城郭 長谷川博美 基本記録

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地味に近江佐和山城の登り塀跡 白鳩山南城基壇余話

2023-11-19 20:54:36 | 民俗学

地味に近江佐和山城の登り塀跡

 

◆834様

僕は林谷山城の登り土塁見学

を希望したが、天候の関係で

長浜市の白鳩山城見学会へと

参加を致しました登り土塁

の大切さ最近痛感してます。

◆長谷川

今度令和5年11月26日城歩会で

伊賀型城郭を見学致します伊賀

と北近江の城を比較見学する事

により城郭の地域性や近江の城

の特徴も再認識可能かと思いま

す。ところ変われば城も変わる

そんな広範な歴史遺跡視座確立

こそ城歩会で大切と思います。

皆様と体験学習会を私は希望し

ます。

 

◆634

さて坂田郡焼尾城も竪土塁や郭

堀切や矢倉台が残っていました

私が見た湖北町の焼尾砦は矢倉

や堀が残ってなかつたと思うわ

長谷川先生は冷静な専門家で適

に場所今後指摘されると思う

 

◆長谷川

私450年前に行った事ないので

正しい位置は御答え出来ません。

◆634様

彦根城にも登り石垣が見えます。

佐和山城に登り塀の痕跡あるの?

 

◆長谷川

日本の中世山城には竪土塁遺構

が残っています佐和山城の場合

城郭研究の見地から見て本丸と

金蔵から西之丸の連結施設つま

り繋ぎの構造は必須な訳ですよ。

◆反論者

偉そうに生意気な奴だ!佐和山

城に瓦用いた登り塀などない!

 

◆長谷川

登り土塁の表面に軒丸瓦破片や

石垣の裏込め石が散乱してます。

またこう言った現地遺構の見学

会は城歩会でする予定してます

佐和山城って巨大な城な訳です

一日では見学は到底無理ですよ。

勿論山頂登山へ城ピクは可能だ

が城郭遺跡見学はこれは別の世

界であり別ジャンルや分野だと

冷静に是非とも考えて下さい

城跡探訪は城郭遺構の見学と

は限らないケースや場合があ

る事を認識しておいて下さい。

◆長谷川

  文化財保護の見地からは

軒丸瓦は採取してはいません

偶然表土から露頭していた物

を表土のママ撮影しました。

 

◆みんな

坂田郡白鳩山城の南城で建物

基壇を見学して感激しました!

佐和山城の再見学でも本丸の

建物基壇を見学したいのです。

◆反論者

そんなものないぞ佐和山本丸に

遺構など残っていないデタラメ

をいうのもほどほどにしろよ!

◆634様

無いと言う信号入ったら無理

城を見る気がある人は城歩会

に是非とも宜しく参加下さい

佐和山山頂には遺構が存在!

 

◆一般様

すげえ本物だぜ城歩会つてのは

未知の城発見する力量や既知城

も確実に城郭遺構の見学の人達!

 

◆長谷川

また見学できなかつた佐和山城

の一文字土塁や未知の城郭遺跡

を機会があれば見学しましょう。

◆米原住民様

鎌刃城の一文字土塁って

何処にあるのですかね?

また番場城ってのも何処

にあるのか知らないです!

 

◆634様

もっと根本的な事に気付い

下さい貴方が尊敬する先輩

が鎌刃城の一文字土塁自体

あなたに解説されなかつた

事は尊敬する人が実は誠意

が無かった事を看破する事

 

▼ 米原市西番場鎌刃城

 一文字土塀の痕跡

◆634様

毎日食べてるお弁当の仕切り

全く気付いていない訳ですね?

