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いま、そのとき、かんがえつつあること。

シーソーゲーム

2007-12-18 | ブログ
暖房つけなきゃ さむすぎて、つけてみたなら汗だくになる。

そんなもんなのでしょうね。これは あきらめとか、断定とかではなくて、うけいれるということではないでしょうか。

時代をみきわめ、そのときそのときの必要に かられて。あちらに いってみたなら、今度は こちらに ぶれるでしょう。シーソーシーソー。シーソーソー。シーシーソッソー、シッソーシ。シソーシ、ソーソシ。ソシシソソ。

なんべんソーソーいったやら、シーが何回すくないか。それともシーのが たくさんか。

そういうことだと おもっているのです。

韓国では もうすぐ大統領選だそうで、イ・ミョンバクとかいう保守候補が有力だとか、スキャンダルがあるだとか、そういうはなしのようです。

日本では自民が優勢だと おもえば、民主が まきかえし。アソーには ならずに、フクダになった。みみっちいシーソーゲームをしている。

えせ民主主義をつづけていくかぎりは、まあ、みみっちいシーソーゲームのくりかえしでしょう。選挙制度という、えせ民主主義をすてさり、くじびき制度による もちょっと ましな民主主義に革命しても、まあ、みみっちいが「みっちり」になるくらいで、それほどには夢世界になるわけでもないのでしょう。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は「続堕落論」にて、つぎのように のべています。文章が すこし むずかしいですが、おゆるしください。
生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福だのを云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜[ぼうとく]ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。
ささいな改善であれ、大胆な改革/革命であれ、それ以前が わすれさられてしまえば、定着してしまう。そして同時に、波紋をなげかける以上は、反動をうみだす。

定着と反動のバランスによって、社会は すがたをかえる。「いま」が当然になってしまえば、どれほどに大胆な革命をしたところで、もはや「なんでもない」ことになる。それなら、「少しずつ」も「大胆」も、じつは そんなに ちがいはしない。少しずつであろうと気づかいすぎて、なにもしないことになってはいけない。


革命的に、すべてが あたりまえの社会になったとしても、やがては なにかが異常として発見されるにいたるであろう。それは、時代的/社会的要請であり、あるいは、その時代と社会の限界なのだ。

ベルトコンベアで はこばれていくように、異常がふつうに変換されていく社会にしてしまえば、それでいい。いまだ変換されざる、いまだ発見されざる、いまだネツゾウされざる さまざまな「なんでもない」ものたちが、かたちづくられ、意味をかえていく。デジタル! 二進数! プラスとマイナス!

こうなれば、もう。


「無常」。すべては すがたをかえてゆくもの。


オッパッピー?