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城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №3

2019-06-06 02:54:56 | 剣熊考
剣熊考 №3
◆滋賀県高島市の剣熊周辺で興味ある言葉とは?
「浦」なる地名には興味がわく、越前(福井)の方言では「ウラ」は自分の事を言う

私〈自称代名詞〉。 うら、いなんだで、なーも知らんのやって
例として(私はいなかったので、何も知らないんだ)
※ 嶺南(木の芽峠より西の若さ方面)では「わし」〈男〉、「うち」〈女〉。を使うが?
また うら は(和歌山の方言)でも使われるとされる。私独自の「連鎖思考」で考える
ならば吉備国に留意したい。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
温羅(うら/おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
温羅と吉備津彦命に関する「温羅伝説」が有名である。
滋賀県高島市の「浦」と言う集落名の「浦」なる地名には強く興味がわくからだ。
なぜなら高島の「浦」は現在では湖岸と言うよりも内陸なのである。
吉備国は きびこく とも読める。敦賀市のれ気比地名とも多少が関係あろうか?

◆鬼の国とは何か?
大変飛躍した発想を先ずお詫びするが『魏志倭人伝』には卑弥呼の国より北には
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 の国があるとしている。

鬼國 キコク を吉備と解釈し
為吾國 イゴ を伊賀国と解釈し
鬼奴國を キノ 紀国と解釈し 紀伊国屋文左衛門?
邪馬國を ヤマを山城や大和の「ヤマコク」と京都盆地や奈良盆地と解釈し
躬臣國を近江 ユオミを近江国と解釈すると大変幻想的で楽しいのであるが? 
また巴利國を播磨国と解釈すると播磨の国は元来「針間」はりま と木簡に
記載された国であるから、またまた、楽しいのであるが、言葉遊びをこれ位にしたい。

◆つの 角のある鬼の様な人とは?気比は吉備にも音が近いが?
都怒我阿羅斯等 つぬがあらしと
『日本書紀』にみえる意富加羅(おおから)国(朝鮮)の王子。
崇神(すじん)天皇のとき渡来し,垂仁(すいにん)天皇に3年間つかえた。
帰国の際に崇神天皇の御間城(みまき)の名を国名にするように命じられ
赤絹をあたえられた。帰国後,国号を弥摩那(みまな)にかえたという。
于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)ともいう。
また意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、地名越前「敦賀(つるが)」
の由来の人物といわれる。

『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京諸蕃 大市首 - 出自は任那国人の都怒賀阿羅斯止。
左京諸蕃 清水首 - 出自は任那国人の都怒何阿羅志止。
大和国諸蕃 辟田首 - 出自は任那国主の都奴加阿羅志等。

◆大和国諸蕃 辟田首 と関係する越前地名とは?
飛躍的かもしれないが越前疋田は愛発「アラチ」の地でもある。
中世には疋田氏の引壇城が存在し疋田からは半島製の太刀も出土
している。

◆越前敦賀郡の『延喜式神社』の世界とは?
私にとり魅惑の神社名が網羅的に記されており大変魅力的である。
特に棒線の神社は留意して読んでもらいたい。


◆高島市の「浦」の集落には都怒賀阿羅斯止の「阿羅」地名が隠れているのか?

大荒比古鞆結神社 (おおあらひこともゆいじんじや)の「アラヒコ」には阿羅地名が隠れているのではないだろうか?
高島市マキノ町浦627
大荒比古鞆結神社のあるマキノ町について
全国でも珍しいカタカナの町・マキノ町は滋賀県の北西部、高島市の最北端に位置する。東・北・南の三方を山に囲まれ、
知内川・百瀬川の2大河川によって形成される谷上盆地と沖積平野は、町の中央部から南西部に広がっている。町域には
スキー場野他、自然を生かした施設が多くある。ともある。『太平記』に記された「剣の曲」けんのくま が大変な古代
交通の要衝であった事が類推される。
◆熊野信仰と剣熊は関係あるのか?
あるのではないだろうか?

