未完の世界 Imperfect World

アーティスト佐々木久枝のブログ
自身の作品、生花と墨象を融合させたアートについて紹介。そして時々日々のこと。

作品のクオリティってなんだろう?誰のためのものだろう?

2015-09-07 14:46:59 | 日記
以前展示をしている時に、師匠がいらしてくださり、作品を見て「クオリティをあげないとなっ」とおっしゃってくださったことがあった。
当時は個展も終わって少し経ち、自分自身が空っぽで、なんとも何を書いたらいいのか、何をつくりたいのかわからなくなっていた時で(この時は以前に制作していたものに花を変えて展示にだしていた)、この言葉はかなり痛烈に響いた。
私はまだがんばらないといけないの?
これ以上人の評価にふりまわされたくない。それが師匠であっても。
こう感じたのは自分の思い上がりと、傲慢さ、弱さだけれども…

「作品のクオリティをあげる」
正しい言葉なのだけれど、いわゆるクオリティをあげるために、師匠からや人からのよい評価のためにもっとがんばらないといけないのは私には苦しい以外の何ものでもなかった。
私も最初は創作するのが、楽しくてワクワクしていたけれど、いつの間にかそれが苦行になり、そのうち意欲もなくなり、書の教室に行くのもやめた。
もちろん、自分の作品の質・クオリティを上げるのはあたりまえのこと。
でもそれが楽しさを忘れて、苦行になってしまっては何もならないし、創作活動は続けられない。

最近、かなを書く友人が「(かな作品を)何枚も書いていて、ふっと風が吹く瞬間がある。それを味わいたくて書いている。」と言っていた。
彼女の作品は本当に風が吹いているように軽やかで、美しくて品格がある。

クオリティって誰のためのものだろう?
だれかから賞賛されるために制作するって本物の作品ではなく、ただの媚びたものだと思う。
そしてそこに執念をもやしてばかりいては、苦行になっていつか倒れてしまうし、虚しいだけだ。
作品の質は大事だけど、自分が楽しかったり、自分が喜んでいたり…。
結局は自分のことを肯定できなければ、続かない。
もっと自由にとんでいっていいのだ。
守破離という言葉があるけれど、やっと本当の意味で「離」ができたような気がする。

徹さんのワークショップや友人の言葉は、長く悶々していた心を解きほぐしてくれた。
苦しい時期がつづいたけど、やっと突破口が見え始めた。
ようやくそのタイミングがきたんだなと思う。
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