城郭 長谷川博美 基本記録

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緒川城と村木砦の縄張考察

2023-02-02 05:08:18 | 東海の城 ビイスタ工法

緒川城と村木砦の縄張考察

 

◆一般者

緒川城ビイスタが存在しますか?

 

◆長谷川

『信長公記』には村木砦の条に

登場する城ですが私に解らない

 

◆一般者

城郭ビイスタ論動画

再生5605回と大躍進

 

◆反論者

緒川城は昔行ったが群郭式の城

だった城郭ビイスタなど絶対ない!

 

◆一般者

ビイスタ工法緒川城に

存在したのでしょうか?

 

◆対談者

少しだけ試験的検討して

みてはどうでしょう?最初

から緒川城にビイスタなど

ないと決めっけてしまって

研究家ではありませんわ!

◆長谷川

南九州型とされている九州

日向志布志城も一見群郭

に見える城ですが、城全体

を「まとめた」グランドプラン

規矩術縄張を見落としては

ならないと思います。

◆長谷川

黄色の二本腺が緒川城の中軸

に相当する基本線だったと思い

ます。特に諸川城北食違虎口は

磁北に近い中心線と思われます。

 

◆長谷川

恐るべき高度な測量術を駆使して

日本の城郭は形作られています!

高藪城や3郭4郭5郭などもアバウト

フリーハンド配置でなく測量した物

 

◆みんな

すごいよ!城郭ビイスタ論は!

これ動画視聴数5000超える!

 

◆長谷川

慌てないで下さい!虎口と

連動リンクし縄張腺がある。

▼様々なビイスタ腺が存在します

▼この城には複数の

 様々なビイスタ腺が存在します

◆対談者

刈谷城の様なWビイスタ工法は

緒川城にも存在するのですか?

▼刈谷城のWビイスタ工法

◆長谷川   ▲上図

良く観察すると重複ビイスタ+

Wビイスタが存在した様です。

▼Wビイスタ+重複型 ビイスタ

 

 

◆対談者

大きな扇型が重なる重複型

のビイスタは読み取れます?

 

◆長谷川

全体的に見てまとまりのない

屋敷群にも見みえるのです

が全体は一つのグループと

して整合性があると思います。

▼緒川城 重複ビイスタ工法

◆長谷川

増築された段階で各曲輪

に様々なビイスタが存在し

た事かと私は考えています。

◆対談者

それでは次に

村木砦のビイスタ工法

に行ってみましょう。

◆長谷川

村木砦図は略図なので

ビイスタ検出読取は無理

かと思います。辞退します。

◆対談者

チョツト待って下さい東洋随一

の城郭幾何学研究家長谷川

先生しかも『信長公記』講師

の長谷川先生が読めない訳

がない私は先生を沈着冷静

に見ています。さあ村木砦の

幾何学縄張の分析を願いま

す!

◆長谷川

アバウトざっくりではありますが

凡そビイスタ幾何学は読み取

れます。▼村木砦ビイスタ

◆長谷川

赤と青の典型的な重複型

ビイスタ工法も読み取れる。

▼村木砦 重複ビイスタ

▼村木砦 4重複ビイスタ

◆反論者

こんなのデタラメだよ!日本の城

や砦がこんな設計測量で作られ

いるなんて私は信じられません!

◆長谷川

そうでしょうか?黒田如水が縄張

した福岡城なども村木砦以上の

規模ですが、チヤンと日本の城郭

縄張の基礎に従って縄張してます。

▼福岡城 4重複ビイスタ

◆みんな

これはスゴイぞ城郭ビイスタ論は!

僕が長谷川先生の一番弟子です!

いや私が10年前からの一番弟子!

◆有識者

ふふふふ私は40年前から長谷川

先生を知ってました今更騒ぐな!

愛知県大高駅に長谷川先生が

来訪された時に地元の人々50人

が大高駅の改札口突然集合した

何の予告も前触れもないのに!

知る人ぞ知るそれが城郭研究の

金田一耕助長谷川先生の世界!

◆長谷川

いえいえ因みにこのブログ誰も読ん

でないのです!人気が全くが無い!

