでしょうか。そんなことは忘れて皆、家事に仕事に一生懸命です。それと同じようにあの世に行けばすることが多く、すでに過ぎ去った一夜の夢のような「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢(豊臣秀吉)」この世のことなどはどうでも良いのです。

三途の川の渡り方以前にも書いたような気がしますが、そういう分けで、人の葬式や法事に行って意味の分からないお経を聞くより、生前は三途の川のわたり方くらいは勉強しておいた方が良いと思います。三途の川は幽界と霊界の境界というか、死後の世界への関門というか色々な意味があると思います。まず死んだら先ほど言ったように夢から醒めたのですから、夢の内容に係らずすべてを諦めなければなりません。財産名誉その他の執着になるもの一切をあきらめなければなりません。「ああとうとう死んじゃった!!仕方ないな~~」といった感じです。三途の川は船で渡る人、泳いで渡る人、泳ぎ切れず途中で沈んでいく人、橋で渡る人、あるいは三途の川は小さくてまた越して渡れる人と様々かもしれません。執着になるものはすべて三途の川に捨てなければ渡りきれないということはあると思います。お高い戒名などはむしろ重荷になりますので、如何なものかと思います。お金の執着に関しては、六文銭くらいの渡し賃くらい有れば良いというほどほど感がベストでしょう。

三途の川の向こう岸ここでは奪衣ばあさんがいて、天国か地獄か決まるとか、エジプトでは心臓の重さと同じでなければ地獄に行くとかありますが、みんなテキトーだと思います。閻魔大王の裁きと言うのがりますが、それも象徴的なものと思います。結局自分を裁くのは自分自身です。自分の人生を浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)で自分の人生を走馬灯のように一気に見せられ、生前の善悪の行いがすべて分かることになり、その判断から自分で地獄や天国に行くことになります。

良心は魂の心臓分かりにくいことですがこう考えれば簡単です。人間には誰もが良心というものを持っており、例外はありません。生きている時はこれが抑圧され悪いことをしてしまいます。この世がすべてとか、私がいつも言う三つのさえ病(自分さえよければお金さえあれば今さえよければ)に侵されている人は良心が委縮しているだけですが、死後は良心が肥大化しますから「とんでもないことをした、ああ恥ずかしい」という思いで一杯になり自ら地獄に落ちていくことになるのです。すなわち己を裁くものは己自身にある良心ということなのです。人間の体にある心臓が衰えると、身体機能が落ち行動範囲が小さくなるように、魂の心臓である良心が小さく機能が無くなれば霊魂は高次元の世界に到達できないのです。すなわち宇宙即我の霊魂に至るには良心そのものの生き方ができないと不可能であるということです。

つづく・・・
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