爆発的にヒットした一枚である。もちろん、先日実家の倉庫から発見されたシングルレコード群の中の一枚だ。講談師・二葉百合子による「岸壁の母」。私は好きである。涙なくしては聞けない。もちろん、ふざけているわけではない。この曲が流行した頃、私はまだ子どもだった。人々の中に戦争の傷跡へ思いが確かにあった。語りつがれてもいた。思えば、戦争の悲劇に対する感受性が正常に機能していたのは、この時代が最後だったのではないだろうか。
戦争で行方知れずになり帰ってこない息子を、引き上げ船が来るたびに港へ探しに出向く母の姿。まっとうな日本人のまっとうな感受性、そしてまっとうな平和への願いだ。
現代の若者たちは、そして大人たちは、この「岸壁の母」をどのように聞くだろうか。涙して聞く感受性を持ち合わせているだろうか。それともやはりパロディーでしかないのだろうか。
いつの間にか、時代は大きくかわった。アフガン戦争、イラク戦争、日本の戦争へのかかわり。自衛隊の海外派兵は普通のことになった。世の中は、右傾化したといわれる。インターネットの掲示板をみると、確かに国家主義的な言説が渦巻いている。自らの考えにあわない相容れない言説を「サヨ」ときって捨てる硬直的な思考が渦巻いている。
しかし思えば、こうした時代を準備したのは、「自由な」戦後民主主義だったのだろう。大正デモクラシーの風潮が昭和のファシズムを生み出す母体だったようにだ。けれども再び思う、政治理念や人々の考え方の変化は、理念や政治状況の変化以前に、歴史の根底にあるもの、すなわち戦争や他者の生へのまっとうな感受性が後退したことに起因するのではなかろうか。
だから問題は難しい。理念や理論であれば議論することもできよう。けれども、「気分」や「感性」的な事象は自己充足的なことが多い。閉じられているのだ。インターネットの掲示板の不毛なことばたちをみるとそう思ってしまう。
80年代に影響力をもった浅田彰は「時代の感受性を信じる」といった。彼はいまでもそう考えているだろうか。
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