統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

私は九州王朝説

2023-01-02 18:38:18 | 九州王朝

今日は1月2日だが、家族が正月食あたりで寝込んだため、神社参りが遅れました。

いつも行くところはクリニックの近くにある古物神社、昔で言えば八剱神社の総本部みたいなところでしょう。

古くは鉄器を作っていた物部氏の神社です。どこの神社もある程度はそうとは思いますが、色々な神様が祭ってあります。

しかしここは古い神道系がすべてといっていいほどあり、猿田彦大神様、八幡宮を代表する神宮皇后、応神の日吉神社、伊勢にある大明神社、

天満宮や飛梅社などもある。とりわけ水神に関係する貴船神社、龍神社、守護神社などが有る。下記の絵図は古代のもので、

あたかもドローンから撮った写真のようです。

それほどここは神社が大かったのだと思います。

八幡じ

その守護神社、水神様のあるところが何と熊井温泉源泉地なのです。

ちなみに現在のドローンで取った写真が下図です。照合してみてください。

位置関係は航空写真からも明らかになります。

天孫降臨、猿田彦が道案内したと言われる猿田峠も熊井温泉の上に有ります。

300年くらいになり恐らく近江あたりから神功皇后が九州に攻めてきて、熊井温泉のに南にある神崎が行在所だったと思います。

恐らく上記理由で神功皇后は熊井温泉を飲んでいると想像しています。

九州を平定しても周りは敵だらけという事情があったと思われます。

天孫降臨は九州ですが、邪馬台国は近畿圏かもしれません。

九州王朝は白村江の戦いで敗戦するまで続きます。

遠賀川流域は古墳銀座と呼ばれていますが、大阪のように町が発展していないので、

発掘されていない古墳がほとんどです。これらが発掘されれば歴史が変わるでしょう。

 

 

 

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神功皇后伝説その④日本古代医学の原点

2015-09-23 11:40:44 | 九州王朝



若戸大橋の下にある神社で洞海湾のすぐそばにあることが分かります。




若松恵比寿神社に来ました。これも若松区に30年ばかり住んで初めて来ました。昔、恵比寿市場や大黒市場には良く来ていました。市場の名前がおめでたい名前で変わっているなと思っていました。今神功皇后がらみと知ってからはありうる名前です。


昔、遠賀川は遠賀潟であり海でした。洞海湾もドン詰まりではなく遠賀川に江川に沿って繋がっていました。昔は八幡区と若松区は別れており、若松は二島と言うところもあり、神功皇后が井戸の表面を鏡としてお化粧をしたという井戸もあります。八幡という地名はもろに(はちまん)であり、倭人すなわち海人の神様です。神功皇后の軍事拠点および住居は岡田宮辺りか、わが熊井温泉近くの神崎町かであったと思います。ここから、三韓征伐や熊襲征伐、征伐と言っても実際は戦略経済的互恵関係を構築したと言うほうが正確かもしれません。また瀬戸内海に入り近畿方面か山口から日本海を通り若狭湾から近江、滋賀に行っていたと思います。あるいは来ていたか。いずれにせよ神功皇后は長く北部九州にいました。




洞海湾を進行中、神功皇后の船が動かなくなったので、船頭を海底に潜らせたところ光る石を発見し、この地に祭らせる。そしてそこに若い松を植えたところから若松と呼ばれるようになりました。

今に及ぶ神功皇后の足跡神功皇后ほどこの日本の各地において伝承を持つ人はいません。母方を新羅に持つせいかそれとも戦後の反省からか神功皇后は天皇の系列からはずされました。架空の人物と言う人がいますが、それでは私のすんでいる若松や熊井温泉近くの神崎神社も無い事になってしまいます。先日行った佐賀の嬉野温泉も無い事になります。嬉野温泉に神功皇后が入って「あなうれしいのう」と言ったことから嬉の温泉と呼ばれるようになりました。神功皇后を無き者にして今の日本はありません。4世紀後半神功皇后は日本においてまるでキリストが現れたような絶大な人気があったと考えられます。私はそれは武人ではなく救世主のようなものだったと思います。