しょうがないので村木砦動画を見て!

 

『信長公記』原文より引用

十六、村木ノ砦攻めらるるの事

一、さるほどに、駿河衆岡崎に在陣候て、

重原の山岡砦攻め干し乗っ取り、岡崎より

に続き、これを根城にして緒川の水野金吾

砦へ軍勢を出し、村木という所、駿河より丈

夫に砦を作り、駿河衆立て籠もり候。ならび

に寺本の城も人質を出し、駿河へ加担仕り、

御敵にまかりなり、緒川への通路切り取り候。

御援軍として、織田上総介信長御発足たる

べきの旨候。しかしながら、御敵清州より定

めて御留守に那古野へ軍勢を出し、町を

放火させ候ては如何と思召し、信長の御舅

にて候斎藤山城道三かたへ、留守居の軍勢

を一軍乞いに遣わされ候。道三かたより、

天文二十三年(1554)正月十八日、

那古野留守居として、安藤伊賀守大将にて、

人数千ばかり、
田宮
甲山
安斎
熊沢
物取新五
これ等を相加え「見及ぶ戦況、日々

注進候え」と申し付け、援軍に正月

二十日尾州へ着陣候。居城那古野

近所である志賀、田幡両郷に陣を

置かれ、二十日に、陣中御見舞と

して信長御出でになり、安藤伊賀

に一礼仰せ付けられ、翌日御出陣

候はんの所、一おとなの林新五郎、

その弟美作守兄弟不満を申し立て、

林が与力荒子の前田与十郎城へ罷り

退き候。御家老の衆「いかが御座候

はん?」と申し候えども、さきの様に申し

候「苦しからず」の由、上総介仰せつけ

られ候て御出陣。その日はものかわと

言う所に馬を休め、正月二十一日熱田

に御泊り。二十二日もっての外に強風候。

「御渡海なるまじき」と主水、舵取りの者

申し上げ候。「昔の渡辺、福島にて逆櫓

争う時の風もこれ程こそ候らめ。是非に

御渡海あるべきの間、舟を出し候え」と、

無理に二十里(80km)ばかりの所、只半時

(1時間)ばかりに御着岸。その日は野陣を

掛けられ、すぐに緒川へ御出て、水野

下野守に御参会候て、ここもと様子よく

よく聞かせられ緒川に御泊り。

一、天文二十三年(1554)正月二十四日
夕方に御出陣し、駿河衆立て籠もり候

村木の城へ取り懸け攻められ、北は難所

手空きなり。東は大手(正面口)、西は搦手

(裏口)なり。南は大堀霞むばかり茶碗形に

堀り上げ、丈夫に構え候。上総介信長、

南の方攻め難き所を受けもち候て、軍勢

出されて、若武者共我劣らじと登り、

突き落とされては又這い上がり、手負

い、死人その数を知らず。信長堀端に

御座候て「鉄砲にて狭間三つ攻めよ」

の由仰せられ、鉄砲替え替え放させら

れ、上総介殿御下知なさるるの間、我も

我もと攻め登り、塀へ取り付き、突き崩し

突き崩し、西搦手の口は、織田孫三郎殿

攻め口。これまた攻め寄るなり。外丸への

一番槍は六鹿と言う者乗り入るなり。

東大手の方は水野金吾攻め口なり。
城中の者働く事比類無き働きなり。

しかりと言えども、隙を見せず攻め

立てられ、城内も手負・死人、次第

次第に無人になり、様々降参申し候。

もっとも攻め滅ぼすべき事に候えども

手負・死人塚を築き、その上、既に

薄暮に及び候の間、降参の旨に任せ

、水野金吾に仰せ付けらる。信長御小姓

衆歴々その数を知らず手負・死人、目も

当てられぬ有様なり。辰刻(午前8時)に

取り寄せ、申の下刻(午後5時)まで攻め

させられ、御存分に落着候。御本陣へ

御座候て「その者もその者も」と仰せられ、

感涙を流させられ候なり。翌日は寺本の

城へ御手遣。麓を放火し、これより那古野

に至って御帰陣。

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