◆天熊関とは何か?
『角川地名辞典25滋賀県』によると以下の如くあり、剣熊は天熊などの地名や関所機能は引き継がれたと思われる。

◆剣熊考はまたまだ続きますお楽しみに、、、「微笑」


剣熊考 №2

2019-06-05 19:02:22 | 剣熊考

『黒河越え - 敦賀の歴史』を引用させて頂くと
「北陸道の間道になった黒河(くろこ)越え
平安時代(927年)に編さんされた『延喜式』によれば、奈良時代には北陸への交通の重要地点であったマキノ町域
(現滋賀県高島市)に官道が通り、「鞆結(ともゆい)駅」が設置されていた。この鞆結駅から最短距離で敦賀松原駅に
至る黒河越え(白谷越え)がある。しかし、琵琶湖の水運の拠点である海津、大浦、塩津からの連結によって、鞆結駅
ー小荒路―野口―路原―国境―山中―駄口―追分―疋田―市橋―小河口―道口―敦賀に至るコース(七里半越え)が官道となった、
と思われる。黒河越えは七里半越えの間道になっていった。
鞆結駅の比定地は、「鞆結・北鞆結・大道東・大道西」などの地名が残る「石庭地区」と、「鞆結神社」が現存する
「浦地区」の二つがあるが、石庭説が有力である。黒河越えは別名白谷越えと言われ、白谷地区は石庭と黒河峠を結ぶ
一直線の間にあることから、石庭説に無理がない。また、鞆結神社は石庭にあったが、管理上浦地区に移転したと伝え
られている」とある。また
大荒比古鞆結神社 (おおあらひこともゆいじんじや)
高島市マキノ町浦627
大荒比古鞆結神社のあるマキノ町について
全国でも珍しいカタカナの町・マキノ町は滋賀県の北西部、高島市の最北端に位置する。東・北・南の三方を山に囲まれ、
知内川・百瀬川の2大河川によって形成される谷上盆地と沖積平野は、町の中央部から南西部に広がっている。町域には
スキー場野他、自然を生かした施設が多くある。ともある。『太平記』に記された「剣の曲」けんのくま が大変な古代
交通の要衝であった事が類推される。
◆熊野信仰と剣熊は関係あるのか?
角川地名辞典(滋賀県)を引用すると以下のような魅力的な記述が掲載されている。

これまた角川地名辞典(滋賀県)には魅力的な記述が掲載されている。

どうやら熊野信仰は長浜市西浅井町集福寺だけでは、ないようだ。

今夜は何故か執筆に疲れた。「微笑」 小荒路の 角川地名辞典(滋賀県)を引用したい。




 

下塩津神社彷徨

2019-06-04 03:18:09 | 剣熊考
下塩津神社彷徨
令和元年6月、仕事も友人も話し相手も無い、私の車は、長浜市西浅井町集福寺の集落へと迷い込みました。
途方に暮れる甲斐性無き弱き私の人生の混迷と言えます。とにかく一度車を駐車させ焦る気持ちを落ち着かせ
る為に、某神社の前で休憩する事にしました。神社の石柱をよくよく観察すると式内下塩津神社と読めました。

 ああ私は人生に挫折し道に迷い仕事は全くありません。友達を作ろうと必死にもがいても努力しても人は逃げ
て行くばかり自分の人徳の無さに絶望し、昔の武士ならば「弓箭の道すでに及ばず」と自害した事と思います。

 私は塩津の北で落胆し悲しくも『太平記』のある一節を思い出しました。

『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。↓河野通治一族の供養塔と考えられる石塔。
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河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。

 さてさて、気分の晴れない投稿になりましたが「私の本質は研究家です」。
文面の中にも見の曲(嶮の曲?)なる文言から私は研究のヒントを得ました。
また下塩津神社の由緒書きにある熊野からも、私は大きなヒントを得ました。