神功皇后と石神功皇后には石に関する話がとても多くあります。

月延石や鎮懐石:お腹に石を3個さらしで巻き、出産を遅らせたとされる

馬蹄石(ばていいし):神功皇后が乗った馬のひずめの跡のついた石

腰掛石:神功皇后が腰掛けた石はすぐ祭られる山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎などに3000箇所以上

東風石:壱岐の島で船を走らせる追い風が吹くように祈願すると、祈りが通じて割れた石

光り輝く玉の霊石:仲哀天皇の熊襲親征に従った神功皇后は洞海湾を進んだ。船が進まなくなったので漁夫に命じ海底を調べると、光る石を見つけた。この石は神功皇后を守る霊石とした

腰掛石:神功皇后はこの石の上で「あな、わびし」と言った事から
わびしがたびしとなって旅石と言われている

その他
神功皇后の馬蹄石や神功皇后が髪をといた髪櫛石
三石神社:神功皇后が朝鮮遠征の帰りに和田岬の田の中に三個の石を置いて祈り広田、生田、長田の三神を祭った。さらにそこで安産や健康を祈願した。


水と石との関係今「水が変われば人生が変わる」と言う本を書こうとしています。水はエネルギーを貯めることができ、情報を記憶することができます。私達の体は60%が水でできています。その水のエネルギーや情報のよしあしで病気や健康が決まるのです。しかし神功皇后のことを考えていると、今や私は石に強い関心があります。熊井温泉の地下には花崗岩があり、県下一のラドン温泉なので花崗岩の中にはラジウムを多く含みます。マサ土すなわち赤土は花崗岩が風化して鉄分が残ったものです。花崗岩はさまざまなミネラルを含みラジウム放射線、自らは崩壊しラドンとなり地下水に溶けアルファ線(高エネルギー電離放射線)を出します。花崗岩はさらに4~14マイクロの生育光線と言われる遠赤外線を出しています。鉄分を含みわずか磁力線もあり、その岩石の亀裂を地球の重力によるエネルギーで地下水がすごい勢いで流れています。地下水は磁力線、放射線そして遠赤外線を受けます。そして結果的にあらゆる自然の力を記憶した高エネルギーの地下水となるのです。ラドン温泉といえば皆、放射性希ガスとしてのラドンのホルミシス効果のことを言いますが、酸化還元電位も低くエネルギーが高く人体に活力を与えてくれるのです。ですから水が変われば運命が変わるのです。しかしながら、その主な源は実は岩石であると言うことです。




温泉水の方お花は早く咲き始めて遅く残る。そして匂いも色も強い




温泉水にいれた釘は何時まで経っても錆びない


本日驚いたことに何んと10年近く経っても変わらず、しかも蓋まで錆びていない!


表層に出ているラジウム花崗岩。地下にはもっと強いのがあると考えられます。

宇宙は波動でできている。すべての物質にはエネルギーがあり振動数があります。また情報を伝達する性質もあります。心療内科的に言えば「心身一如」宗教的に言えば「色心不二」、量子力学で言えば「MC2」です。見える世界と見えない世界。分子より細かい原子や素粒子、素粒子よりさらに細かくなると紐になります。ヒモ理論は弦です。弦は音です。神事の神楽は巫女にあの世への道を誘導する方法です。音楽と色は振動数を代表するものです。これらを使うことにより肉体以外の世界に通じることができるのです。

