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いま、そのとき、かんがえつつあること。

主体的が そんなに えらいか

2008-02-06 | 障害学
主体的って、どういうことでしょう。自主性の尊重とか いいますけれど、積極的とか、自主的、主体的。いつも肯定的に とらえられているけど、その逆の状態は、よくないこと、あまり肯定できないことなのでしょうか。

ここにかくことは、わたし自身が あまりに自主性を評価してしまっている点を反省し、主体的とは どういうことかをとらえなおす作業です。そのため、ひとりづもうを披露することになります。ですが、こうして それを公開する以上は、みなさんにも うけとめていただきたいという ねがいが こめられています。そういうことで、よろしく おねがいします。

このブログで「アイデンティティなんか」という文章をかいたことが あります。「アイデンティティなんか どうでもいい」という内容です。
アイデンティティというのは、自分がどのような環境、集団のなかに おかれるかによって、外から おのずと いやがおうにも規定されてしまうものであって、そこに積極的な なにかはない。ただ、自分が どんなひとたちと あいたいしているかによって、「自分は こうだな」とか感じるだけなのだ。

あらたにアイデンティティをえらびなおしたり発見したりして、興奮するようなことはある。けれどもそれは、アイデンティティが救世主であるからではない。身にそぐわないアイデンティティをあてがわれてきたからである。あわないから えらびなおすのだ。もちろんそれは、「よりよく」はなる。だが、その作業はじつは、「えらびなおす」という積極的な行為でありながら、同時に、依存的で非主体的な行為でもあるのだ。
これは奇妙な論理だと感じました。そこで、このあと「批判に ふくまれた前提」という文章をかきました。
たとえば、わたしの文章を例にしますと、「アイデンティティは どうでもいい」の根拠として、自主性の欠如をあげています。つまり、アイデンティティは自主的に獲得するようなものではないということを指摘し、なおかつ批判しています。

これは奇妙な論理です。積極的だとか自主的という概念に疑問をなげかけながらも「積極的、あるいは自主的であるほうが よい」としているからです。
どうでしょうか。自主的って、そんなに大事なことなのか。それは、自明ではないはずです。「批判に ふくまれた前提」として、わたしは つぎのように かいています。
ひとは、なにかを批判的に かたるときに、価値観や評価の基準に なんらかの前提をおいてしまっていることが しばしばあります。それに気がつけないのは、それが自分にとっては あまりに自明なことであるためです。
よくもまあ、これほどに あたりまえなことを、あたかも おえらい解説者さんのように かたっていることに、あきれてしまいます。とはいえ、あたりまえなことこそ わすれがちという意味で、もう一度 確認しておきたいと おもいます。価値観が、いろんなところに ひそんでいること、そして、その価値観は絶対的なものではないということです。

最近かいた「人権教育は、ありえない」という文章も、なんだか おかしな前提をかかえこんでいます。つぎの一節をみてください。
教育を学習支援に転換すれば、ひとりひとりが みえてくる。学習支援ということであれば、時間や場所を強要することはできなくなる。なにをおしえるのかではなくて、なにをまなぶのかという主体的な いとなみになる。
学習支援にすれば、主体的な いとなみになる。それが肯定的な変化だということなのですが、どうして主体的だと「よい」ということになるのでしょうか。自分で かいておきながら、ふと疑問をもってしまうと、自分で かかえこんでいた前提が、くずれさってしまいます。

とはいえ、学習支援をする側からの視点で かいたがゆえに、学習支援には「よみとり」が必要になるとも かいておきました。
学習支援をするには、よみとりが必要になる。なにが必要な支援なのかをなやむ必要がでてくる。そこにはジレンマがあるだろう。ほんとうに これで いいのかという、うしろめたさをかかえこみつづけるだろう。けれども、選別を自明とした教育実践からは自由になれる。効率や安定をもとめる気もちからは自由になれる。

ゆれる気もちと つきあいながら、むきあっていくことができるようになる。それが歓迎すべき変化でなくて、なんだろうか。
このように かいたのは、わたしが知的障害者の生活支援を仕事にしている、その日々の実感に もとづいています。

ひとりの自閉者が いるとします。認知能力は「比較的に」たかいと いえますが、いつも「声かけ」をまっています。顔色をうかがうように支援員に 顔をむけ、声かけをまつのです。そうしないと うごけないことが日常の生活のなかで、かなり あるわけです。

わたしは、あなたは、このひとに むきあいます。そして、かんがえるのです。これは、どのように かんがえたものだろうか。

この自閉者が声かけに依存的になったのは、そだてかた/教育のありかたに原因があるのでしょうか。そして、もし主体性をおもんじる教育をうけていたなら、積極的なひとになっていたのでしょうか。たとえ そうだとして、いま このようであることをどのように とらえたら よいのでしょうか。

いちばん すてきな こたえは、「そのまま うけいれる」ということでしょう。そして、積極的、自主的、主体的ということをあまりに肯定的に評価する視点を、反省してみる必要があるのでしょう。

けれども、ちがった視点もありうるでしょう。

そのひとは、支援員の声かけをまつとき、それが あからさまに わかる表情をします。無言で、うったえかけてくるのです。これが、積極的な表現でなくて、なんでしょうか。そうすると、わたしの「積極的」の とらえかたが、あらためて とわれることになります。

わたしが学習支援には「よみとり」が必要になると かいたのは、こういった現実のコミュニケーションが念頭にありました。

そもそも、たとえば水道の蛇口(じゃぐち)をひねることさえ できないひとに、英語をおしえることに どれほどの意義があるでしょうか。けれども、水道の蛇口に手をもってゆき、そばにいる だれかに ひねってもらうことをまなぶということは、そのひとにとって大切な学習であるはずです。

そばにいる だれかが水をだしてくれるという経験をすること、だから、自分が水道に手をもっていくことで そばの だれかが「わかってくれる」という経験をすること。そのようにして、できないことは支援してもらいながらも、自分が できることをひろげていくことが できます。手をあらいたいというメッセージをつたえる方法をまなびとることが できます。そのさいに、支援してくれる だれかが そばに いなければなりませんし、支援するひとは、よみとらなくてはいけないのです。これが、コミュニケーションというものでしょう。

蛇口をひねってもらうという点では依存的ですが、だれかに「ひねらさせる」という点では、どこまでも積極的だといえるのです。

自閉者のなかには、どこまでも積極的なひとが います。自分でしないと気がすまないという点で、その こだわりが つよければ つよいほど自己決定が許容されます。なぜなら、まわりが「あきらめる」からです。あきらめることの積極的意義は、「ことばと からだの多様性から、あたりまえ革命へ」に かいたとおりです。

声かけをまってしまう自閉者は、どんどん支援者が そのひとの要望をよみとって支援していかないかぎり、そのひとの自己決定は実現しません。

声かけされると、積極的に応答するわけですから、よみとりの まちがいは、それほどまでに生じないのです。その応答は、おうむがえしであったり、すぐさま行動にでるという直接的な表現であったり、「うんー」という こたえであったりします。

「自発的に こえをだす」ということが あまり ないひとでも、はたらきかけることによって能動的になることが できます。これも、積極的の、ひとつのありかたなのです。


まとめましょう。

積極的、自主的ということをあんまり肯定しすぎないこと。これが大事です。そして、依存的、受動的にみえるひとの行動も、よく みてみると そこには積極的なところが みつかるということ。それを「よみとること」が重要なのだといえるでしょう。