山崎合戦 賤ケ岳合戦 心理面の勝因は? 灯 篝火
◆質問者
夜間東京から新幹線米原下車
した人々の心持ちは何です?
◆長谷川
米原駅下車した時の町の灯り
の少なさ照明の弱さ暗さにあ
ると思います米原停電と誤認
するような心細さに襲われる
事があります。新幹線の各駅
は照明盛んで明るい事が特徴
である事が一般的と言えま
す米原町駅の暗さは心細く
感じる事が私はありました!
◆質問者
今回の投稿の要点は何ですか?
戦国大合戦の場合は何ですか?
◆長谷川
合戦の陣営とは篝火を旺盛に焚
いた陣営が勝利する事が重要で
大勢力に見せる夜間演出が勝因
◆反論者 アンチ 長谷川派
長谷川氏の講演講座見学会など
が滋賀県湖東部で盛んと見える
が合戦の「陣営」に篝火の数は
関係ない事だと思います従って
「営」の漢字に「火」「灯」は
全く関係のない事でしょうが?
長谷川氏の論説は的外れの事だ
▼甲賀の城 高土塁 甲賀の城
◆長谷川
土+成=城の漢字な訳ですよね!
そうは言われても日本国の城郭
の10%は石垣の城で90%は土の
城だが土の城無視の人が多い事!
世の中人々はルーツを探らない!
営 の漢字の元字は
營 である事ですね
つまり火や灯りの事
陣営には🔥火が必要
◆長谷川
宣教師 ルイス フロイスが
織田信長時代の岐阜城下訪問
して岐阜の街はバビロンの様
に夜も灯りを灯して働いてる
つまり信長の城下の殷賑ぶり
繁栄を記録しておりますから
古今「灯」や「篝火」が重要
繁栄の栄も🔥🔥と言う事です
松明や夜間照明は重要事な事
◆質問者
新聞記者は「夜討ち朝駆け」と
よく言われますがこの言葉自体
戦国時代の言葉の名残りですね?
◆長谷川
本能寺の変などは夜から朝に
かけて明智光秀が到着してる
ので朝駆けの戦いと言えます。
◆質問者
英語で夜勤の事は何と言います?
night shift ナイトシフトですね!
◆長谷川
秀吉は山崎合戦も賤ケ岳合戦も
ナイトシフト「夜の態勢」にて
勝者になっていおります。前者
は午後から山崎で合戦が開始さ
れ夜間になり明智光秀が勝竜寺
城に籠城体制を取ったが夜間に
なり明智光秀方の将兵が秀吉方
陣営の篝火の多さに怯えて次々
と山崎から離脱する敗走兵達が
増えた勝竜寺城から坂本城へと
光秀自身も夜陰に紛れ敗走する
ところで戦死してしまった現実
があります。如何に丹波王とし
て織田信長を本能寺に葬っても
たかが丹波近江の明智光秀方に
味方する人は少なかったと言う
事、秀吉は合戦勝利して淀古城
に入城して味方全軍の陣営には
篝火盛んに焚かせた事でしょう
敗組明智将兵は自己生命保身の
為に離脱するしか方法がない訳
です。もう四面楚歌の負け戦!
◆長谷川
秀吉の賤ケ岳の合戦も夕刻から
美濃大返しによる松明の篝火が
陸続と北国街道に続いた場合は
さしもの猛将佐久間玄番盛政も
大岩山、岩崎山陥落させ賤ケ岳
を落城寸前までに追い込んだが
羽柴秀吉の大軍の篝火見たら彼
が如何に猛将でも多く雑兵達は
戦場から逸早く離脱する者達が
多かったと思います。秀吉は前
田利家に我らの篝火が見えたら
前田は北陸に撤退して欲しいと
戦前に既に交渉し打ち合わせし
ています。湖北平野木之本平野
に無数の篝火を見たら人間とは
底知れぬ恐怖に襲われて逃亡の
心理が働く事が当然と思います。
秀吉の美濃大返しの陸路に食料
や篝火を用意したのはこの地か
秀吉へと仕えた大谷吉継や石田
三成達の戦端補給部隊ロジステ
ックな要素だったと私は思う事
石田三成は篝火に固執した人!
◆反論者 アンチ長谷川派
長谷川さんの講演会が好評な事
が気に食わない!石田三成自身
や篝火の関係は何もない訳です!
◆質問者
石田三成辞世の句とは?
◆長谷川
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり」
ある年の見学会で
8月22日眼下に望まれた景色こそ
が三成の言う筑摩江だった訳です。
◆質問者
何故羽柴秀吉は秀長に命じ
て長浜市丹生谷の小原へと
木之本町黒田の住民を夫丸
に駆り出しているのです?
◆長谷川
長浜市高時川上流は丹生
谷丹生川と呼ばれてます。
小原は越前岐阜方面とも
間道を通して通じてます。
秀吉は高時川上流丹生谷
へと作業員を派遣してる
間道閉鎖と警戒を彼は抜
かりなく怠ってません。
また古代は余呉が越前
への正式通路ではなく
高時川上流こそが元来
越前への正式な路でした。
◆質問者
余呉東野山城を見学しま
した。何故高時川上流の
丹生谷に掘を深く土塁を
高く構築してるのです?
