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『メトロに乗って』その97。門前仲町駅の続き。八幡橋からまっすぐ行くと次の角には『三十三間堂』跡という碑がある。
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江戸時代には京都を真似て色々な建物や池、例えば清水の舞台(上野)などが作られたが、三十三間堂も同様に浅草に1642年弓師備後という人が作り、当時流行った通し矢も行われたが、残念ながら焼失。1701年にこの地に再建、1873年に堂宇が破壊されるまで存在し、その間、通し矢も行われていた。
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元の道を戻り、八幡橋を渡り、富岡八幡宮の外周に沿って歩くと境内の中に小さな富士山を発見した。そばに寄るとやはりこの地には富士講のための1722年頃作られた。
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1819年頃に再建、1965年に解体されるまで富士登山の疑似体験という江戸っ子たちの娯楽として続けられた。現在の小さな富士山は2002年に再建されたものである。
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富士山の前を通ってまっすぐ行くと高速道路の下に『わくらばし』という昔の欄干がある。そばの説明板にはかつて油堀川があり、渡しがあったが、1929年に初めて幅員が10m、長さが20.4mの橋が架けられた。今は川が暗渠化していてその面影はないが。
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さらに先に行き、葛西橋通りを右に曲がると深川七福神の1つ、冬木弁財天堂がある。この弁天堂は1705年木場の材木商冬木弥平次が茅場町から深川に屋敷を移した際に邸内の大きな池のほとりに竹生島から分霊した弁財天を安置したことに始まる。等身大の裸形弁天は年一回衣装の着替えを行なっていたが、関東大震災で焼失。現在の弁天堂は1953年に再建されたもの。
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尾形光琳が冬木家に寄寓したことがあり、その際に冬木家の妻のために書いた秋草の小袖が残されている。(上野国立博物館蔵)そのため、この小さな弁天様も鎌倉の銭洗弁天と同様にこの水でお金を洗えば帰ってくるご利益があると言われている。
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深川辺りの史跡は関東大震災の影響を受けたものが多く、それ以前はさらに様々なものがあったであろうことが偲ばれる。