WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

原発問題をめぐる言説

2011年05月05日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 311●

RC Succession

Covers

 

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 ほとんど毎日のように更新されていた《よく読むブログ》の 「JAZZを聴きながら」が、4月5日の「嘆きの鰹」という記事以来更新されていない。恐らくは福島の原発の問題と関係があるのだろう。心配だ。

 RCサクセションの1988年リリース作品『カヴァーズ』である。全篇ロック/ポップの名曲に日本語の歌詞をつけたカヴァーアルバムだ。反原発・反核の曲を含むことが問題となり、東芝EMIからの発売が中止されたことを憶えている。日本の原子炉サプライヤーでもある親会社の東芝から圧力がかかったためだ。この”汚い”話を知り、自分の住むこの日本社会に本当にがっかりしたものだ。もちろん、20代後半だった当時の私は、世の中がきれい事だけで成立していると考えるほどピュアではなかったが、現実にそのことを突きつけられてみると、やはりショックは大きかった。

 実際、この類の”汚い”話は他にもたくさんあるようだ。例えば、京都大学には「熊取6人組」と呼ばれる反原発の立場から今回のような大事故を警告し続けた学者たちがいたようだが、彼らは学会では冷や飯を食わされ続け、昇進や研究費などでもあからさまな差別を受けてきたらしい。優れた研究者でありながら万年助手に甘んじた彼らは、政府はもちろん新聞やテレビなどからも無視されづづけ、原発問題に関するマジョリティーは政府や電力会社と癒着した推進派の学者たちによって形成されてきたという。(詳しくは→こちら

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 ところで、思い返してみると、少なくともこの『カヴァーズ』がリリースされた1988年頃までは、社会の一部に、少数派ではあれ反原発を主張する人々が確かにあるポジションを占めていたのだということに妙な感慨をもつ。その後、バブル期を通して、我々の社会は豊かでポップな生活を求めるようになり、反原発の声はほとんどかき消され、「なんとなく賛成派」や「あえて触れない派」や「仕方ないんじゃない派」が多数を占めていった。原発をめぐる論争は留保され、人々は原発問題を考えることを回避するようになったように思う。「なんとなく反対派」だった私も、恐らくは、そのうちの一人だ。

 福島の原発問題で、我々は再びきちんと考えなければならない場所に立たされた。けれども、そうしようとするたび、これまでの原発をめぐる言説に違和感を感じてしまうのはどうしたことだろう。違和感とは、例えばこういうことだ。

  • 今朝も、被害者たちが東電社長に罵詈雑言を浴びせ、土下座させた映像がTVに映し出された。何か違う気がする。原発のために生活の場を奪われた被害者たちの気持ちは痛いほどわかる。しかし、原発誘致に賛成し、巨額の補助金の恩恵にあずかってきたのもまた、現在の被害者の人たちではなかったか。絶対安全といわれ騙されたのだという言い分もあろう。けれども、絶対安全なものに巨額の補助金を交付することはあろうはずもなく、そのことは地域の人たちも薄々認識していたはずだ。もちろん中には反対した人たちも少なからずいただろうが、地域社会全体としてはやはり賛成したのである。その意味では、特定の地域に原発を押しつけることを黙認してきた我々にも、日本国民として重い責任がある。それが民主主義というものだ。だから、「我々は誤った選択をし、大きな失敗をしてしまった。だからもう一度考え直そう。」、というスタンスが必要ではないか。
  • 原発論争がイデオロギー的な言説で語られてきたことも違和感を感じる原因のひとつだ。右=推進派、左=反対派という単純な図式が成り立ってしまう。私などは、純正右翼や保守派は、古き良き日本の自然と文化を守るため、原発には反対すべきだと思うのだが、現実にはそうではなかったようである。イデオロギーが先にあったため、推進/反対という結論が先にあり、具体的な議論・検討が十分になされなかった可能性がある。推進派が提示するデータも、耐震対策や災害時の復旧・賠償も含めたコスト計算をせず、原発は安全であるという前提で、その低コストを主張するものに過ぎなかった。きちんと議論する前提がなかったのである。また、政治イデオロギーと推進派/反対派がリンクしていたため、マルタ以降の冷戦終結後、論争そのものが「メルトダウン」していき、原発はすでにあるという”現実”だけが残ってしまったのではないか。原発を導入推進することで、日本社会がどう変わっていくのか/あるいはいかないのか、という真摯な議論が必要だった。
  • 東京都の石原知事は、それでもやはり原発は必要だと発言した。福島問題以降のアンチ原発の”ファシズム”の中、ある意味で勇気ある発言だと思う。しかし、やはり違和感を感じる。リスクを誰が負うのかという問題が欠落しているのだ。多くの論者が述べるように、現在の原発問題の大きなポイントは受益者とリスクを負う人々が食い違う点にある。「今回の事故にもかかわらず、原発は必要なのだ」という主張は十分ありうると思う。ただ、リスクを他に負わせ、安全な場所から発せられる言説は無効である。そういった議論は不毛だ。どんな言説にも責任というものが必要なのだ。このことこそ、都市の人々がこの問題をちゃんと考えてこなかった原因ではなかったか。石原都知事は、「原発は必要だ。だから東京につくる。」と語るべきだ。その時こそ、東京の人々も、自分の問題として真剣に考えはじめるだろう。リスクを負った上で、都市の人々が「それでも原発は必要だ」と主張するなら、少なくともひとつの意見として傾聴に値するのではなかろうか。多額の補助金を交付して地方も潤っているからいいのだ、などという言説はもう成り立たない。人間の命を金で買っているのと同様であり、石原氏も嫌悪する「我欲」の最たるものであろう。

 我々は、少なくとも、これまでとは別の観点から、もっと別のスタンスで、この原発をめぐる諸問題を考えなくてはならないのではなかろうか。

 


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