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いま、そのとき、かんがえつつあること。

『くらやみの速さはどれくらい』

2005-11-17 | 障害学
めずらしく小説をよんだ。「21世紀版『アルジャーノンに花束を』」といわれている作品。

主人公は自閉症で35才の男性。この小説は、よんでいて なんとも気もちが いいのだが、それはすべて主人公ルウの魅力にある。よみながら、あちこちに線をひいていた。ルウの世界観に魅了され、ひきこまれていく。しかし、最後の最後に、読者は とまどう。どう うけとめていいのか、さっぱり見当がつかないのだ。

これは、なんというハッピーエンドなのだろう。小説であれ映画であれ、こんな表現の仕方があるものなのか。
「馬鹿なことだよ」とチャイが言う。「ぼくたちにふつうになれと言っておきながら、いまのままの自分を愛しなさいと言うなんてね。ひとが変わりたいと思うのは、いまの自分のどこかが嫌だからだ。―後略―」
この発言がルウに決意させる きっかけをつくったわけだが、伏線は第18章の最後のところにあったわけだ。

なにかを選択して、自分で満足のいく結果をえる。それは よいことだ。しかし、社会の「価値体制」によって「選択させられた」としか みえないものであれば、そのハッピーエンドは単純な話ではなくなる。「個人的なことは政治的なこと」。

技術は進歩する。おそらく、そのとおりだろう。しかし、その進歩といわれるものが なにを意味するのかは自明なことではない。技術の進歩によって、その技術の是非が議論されるようになる。しかし、そういった議論は、どこか いびつなものだ。なぜなら、その技術のためだけの議論なのだから。技術がどこまで「進歩」し、なにが どこまで可能になったのかなどは、わきに おいてこよう。まず、価値体制こそをとわなくてはならない。「ふつー」とは、なんですか?と。

グーグル:「くらやみの速さはどれくらい」 / 「価値体制」
(予想以上に「価値体制」でヒットしたことに びっくり)