◆長谷川
賤ケ岳の合戦は北国街道
余呉庄を中心とした合戦
なのですが歴史現実とは
常に異なっている事があ
ります。歴史は勝者が記
録しており自分達に都合
の良い事を書いています。
東野山城が丹生谷側土塁
が高い事は丹生谷に軍事
緊張が存在した証拠です
城を見る基本は土塁が何
にむかって高く敷設して
いるかを知る事こそ基本。
◆質問者
長谷川先生と余呉町の下
丹生砦や摺墨砦を見学し
て驚いた経験があります。
丹生谷に賤ケ岳合戦の時
の軍兵が進駐したのなら
堀秀政方の将兵は坂田郡
へと戦利品を持ち帰る事
は当時の社会現象だった
のでしょうか?
◆長谷川
伊香郡の将兵が犬上郡に
侵攻した場合伊香郡へと
戦利品を持ち帰ってます。
信長は今川義元の佩刀を
分捕ってますそれが戦国
戦利品で戦国期の社会の
特徴であつた現実歴史が
あります。例えば賤ケ岳
城の陣鐘は木之本黒田の
大澤の寺に返して欲しい
旨の嘆願書は残ってます。
◆長谷川
22年8月22日の米原歴史
紀行の結果報告をします。
先ず米原駅を出て米原氏
の城館の跡の水堀見学を
致しました。これが①番
次に小谷吉継の首塚見学
を実施致しました②番と
言う事になります。
そこからは米原太尾山城の
形状がよく視認出来る位置
でした。太尾山の東山麓に
は大谷と呼ばれる小字に館
跡が残っております。その
道は8月22日に見学解説し
ています。
◆質問者
うかしいじやありませんか?
大谷吉継は長浜市小谷出身
説はもう定番になって来た
何故米原に大谷吉継の首塚
があるのですか?変ですよ?
◆長谷川
そこは自分で考えて下さい。
余呉町の小谷は明治期大谷
と書いた事誰もが知ってる。
◆長谷川
次の見学場所は願乗寺所蔵
の余呉町菅波地区から米原
に梵鐘が移動された事です
太鼓櫓と梵鐘見学しました。
これが③番見学になります。
これは城郭の門矢倉の見学。
真宗寺院様で言う、太鼓門。
鐘の丸の語源は梵鐘を城内
で打った事が始まりで陣城
では陣鐘を使います。
◆歴史探訪愛好家
そんな素晴らしい探訪会なら
何故ブログで事前に紹介しな
いのですか?
◆長谷川
私ブログは誰も読んでません
読んでいてもせいぜい数名様
紹介しても意味がない訳です。
◆質問者
うかしいじやありませんか?
何故余呉丹生谷菅波の岩本寺
六所権現の梵鐘が米原に存在
するのですか?
◆長谷川
そこは自分で考えて下さい。
井戸町踏切も見学しました。
有名な井戸村与六作職書付
(さくしきかきつけ)を是
非とも思い出してください。
これが本日の④番目見学。
◆長谷川
次に向かった場所は岩脇山
城跡と岩脇氏舘跡を見学し
ました。岩脇山山頂にて早
めの昼食を取らせて頂いた
岩脇山が⑤番見学、館跡が
⑥番見学です。⑦が善行堂
で城郭の懸造り「懸造」の
学習を目的としたものです
◆長谷川
次に岩脇山山麓の太平洋戦争
末期に掘削された蒸気機関車
用の退避濠を2箇所見学した。
これが第⑦番の見学でした。
◆長谷川
次に西円寺山砦の竪堀を遠望
しました。これが第8番見学
◆長谷川
次に岩脇道踏切を見学しま
した。これは小字岩脇道か
ら踏切名称がつけられてる
勿論中世はこれが北国道で
あり太尾や番場へと連結
する重要な要衝、通路で
この岩脇道が第9番見学で
す。我々は米原高校へと
向かう途中にトトロの森
女山を見て第10番見学で
またこの土地が「小字」
「ふとんぼ」で太尾坊の
意味です。これが⑪番見
学です。米原坂で合戦が
あったと言う事でここが
米原坂古戦場で⑫番見学
◆長谷川
我々は太尾山「盗人岩」の
巨岩の岩場で暫時休息して
太尾城北城へと向かいます。
これが⑬番⑭番見学場です。
◆長谷川
次に我々は太尾山城南城へ
と大小の櫓台の見学をする
これが⑮番見学と言う事に
▼楼閣のイメージ
◆長谷川
無事下山して山麓の湯谷神社
に参拝休憩した後に解散しま
した。これが16番見学でした。
◆歴史探訪愛好家
是非参加したい見学会の様子
です。城郭と歴史と交通歴史
を関連づけて見学されてます。
◆一般様
随分と余呉と米原は関係が
深い事を知って驚きです!
◆質問者
長谷川先生は北近江の城址
の先生なのですか?
◆長谷川
私とは今はもう湖東の人間
なので余呉とは関係ない人