◆一般者
余呉城郭研究会の評判は上々
初心から入門して深く楽しめ
る。先生のブログもユニーク
特に比較研究論が非常に素晴
らしい観点と聞き及びます!
◆質問者
長谷川先生の『信長公記』は
随分と長く名古屋、米原では
ロングランが続きましたね?
信長の行動規範を彼の教養も
公記とは別に宣教師資料も交
じへ幅広く楽しく解説をされた
◆長谷川
御参加を賜りました方々には
改めて御礼を申し上げます。
◆対談者
さて織田信長は宣教師との
直接対談を永禄12年(1569)
から、天正10年(1582)まで
三十数回も面会していますが
一体こは何の目的の為の面会?
◆長谷川
唐=から=中国
天竺=インド等
諸外国の情報収集と査問と思わ
れます。彼は軍事や築城や傭兵
に文化流通経済に至るまで海外
の情報を収集し海外分析した事
でしょう。現代風に言へば彼は
東洋史学科に所属する大学院院
生並みの有識層と考えても良い。
◆質問者
織田信長の居城安土城とは
天正4年に創築され
天正10年灰塵に帰しました
西暦に直すと
1576年から1582年まで安土城
は存在した事になる城ですね。
◆長谷川
当時の測量縄張の様子は安土
山頂の城や山麓の屋敷群から
も放射腺ビイスタ工法を多用
して安土城を設計施工してま
す。詰まりビイスタ工法によ
り成り立っております。
◆対談者
歴を学ぶときに
5W1Hが大切と勉強しましたが
いつ、どこで、だれが、なにを、
どうしたか?これが文字歴史で
したが、人類の歴史にとっては
非常に重要なインフラ「施設」
つまり城や宮殿のdesign構図が
欠落しているだから本来歴史と
は5W1H+Dであるべきですね。
▼安土城山頂のビイスタ工法
▼安土城中腹のビイスタ工法
▼安土城中腹のビイスタ工法
◆長谷川
当時の天竺=インドのゴアに
イエズス会の拠点が存在しま
した当時ムガール帝国が印度
を統治していましたが安土城
築城年代に近いアーグラ要塞
を考察してみましょう。この
城は1565年着工1573年完成の
城郭です。
1565年は=永禄8年です
1573年は=天正元年です
ですから安土城とほぼ同時期
に築城されたインドの城です。
▼アーグラ要塞
◆反論者
何かな?安土城に似た城の様な
気分になり嫌になってくるんだ
まさかビイスタ工法じやないか?
◆長谷川
そのまさかです!信長と同時代の
印度の城も安土城も扇型ビイスタ
工法で出来ている訳ですよ!さて
我々は日本と印度は歴史地理的に
は関係ないと考えがちなのですが
鉄砲と言う兵器の技術の伝播とは
もう既に種子島に室町時代にそま
技術が伝来し日本国に既に広まっ
ている事です。技術文化は驚くべ
き速度で拡散するのが人間社会。
▼日本 安土城
▼印度 アーグラ要塞 扇型ビイスタⅠ類
▼印度 アーグラ要塞 扇型ビイスタⅡ類
◆長谷川
印度 アーグラ要塞の特徴
①城郭の出入り口に堡塁を構えている
②中央の宮殿へ直線的に入る参道構築
③外壁は二重の堡塁にしている。
④この城は王の政庁
日本 小牧山城の特徴
①城郭の出入り口に堡塁を構えている
②城郭の中央へ直線的に入る参道構築
③外郭は一部二重土塁にしている。
④主要部は三重の石垣を構築する。
⑤この城は尾張の王 信長の政庁
日本 安土城の特徴
①城郭の出入り口に堡塁を構えている
②城郭の中央へ直線的に大手道を構築
③主要部は高石垣を構築し堅固とする
⑤この城は東海近畿の王 信長の政庁
▼安土城天主台の縄張
▼安土城 山上城郭の縄張
▼複数確認できる安土城ビイスタ各種
▼明智光秀 居城 丹波亀岡城 ビイスタ
▼柴田勝家 内中尾山城「玄番尾城」
▼羽柴秀吉 虎御前山陣城
◆みんな
すげえよ!
日本国の安土城も
天竺アーグラ要塞
も両者扇型ビイスタで築城
されているんだ!
◆対談者
これは困ってしまいました!
城郭ビイスタ工法とは日本国
の城だけに該当すると限定し
ていたけど大変な事になって
来ましたビイスタ動画視聴数
更に伸びる可能性があります。
◆みんな
余呉城郭研究会の城郭講師の
長谷川先生がまさかここまで
見越して動画制作をされてた
のかと思うと空恐ろしくなる
んだよ。賤ケ岳の砦に詳しい
先生と思ってたマニアツクな
先生だと思っていたのに我々
の想定を遥かに超える城郭の
先生だと私は気付かなかった!
◆世話人様
ふふふふ、、、私は解ってた
わよ!城郭遺跡の解説を受け
た瞬間からこの先生は違うと
安土城に行ってもバンとこれ
はこの城ビイスタで出来てる
と言われて数人は、ポカンと
していたでも私には電撃です。
◆長谷川
さてインドのアーグラ要塞が
築城されたのが1565年=永禄8年
です。
築城した小牧山城縄張を
再度検討致しましょう。
▼小牧山城ビイスタ工法 扇型ビイスタ
▼小牧山城ビイスタ工法 中央ビイスタ型
ウイッキペデイアより引用
アーグラ城塞(アーグラじょうさい、英: Agra Fort)は、
で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー,
Lal Qila)の名がある。ただし、デリーの城も同じく
赤い城と呼ばれ、単にインドの「赤い城 (Red Fort)」
と言えば、通常はデリーのほうを指す。
歴史[編集]
デリーからアーグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルが
の居城となった。