どんなに自分をごまかして うつくしく みせようとも、がんばってみせようとも、ごまかしきれるものではありませんね。
自分に むすばれたゴムをふりきろうとしてみたけれど、やっぱりゴムの力が つよくて ばっちーん、みたいな。
ふりだしに もどる。
みのほどをしる。
ところで。浜田寿美男(はまだ・すみお)『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社から引用します。第二章 「自閉症という「私」の鏡」のフレーズです。
それにしてもです。「ヴァリエーション」ということばは言語学の用語でもあります。「変種」などと いわれることもあります。
どんな言語であれ、けして一定で均質なわけではない。ひとそれぞれ ちがったように使用されている。そして、言語学の理論というか理念で重要なのは、「言語に優劣なし」という言語相対主義にあり、「洗練された言語と粗野な言語」という、くだらない序列化はしない、ということにある。
言語の学では、この言語観が共有されている。
してみると、どうだろう。
身体の学では、からだのバリエーションに、どのような態度をしめしているだろうか。「障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線」。このような観点は、言語研究においては常識のようなものなのに、身体の研究では、からだの多様性を社会的事実として うけいれる、という たったそれだけのことができていない。先進的な身体の社会学、ひいては障害学においては そういった身体を序列化する視線は解消されていることだろう。だが、身体の学は、そればかりではない。医学はどうなのだ。
障害学にしてもだ。社会的障壁の問題を全面に うちだし、身体の「損傷」(障害学では、「インペアメント」というカタカナが常用されている)の問題ではない、というふうに主張する。だが、障壁と損傷の区別に満足して、それでは損傷とは いったい なんなのか、という問題に きりこまないならば、それは不十分な議論であるだろう。それを指摘する議論はすでにあるし、それは いいことだ。期待しているし、わたしも そこをつっこんでいきたい。
身体が どのような状態であり、どんな すがたをしていようが、すべて!、ひととして あたりまえのことである。奇異にみえるのは、人間の可能性について無知なだけであり、この世界は、おどろくほどに世間しらずの予想をうらぎってくれる。人間が、なんらかの からだに生命をやどし活動する以上、その可能性は、無限大だ。いきている、生命の、生物の、あかしでしかない。
なにをおどろいている?
あなたは乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんの『五体不満足』をよまれたか? 文庫版(完全版)に つけくわえられた著者の苦悩に わたしは ひどく共感したのだが、あの本で感動的なのは、やはり、というか、わたしにとって感動的だったのは、つぎの一節だ。おとたけさんが水泳で25メートルおよいだら、それをみて感動していたたひとたちをクラスメイトが評したところ。
それならば。だれも、すべてのひとと であうことは できない。それならば。
はじめから しっておけばいいのだ。ほんとに、どこまでも、すっごいくらいに、人間のすがたは いろいろなんだと。「覚悟」といったら、はなしが おおげさになるから いわない。ただ、しっておけばいい。そして、それでも おどろいたなら、ひかえめに、こっそりと おどろけばいい。
もしこの文章をよんで、「障害は個性だ」というおはなしに要約してしまうなら、わたしは残念に感じる。個性でもなんでもないんだよ。「なんでもない」。なんの特徴でさえない。とりたてて障害という必要もないし、個性だと「もちあげる」必要もない。個性って いってしまえば、評価の対象になってしまうでしょ? あなた だれなのよ、審査員? ちがうでしょ!!! 人間に審査員なんて いらねんだよ。
え、わたし? そりゃわたしも こないだ面接をうけて審査されましたよ、ええ。くそいまいましい世の中ですよ。けどね、けどね。けどね。なきたくも なるけどね。
わたしたちは、これからも審査員としてありつづけるのです。残念だろうと、いやだろうと、それが社会の現実なのです。
なぜか。
わたしたちが、身体のバリエーションに とまどい、いやがり、めんどくさがり、そういうことで、施設に、病棟に、いろんなひとたちをおいやってしまったからです。
そうしてしまったからには、わたしたちは、そうしたひとたちを「むかえいれる」側で いつづけるのです。しかも、わたしたちの総意によって、です。気がむけば、うけいれる。いやなら、このまま現状維持。ああ、わたしたちは権力者です。
いや、わたしたちこそ そうしたひとたちに評価され、審査されているのだと? ひょっとすると あなたは、そう おっしゃいますか? けっ。かなしいですよ。そんな発想の転換は、しょせんは あなたの自己満足におわります。この社会を支配してるのは だれなんですか。すくなくとも、排除されたひとたちではないでしょう?
