今から15年ほど前、デザインの仕事に筆文字を取り入れようと、書道教室に行き、そのまま10年近く通いました。
書道教室といえども、とても自由な形の教室で、和気あいあい当時は楽しく通っていました。
そんなに長く通ったとはいえ、私自身は古典の臨書が上手くなったわけでもありませんし、美しい字が書けるようになったわけでもありません。
教室も自由に書いていいスタイルでしたし、私の性格に合っていたのだと思います。
私の根っこはきっと自由なものを欲していたのだと思います。
書道を習ったと言うのだから、美しい字くらいかけなきゃいけないかなと思ったこともあるのですが、あまりそこに興味を持てず、わけのわからない抽象画を書いていました。
当時は生け花を習っていたので、その時に墨で書いた抽象画と花を組み合わせることを思いついたのです。
そこから今に至ります。
ずっと墨象と花の組み合わせで活動していたけれど、私はなぜ墨を使っているのだろう?と、疑問を持つ瞬間が幾度もありました。
アートはどちらかというと、西洋の方が好きですし、カラフルなものも好き。
それではなぜモノクロのものを選ぶのか?
子供の頃から手習いとして書道をしていたわけでもなかったですし、墨を使う前提でアート活動をしまったので、何も考えずに制作していたからこうなっちゃったのだと思います。
このようなアート作品を作っているからといって、和のものが好きでなくてもいいとは思うのですが、書道も生け花も習ったくせに、どう言うわけか和のものはあまり興味が持てず。
他の画材を試してみましたが、あまりしっくりこず。
しかし、数年前、この作品を作っている時に、ハッとしたのです。
書いた墨象作品をぼんやりと眺めていたら、薄い墨のぼんやりとしたグラデーションや痕跡に、心が洗われるような気がしたのです。
自分の作品でそれを言うのもおかしいのですが、心のトゲトゲが溶けていくような感覚になりました。
あぁ、これだったのかと。
他の画材にもそれぞれ持ち味があるとは思いますが、私は淡墨で画仙紙に書いた時の色とにじみのグラデーションがたまらなく好きなのだと気づきました。
淡墨のグラデーションは、生まれ育った地域の冬の情景、私にとっての原風景を思い起こさせます。
雪国出身でありながら、今だに寒いのと曇天や雪は好きではありません。
好きではない原風景ではあるけれど、何か記憶を呼び覚ますものでもあるのかもしれません。
書道教室といえども、とても自由な形の教室で、和気あいあい当時は楽しく通っていました。
そんなに長く通ったとはいえ、私自身は古典の臨書が上手くなったわけでもありませんし、美しい字が書けるようになったわけでもありません。
教室も自由に書いていいスタイルでしたし、私の性格に合っていたのだと思います。
私の根っこはきっと自由なものを欲していたのだと思います。
書道を習ったと言うのだから、美しい字くらいかけなきゃいけないかなと思ったこともあるのですが、あまりそこに興味を持てず、わけのわからない抽象画を書いていました。
当時は生け花を習っていたので、その時に墨で書いた抽象画と花を組み合わせることを思いついたのです。
そこから今に至ります。
ずっと墨象と花の組み合わせで活動していたけれど、私はなぜ墨を使っているのだろう?と、疑問を持つ瞬間が幾度もありました。
アートはどちらかというと、西洋の方が好きですし、カラフルなものも好き。
それではなぜモノクロのものを選ぶのか?
子供の頃から手習いとして書道をしていたわけでもなかったですし、墨を使う前提でアート活動をしまったので、何も考えずに制作していたからこうなっちゃったのだと思います。
このようなアート作品を作っているからといって、和のものが好きでなくてもいいとは思うのですが、書道も生け花も習ったくせに、どう言うわけか和のものはあまり興味が持てず。
他の画材を試してみましたが、あまりしっくりこず。
しかし、数年前、この作品を作っている時に、ハッとしたのです。
書いた墨象作品をぼんやりと眺めていたら、薄い墨のぼんやりとしたグラデーションや痕跡に、心が洗われるような気がしたのです。
自分の作品でそれを言うのもおかしいのですが、心のトゲトゲが溶けていくような感覚になりました。
あぁ、これだったのかと。
他の画材にもそれぞれ持ち味があるとは思いますが、私は淡墨で画仙紙に書いた時の色とにじみのグラデーションがたまらなく好きなのだと気づきました。
淡墨のグラデーションは、生まれ育った地域の冬の情景、私にとっての原風景を思い起こさせます。
雪国出身でありながら、今だに寒いのと曇天や雪は好きではありません。
好きではない原風景ではあるけれど、何か記憶を呼び覚ますものでもあるのかもしれません。