城郭 長谷川博美 基本記録

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稲荷山古墳の被葬者「杖刀人」の官職や役割は何か?

2023-07-05 19:47:55 | 古代史

◆質問者

稲荷山古墳の被葬者

「杖刀人」の官職や役割

とは何でしょうか?

◆長谷川

侍史「じし」は中国隋代「王様に仕

える書記官「お付きの人」祐筆の

意味を持ちます。

 

◆質問者

この様な中国のサーベル刀の様

な刀剣は日本国には無かったと

思います。

 

◆長谷川

継体天皇陵と考古学的に考えら

られる今城塚古墳の太刀型埴輪

では標準的な刀剣と言う事です。

◆質問者

この様な刀剣を100本作製

した日本国の歴史上の人物

は誰でしょうか?

 

◆長谷川

シキの宮に在る時、吾

天下を左治し、此の百練

の利刀を作らしめ、吾が

奉事の根原を記す也。と

稲荷山古墳鉄剣銘文には

オワケと記されています。

 

◆質問者

オワケによる

銘文中の「天下左治」とは?

 

◆長谷川

王佐の才とよばれる王や君主

の側近として補佐する事です。

 

◆質問者

歴史地理の質問を致します!

稲荷山古墳は埼玉古墳群に

属する古墳と言われてます。

水理は如何様な地理ですか?

 

◆長谷川

利根川荒川などの両水運を

兼ね備えた中間地点に所在。

 

◆質問者

関白秀吉をよく補佐した人は?

 

◆長谷川

石田 佐吉 三成こと

つまり 石田治部少輔

佐吉とは秀吉の補佐役

 

◆質問者

埼玉古墳に石田三成は

絶対に来ていませんね?

埼玉県行田市大字埼玉に

◆長谷川

石田三成は秀吉を補佐

し武蔵行田忍城を攻め

石田三成は遺児秀頼を

補佐すべく関ケ原大乱

を引き起こしたオワケ

と良く似た王佐の人で

武人として関ケ原では

惜しくも敗れた史僚!

 

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以下下ウイッキペデイアより

銘文の内容[編集]

(表)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

漢字六書の仮借から銘文の漢字一字を読み一字とした場合、書かれている文字に読点を打って解釈すると、

辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺[6]、シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」

特色[編集]

115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。

また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「獲□□□鹵大王」 を「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]

金象嵌の材質[編集]

2000年と翌2001年に実施された金象嵌の材質調査(蛍光X線分析)によって、象嵌に使われている金には銀の含有量が少ないもの(10%ほど)と多いもの(30%ほど)の2種類あることが判明した。その2種類の金は、表は35字目、裏は47字目から下の柄側には銀の含有量が少ないもの、切先側には銀の含有量が多いものが使われている。2種類の純度の違う(結果として輝きの異なる)金を鉄剣銘文の上下で使い分けた理由は不明である[9]

考証[編集]

年代[編集]

辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。

通説通り471年説をとると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなり21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となっている。 田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした[10]

オホヒコ[編集]

銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある[11]

記された人物の関係について[編集]

一般的に、「児〇〇」はその前の人物の子供であることを示しているとされているが、『海部氏系図』が親子関係に拘らず、国造の地位を継承した族長を「児〇〇」と記していることから、鉄剣の銘文に記された人物達は親子関係ではないとする説も存在する[12]

乎獲居について[編集]

乎獲居臣の「杖刀人首」とは「上番先で組織された杖刀人の中での首」ということであり、出身母体の長というわけではない[13]

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