▲御弁当の常識は

「お城見学の常識」でもある。

 

 

 

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近江 白鳩山城見学会の衝撃

2023-11-19 16:02:09 | 城歩会

 

◆長谷川

あたらしい城郭を発見した時

の人間の衝撃や衝動は如何様

なものであろか?人間の尺度

とは既存既知の情報媒体こそ

を信奉または信仰して新規の

城郭遺跡は拒絶する傾向があ

る事は否定できない。新規の

現実を認めないのが人間社会

の常です。海岸沿いの猿山に

おいてもマウントを取るボス

は猿の山頂の巨岩にマウント

つまり猿社会の山頂に君臨し

て群れ社会を見下しています

しかし賢明な若ザル達は配給

されてたエサリンゴを海岸の

塩水で洗って食べている事で

す。山頂でマウント取るボス

は汚なく汚れたリンゴを食べ

ています。子ザル達の行動は

衛生面から考え斬新冷静適切

です。ボスの歓心を買う為に

リンゴをボスの猿山へと運ぶ

世渡り上手の猿もいる訳です。

なんと浅猿ましい事でしょう。

  ※あさましい

①体制の頂点に立つ権力主義

②体制にすりよる迎合主義者

③冷静に現実を検証したい者

様々社会的価値が存在します。

 

 

◆長谷川

今回の開催にあたり協力を賜

った方々に感謝申し上げます。

当日の資料は2015年の白鳩山

城/焼ケ尾城、発見の期日記載

つまり発見期日2015年のまま

に故意にしておきましたこれ

大きな意義がある現在2023年

で8年が経過している。8年

も経過しているのに白鳩山城

を本気で見学しょうしする人

が全く存在しない訳なのです。

皮肉イヤミで物事を言う訳で

でありませんが西黒田金太郎

山城見学会などの郷土城郭史

の団体様が全くないと言う事

や地元の郷土史家様達や町づ

くり協議会とコンセンサスや

コミニュケーシヨン自体全く

取れてない事も城歩会自体の

致命的な欠点だと認識します。

 

◆反論者

長谷川さんは社交性がない人

コミニュケーシヨン能力不足

人脈人材交流を率先されない

これはでは一生負け組の敗者

 

◆対談者

城歩会は地域集団や町興しの

集団とは異なります。城跡を

見学して歩む現実体験学習会

 

◆長谷川

そう勝手に私を定義づけされ

ては困ります。今回の見学会

では近江の山河の展望や紅葉

など観光や城ピクニック要素

も含まれておりました見学会

の後の喫茶店での茶会開催を

致しましたが来訪した地元の

米原の店は珍しく長谷川先生

が同行の人を連れて、来店を

された事により喜色満面であ

った表情を見逃してならない

と思います。米原の飲食店舗

を訪問して城歩会の食事会を

計画している旨を伝えてた時

も長谷川の名前を聞いただけ

で門前払いを受ける始末の店

も商業や店舗経営する者とは

本来客を選ばす良い御客様を

冷静に選択し継続していくも

のだと思います。

 

 

◆参加者

白鳩山城登山の途中の紅葉が

美しかったです。晩秋満喫!

◆参加者

レイクブールの琵琶湖が見えて

私は近江に旅行に来た事を認識

いやあ~今回の企画最高です!

◆質問者

雨降らなかったのですかね?

私から見れば無茶な企画に?

 

◆洞察者

なんと言う天候天気を素早く

読取り参加者の人心を汲取る

類稀の気転は諸葛孔明的軍師

的天候を最大限に活かす行軍

 

◆長谷川

賞賛は無用に願います。参加

された方々の御協力や努力や

御尽力の賜物と思う事が大切

参加される人は御客様でない

大切な身内で安全面に気配り

を怠らない事が重要な事です

当日西風が強かった場合には

東の深い堀切底で食事をして

参加された方々の体温低下を

防ぐ気配りや冬の山城見学の

常套、防寒に気を配る事です

冬場の城見学は寒風を避ける

為に土塁の内側や深い箱堀の

底で一時退避する用心が必須

 

◆長谷川

写真は真実を映しています。

名越越え北城の段築の様子。

賤ケ岳城見学会における

余呉別所山城の雛段遺構「圧倒的迫力」

▼比較研究画像 米原市磯山城址 雛壇状租塞遺構

◆参加者

世話人様が企画されたら雨は

絶対降らないジンクスあるし

長谷川先生が講師される城郭

ならゼッタイ見応えある遺構

と直観で感じて急遽参加です。

堀底へと入ると戦国時代へと

行った様な不思議な感覚です

山城には殿だけではなく姫も

いたと思います。普段生活を

している現代とは違う空間へ

時空旅行が出来るのも山城の

見学会の魅力だと思います。

◆参加者

二重堀切って初めて知ったのです。

二重に堀を掘っている事なのです。

◆参加者

長谷川先生の見学会は城郭

探訪会でないのです城ピク

ならどこでも誰でも出来る

磯山なんかキッチリと先生

が指摘される事を傾聴して

おけば名越城見学した時も

値打が全然ちが訳ですよ!