急用にて・・・つづく


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神功皇后伝説その③日本の古代医学の謎を解く鎮懐石

2015-08-26 22:36:08 | 九州王朝

これは温泉水の自販機の横にいる掲示板に張っている説明書の一つです。


帆柱石郷土研究家で校長先生であった筒井氏が書いた古門の歴史書によると、熊井温泉近辺(古門)に神功皇后の軍艦の帆柱が石になった帆柱石というのがあったらしい。おおよそ10メーターなのでかなりでかい船だったことが分かります。後で述べるが神功皇后は石に関する話がとても多い。あるとき自販機の温泉水を汲みに来たお客がお腹にラジウム石らしきものを巻いていて、腕にも石のリングがあり、彼がこの文章を読んで「ラドン温泉なら神功皇后が出てきても可笑しくない」と家内に言ったとの事であります。私は神功皇后については良く知っているつもりでしたが、鎮懐石については恥ずかしくも知りませんでした。早速インターネットで神功皇后と石についてググリました。鎮懐石は月延石とも言って神功皇后が三韓征伐のときに石を腹に巻いて出産を遅らせ、勝利して韓国から帰り15ヵ月後に応神天皇を生んだという話です。首輪や腕輪は分かりますが、妊婦が何キロかの石を腹にまいて戦うことは考えられません。しかし身の回りか船室に石を置いていたことは十分考えられます。また神功皇后が神との交信にその石が必要だったからかもしれません。また妊婦である自分の精神的なイライラ等の体調を整えるために、自販機を汲みに来たお客が腹に巻いているような石を使っていたのかもしれません。彼はそのことを想像し、ここにはラドン温泉があるからラジウム石もあると考えたのでしょう。

脅威なる洞窟の石の力丁度その頃、長崎から漢方治療のためある患者さんが来ました。洞窟浴に泊まりたいと言うので、ムカデに噛まれても知りませんよというと「自分はテント一つで世界を回った」というので許可しました。「明朝色々検査しますが、あなた相当悪いと思いますよ」と予言して明日の朝診療することにしました。プライバシーのため詳しく書けませんが、何んと早朝の診察では、彼の症状および理学検査がすでに治っていたのです。これには患者も私も驚いたというところで取り合えず終わります。

 全身性尋常性乾癬そんなことで、温泉水を汲みに来た鎮懐石の男性と、他県からの患者さんの件と、インターネットの検索で、99才の母親の部屋に洞窟の石を3個持って行きました。と言うのは母親の足にあった尋常性乾癬が全身性となり、痒くてたまらず大学病院の皮膚科に入院させることにしていました。皮膚科学会で受診できず1週間後に受診の予定でしたが、石の効果を期待してラジウム放射線のできるだけ強いのを選りすぐり母親の周りに置きました。そしたら何んとか、ゆいかゆいと裸にまでなって訴えていた症状が消えたのです。1週間後には実際にかゆみも皮疹も改善しました。今では足に少し残して毎日の軟膏塗りも終了しました。









入院予定前に、全身に広がった尋常性乾癬、下の写真は1週間後


まず主病変の炎症が鎮火







せなかの赤みも取れる

ラドン洞窟の石を3個置いた1週間後の様子






なるべくラジウム放射線の強いのを選んで母親のベットの下におきました。


この強烈そうな石を部屋の真ん中に置きました。母親はこれを「お石様」と呼んでいます。>

お石(医師)様皮膚科医も専門医もダメ、もちろん私にも治せない。ステロイドも漢方もダメ。結局お石様が治してくれました。今でも主病変の足の皮膚炎はありますが、もはや全身にかゆみはありません。神功皇后は鎮懐石を身につけました。彼女の髪につけている櫛は石櫛です。薬石無効という言葉がありますが、それはクスリや石が効かないということです。この場合の石は石針です。古代医学では針灸の針は石針だったのです。要するに石には人間の気の流れを調節する力があるのです。薬と言えば皆さん飲みたがりますが、服薬という意味は薬を飲むことではありません。それは本来、薬を服につけるもしくは身に付けるという事なのです。漢字は紀元前に作られました。ですから紀元前の古代医学では薬石を身につけたり身の回りにおいて治療していたことから、服薬という言葉が生まれたと考えるのは不自然ではありません。

それでは次回最終章でグローバルな女王、神医、神功皇后が4世紀に滋賀、北部九州を中心に東は関東、西は帯方郡までを何故制覇することが出来たかを日本の古代医学の観点から述べてゆきたいと思います。