わたしとて、多様性ということばで満足するつもりはない。それはスタートにすぎない。すべてを、あたりまえにしてしまわないといけない。
すべてが あたりまえなら、だれも苦労しない。だれも弱者にならずに すむ。だから、あたりまえ革命なんだよ。
自分に むすばれたゴムをふりきろうとしてみたけれど、やっぱりゴムの力が つよくて ばっちーん、みたいな。
ふりだしに もどる。
みのほどをしる。
ところで。浜田寿美男(はまだ・すみお)『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社から引用します。第二章 「自閉症という「私」の鏡」のフレーズです。
私は、断念ということばは、とてもポジティブなものだと思っています。目の前に高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません。…中略…cure[治療、なおす-引用者注]を目指すことがそのまま相手を否定することにつながることがあるし、逆に、断念することが関係の回復に直結することもあるわけです。その意味では、障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線は大事だと思います。平たくいえば、そんな性分の人もいるというていどに考えたほうが、いいのではないかと思います。(87-88ページ)断念するのは、肯定的。なかなか いえないことです。どこかで、いやまだ あきらめてはいけない、と固執してしまうことがあるからです。
それにしてもです。「ヴァリエーション」ということばは言語学の用語でもあります。「変種」などと いわれることもあります。
どんな言語であれ、けして一定で均質なわけではない。ひとそれぞれ ちがったように使用されている。そして、言語学の理論というか理念で重要なのは、「言語に優劣なし」という言語相対主義にあり、「洗練された言語と粗野な言語」という、くだらない序列化はしない、ということにある。
言語の学では、この言語観が共有されている。
してみると、どうだろう。
身体の学では、からだのバリエーションに、どのような態度をしめしているだろうか。「障害を、数ある人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線」。このような観点は、言語研究においては常識のようなものなのに、身体の研究では、からだの多様性を社会的事実として うけいれる、という たったそれだけのことができていない。先進的な身体の社会学、ひいては障害学においては そういった身体を序列化する視線は解消されていることだろう。だが、身体の学は、そればかりではない。医学はどうなのだ。
障害学にしてもだ。社会的障壁の問題を全面に うちだし、身体の「損傷」(障害学では、「インペアメント」というカタカナが常用されている)の問題ではない、というふうに主張する。だが、障壁と損傷の区別に満足して、それでは損傷とは いったい なんなのか、という問題に きりこまないならば、それは不十分な議論であるだろう。それを指摘する議論はすでにあるし、それは いいことだ。期待しているし、わたしも そこをつっこんでいきたい。
身体が どのような状態であり、どんな すがたをしていようが、すべて!、ひととして あたりまえのことである。奇異にみえるのは、人間の可能性について無知なだけであり、この世界は、おどろくほどに世間しらずの予想をうらぎってくれる。人間が、なんらかの からだに生命をやどし活動する以上、その可能性は、無限大だ。いきている、生命の、生物の、あかしでしかない。
なにをおどろいている?
あなたは乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんの『五体不満足』をよまれたか? 文庫版(完全版)に つけくわえられた著者の苦悩に わたしは ひどく共感したのだが、あの本で感動的なのは、やはり、というか、わたしにとって感動的だったのは、つぎの一節だ。おとたけさんが水泳で25メートルおよいだら、それをみて感動していたたひとたちをクラスメイトが評したところ。
なかなか止むことのない、最大級の拍手だった。そんななか、ボクのクラスメイトは、岡先生にこんな報告をしていた。クラスメイトにとっては ありふれた光景だった。感動したひとたちには、そうではなかった。そういうことなのだ。
「ほら先生、あそこのオバサンたち、泣いてるよ」
その目は、いかにも不思議なものを見るような目だった。先生は、そのことが何よりうれしかったと言う。この子どもたちは、乙武をただのクラスメイトとしか見ていない。(完全版 88-89ページ)
それならば。だれも、すべてのひとと であうことは できない。それならば。
はじめから しっておけばいいのだ。ほんとに、どこまでも、すっごいくらいに、人間のすがたは いろいろなんだと。「覚悟」といったら、はなしが おおげさになるから いわない。ただ、しっておけばいい。そして、それでも おどろいたなら、ひかえめに、こっそりと おどろけばいい。
もしこの文章をよんで、「障害は個性だ」というおはなしに要約してしまうなら、わたしは残念に感じる。個性でもなんでもないんだよ。「なんでもない」。なんの特徴でさえない。とりたてて障害という必要もないし、個性だと「もちあげる」必要もない。個性って いってしまえば、評価の対象になってしまうでしょ? あなた だれなのよ、審査員? ちがうでしょ!!! 人間に審査員なんて いらねんだよ。
え、わたし? そりゃわたしも こないだ面接をうけて審査されましたよ、ええ。くそいまいましい世の中ですよ。けどね、けどね。けどね。なきたくも なるけどね。
わたしたちは、これからも審査員としてありつづけるのです。残念だろうと、いやだろうと、それが社会の現実なのです。
なぜか。
わたしたちが、身体のバリエーションに とまどい、いやがり、めんどくさがり、そういうことで、施設に、病棟に、いろんなひとたちをおいやってしまったからです。
そうしてしまったからには、わたしたちは、そうしたひとたちを「むかえいれる」側で いつづけるのです。しかも、わたしたちの総意によって、です。気がむけば、うけいれる。いやなら、このまま現状維持。ああ、わたしたちは権力者です。
いや、わたしたちこそ そうしたひとたちに評価され、審査されているのだと? ひょっとすると あなたは、そう おっしゃいますか? けっ。かなしいですよ。そんな発想の転換は、しょせんは あなたの自己満足におわります。この社会を支配してるのは だれなんですか。すくなくとも、排除されたひとたちではないでしょう?
わたしとて、多様性ということばで満足するつもりはない。それはスタートにすぎない。すべてを、あたりまえにしてしまわないといけない。
すべてが あたりまえなら、だれも苦労しない。だれも弱者にならずに すむ。だから、あたりまえ革命なんだよ。
世の中話題性だけでヒーロになれる。
まあお笑いさんが続々と本を出してそれなりに売れる、
最もその本誰が書いたのかは定かではない・・が笑。
まああの乙武さんのもおんなじパターンだけどね。
世の中の話題にならなければ人ではない!
そんな軽い時代と進歩?しているようですな・・。