気付き城郭見学会ですよ!

これ湖北の城の深さです。

行くだけ城ピクから一歩

前進進歩した城郭遺構の

見学大事な事なのですよ。

◆おっちやん

寒いけど仕事が空きなので

参加しましたんやがなホナ

パンとかカロリーメイトや

美味しい羊羹が出たのです。

副食ゲットしラッキーどす。

◆参加者

今回は様々な堀切を見学写真

も取る事が出来て満足でした。

何より雨に打たれなかった事。

 

◆参加者

しかし霊峰伊吹は冠雪が見え

ました。寒い。寒い。寒い。

 

◆長谷川

今回の見学会は途中アラレも

少し降りました。また木枯ら

の強い冷風が吹き付けてた

事は参加皆様に御迷かけけま

した。ここは一息暖かい喫茶

店へと向かい参加者様の暖を

とる事を考えて城歩会茶会を

開催しました。

 

◆一般様

男性陣 渋カッコイイわね!

◆長谷川

浜ちやんの安堵と柔和な表情

山中の表情と街中の表情では

全く違う物腰が観察できます

手を差手させて事業所の営業

マンとしての柔軟性が出てる。

御客様いらっしやいポーズ!

そこにジェントリーと紳士性

品格が表出していおりますね。

◆長谷川

城歩会伊賀の陣は令和5年

11月26日です皆様宜しく。

 

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令和5年 余呉新城郭発見見学会 下見

2023-11-19 14:39:05 | 城址見学会予定 

緊急報告

  真に申しわけありません

 現地の気温の低下そして

 また雨天の天気予報の為

 参加者様の健康面に配慮

 し余呉城郭研究会様より

 11月18日の見学会の実施

 は中止の方向で協議され

 るとの連絡が入りました

 歴史城郭愛好家の皆様に

 は重ねてお詫びを申し上

 げます。また晴れた好日

 を選んで見学会に行ける

 事を謹み期待を致します。

長谷川博美

  11月15日正午記します。

 

令和5年 余呉新城郭発見見学会 下見

 

ウイッキぺデイアより引用

受 勝照(めんじゅ/めんじゅう[7] かつてる)は、

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

柴田勝家の家臣。は初名を照景、後に照、

勝照と改めた。異説として吉親とするものも

ある[1]通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、

後に勝介(勝助)となった[2]

略歴[編集]

尾張国春日井郡稲葉村(現在の愛知県尾張旭市

稲葉町)の人[8]新居城[9]水野良春の4世孫の

毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、

姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。

12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓

として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、

1万石を与えられるまでになった[10][8]

17歳の時、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め

従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が

一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。

勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入

って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、

自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。これを

勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに

喜び、精兵を派して家照を救った[11]

勝家は荘介に諱を与え、自身の名前の一字「勝」

の字を与えて、字を勝介に[12]、あるいは諱を勝照

と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」

の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍

羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟した

が、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように

進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて

出陣[12]。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」

を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は

兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を

扶養することを頼む。しかし義を好む母に対して

それは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否

して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」

と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の

脱出の時間を稼いで、討死した。享年25[12]

秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、

毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は

尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野

に戻したと云う[12]

毛受勝照 (家照)
「太平記英勇伝三十四:毛受荘助家照」
落合芳幾作)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄元年(1558年)8月
死没 天正11年4月21日1583年6月11日
改名 照景→庄助家照→勝助勝照
別名 照景、家照、吉親[1]
通称:庄助・荘助・荘介、勝助・勝介[2]
戒名 榮中院殿繁室永昌居士
墓所 滋賀県長浜市余呉町全長寺、愛知県尾張旭市稲葉町少林寺
主君 柴田勝家
氏族 毛受氏
父母 父:毛受照昌
兄弟 [説1][3]茂左衛門勝照
[説2][4]勝惟、勝照、吉勝
[説1]照清 [6]
[説2]重之 [4]