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神宮皇后伝説、その①神功皇后上陸地点(古門、神崎説)

2015-08-03 00:53:50 | 九州王朝

福岡県鞍手郡鞍手町古門。熊井温泉のあるところです。地図は西暦3世紀ごろの地図で、クリックしてもらえば現在の地図に変わります。青の線は神功皇后が自分の軍艦から降りて掛津(かけず)を通り、古門を通り自分の在所神崎町に行った経路を描いています。神崎町の近くには大きな神崎神社があります。 神功皇后伝説 in 福岡福岡県には神功皇后にまつわる話がとても多い。私のふるさとの家すなわち熊井温泉から700メートルくらいの所に「梶屋ヶ崎」という地名があって神宮皇后専用の軍艦の梶を掛けていたと言われている。本来なら舵という漢字だろうが万葉集には梶という言葉が出てくる。梶掛けと言う言葉もある。昔は梶は木で作られていたので、軍艦が長期に停留する場合は、当時の精密機器の大事な梶は腐らないように船から外され、手入れされ何かに掛けられていたのではないかと考える。なぜ私が梶と掛けると言う言葉にこだわるかと言うと、この梶屋ヶ崎のある町全体は掛津(かけず)と言われていて、あたりが海だった頃は比較的深い海に突き出す半島のようになっていたのである。すなわち沢山の梶が掛けられた掛津と呼ばれていた半島には実に多くの軍艦が停留していたのではないかと考えている。    一方、熊井温泉のところ古門も「島内(しまうち)」と今でも呼ばれている(海が深い)。その南側は浪打(波内)とも呼ばれて、それより南は多くの貝塚地帯で遠浅になっている(海が浅い)。これに対して島内から東北側、すなわち梶屋ヶ崎側は深い海になり遠賀川河口や洞海湾出口(昔は)につながっている。私が考えるに、ここ掛津半島から神功皇后が三韓征伐(?)や熊襲征伐に旅立った可能性が極めて高いと思うのである。古門の北の虫生津から上陸したと言う説もあるが、虫と言うのは蟹のことで、渡り蟹が沢山生息していたと言うことであり、渡り蟹の生息水深は浅いのでここに軍艦が留められるはずはないと考える。また神功皇后在所からも遠い。
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神功皇后と鞍手町(九州王朝)

2012-03-08 12:25:40 | 九州王朝

今日は土曜の診療を早く終わり、神功皇后のいた神崎町に行きました。まずその前にスタッフがくれたミニストップの美味しいソフトクリームを食べて出発


ほとんど人がいなくて、やっと遭遇した人に「神功皇后がお祭りしてある所は何処ですか」と聞いても、神功皇后という意味が分からず。自分のいる所がかの三韓征伐と熊襲征伐で有名な皇后陛下様の在所であったということに関心がなく、地元では単なるお地蔵サン的な意識なのには驚いた。やっとそれらしき場所に到達。

間違いありませんやっと来ました。


まずはお祈りを。賽銭を入れる所がありません。取りあえず100円置きました。


神功皇后は菩薩格か。。。まあ7次元が妥当でしょう。


山の上には古墳地らしき高台が。。今はブドウ園。

とにかく忙しくて今仕事の合間の昼休みにブログ書いています。私は完全に九州王朝説で、「鞍手は日本の古代首都であった」という本を書こうとしています。鞍手郡(昔は広かった)には神功皇后の跡が多くあります。この町は神崎町という名前ですが、日本には多くあります。クリニックの近くにも皇后の軍艦の舵を置いた置いたという舵や崎というところがあります。今はありませんが近くに帆柱石と言って船の帆柱が石になったものがあったとのことです。
 帰ってネットで見ていたらなんと神崎神社がすぐ近くにありました。バリバリ神功皇后が祭られたところのようです。今度行ってみたいと思います。しかしこんな祠のようなものが、案外と数千年と続くのではないでしょうか。土着しているために為政者に破壊されることがありません。
コメント (2)
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