毛受兄弟の墓_毛受兄弟の墓

◆世話人様

18日の本番見学会の為

令和5年11月14日 余呉城郭研究

会様の恒例の林谷山陣城の下見や

安全確認に行って来ました。

 

◆長谷川

この土塁の中の林谷山陣城に置いて

25歳の若さで壮烈な戦死を遂げた人

が居た事は忘れされがちになります。

令和5年11月18日余呉城郭研究会の

講師として現地の砦の様子をつぶさ

に検証致します。世話人様が新発見

した林谷山とは上記兄・茂左衛門の

最期の砦であつた可能性もあります。

皆様におかれましては宜しく御参集

のほど重ねて願いをいたします。

 

◆反論者

ふん何が最期の戦い林谷山砦じや!

そんなもん、勝てば官軍、負ければ

賊軍の習いは世の常よ!大学受験で

は合格する!選挙に出たら当選する。

世の中すべて、数かず、員かずこそ

がモノ言う、昨日までボクシングの

チャンピンだった奴も負けた瞬間か

ら友達が全員なくすものよ!ふん!

 林谷山の砦に200人で毛受兄弟が

奮戦しても兄弟の首は勝者羽柴秀吉

の武者どもに打ち取られる事は決ま

っとる。これは武士道の恥じと思う

世中は勝者、勝ち組こそが天下国家

を差配するマウント主導権を握る者

何が負け犬長谷川の林谷山砦などの

見学に向かう奇特な人があるのか?

 

◆質問者

余呉の紅葉は如何でしたか?

◆長谷川

紅葉の色は艶やかでした。それより

山林から発生する秋の香りが最高。

 

◆質問者

クマよけ鈴や鳴り物は持って行った?

 

◆長谷川

用心の為に持って行きました。

◆質問者

林谷山城の遺構はどうでしたか?

 

◆世話人様

犬走や土塁は明確に見えました!

犬走土塁は城郭見学の基本です。

これ天正11年賤ケ岳合戦の現場

柴田方の戦線が残っております。

 

◆634様

私は現地の現実に存在する現場を

素直に見学する城址見学者です。

 

◆一般者

400年以上も前の城の壁の跡が残って

いるのですか?これ本当の事ですか?

◆世話人様

残っているから感動する訳です!

観光看板や石碑の行楽遠足主流

の観光と分野が違う現地見学会

です。誤解されては困ります。

400年以上前の城壁つまり土塁

見学する私が存在致します。

私は私なのです。遺跡を見学

する冷静な私を持っています。

 

◆長谷川

現実や真実の世界

リアリズムの世界

ドキュメント世界

ビュアー純粋な心

これこそ城郭見学

後の世に作られた

偽物ではない本物

▼世話人様が発見された新城郭

の登り土塁の現場写真「昨年」

◆質門者

新発見の砦の規模や長さ何mですか?

 

◆長谷川

A~Bまで

約55m30間の長の規模です。あ郭

近辺見落とさない事を勧めします。

これを削平段や郭跡とも言います。

勿論林谷山は440m土塁長城です。

当日は林谷山口の砦も見学します。

◆高齢者様

どうやつて参加を申し込めば

良いのですか?ラインアカウ

ントの意味や技術については

いけないのですよ。困った!

電話予約もOkと聞いてます!

こんな素晴らしい遺跡発見

されたんでしよ!?素晴ら

しいフイールドワークです!

 

◆反論者

こんな土手を見て何が楽しい?

 

◆長谷川

西南戦争の現場には土嚢土塁

や竹矢来が合戦インフラです。

やはり現場施設の根本ですよ。

◆長谷川

万里の長城も土塁つくりの場所

がある訳です。人類とは城壁を

作り戦線を築造する習慣を持っ

ています。これが人類の歴史

歴史的速報 : 万里の長城がめっちゃガバガバな件

◆長谷川

私は何もむずかしい事を言って

はいないのです。歴史の現場に

必ず長城や壁の跡が残っている。

余呉にも賤ケ岳合戦の壁の跡が

つまり林谷の長城が残っている。

だから、東方見聞録じやなくて

城郭見聞録として林谷山陣城を

厳選セレクトしていた訳です。

 

◆長谷川

やはり土塁見学は古戦場見学

の根本理念にして基本です。

 

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